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大阪高等裁判所 昭和31年(ネ)474号 判決

(第四七三号)控訴人(第四七四号)被控訴人(被告) 川崎重工業株式会社

(第四七三号)被控訴人(原告) 遠藤忠剛 外一七名

(第四七四号)控訴人(原告) 中村隆三 外三名

主文

一、控訴人川崎重工業株式会社の控訴にかかる昭和三一年(ネ)第四七三号事件につき、

(一)  被控訴人遠藤忠剛、同尾崎辰之助、同橋本広彦、同赤田義久、同角谷一雄、同篠原正一、同矢田正男、同守谷米松、同西村忠、同久保春雄、同水口保、同石田好春、同神岡三男、同露本忠一および同村上寿一の関係において、原判決を取り消す。

右被控訴人等の本訴請求はいずれも棄却する。

(二)  被控訴人市田謙一、同長谷川正道および同上山喬一に対する関係において、本件控訴はいずれも棄却する。

ただし、右被控訴人三名の関係において、原判決主文第二項を「原告市田謙一、同長谷川正道および同上山喬一は被告会社の従業員であることを確認する」と訂正する。

二、控訴人中村隆三、同谷口清治、同仲田俊明および同田中利治の控訴にかかる昭和三一年(ネ)第四七四号事件につき、右控訴人等の本件控訴はいずれも棄却する。

三、訴訟費用中、右昭和三一年(ネ)第四七三号事件関係については、一、二審を通じ、控訴人川崎重工業株式会社と被控訴人市田謙一、同長谷川正道、同上山喬一および同村上寿一との間に生じた部分は、同控訴人の負担とし、同控訴人と遠藤忠剛から赤田義久にいたるその他の被控訴人一四名との間に生じた部分は、同被控訴人等の負担とし、右昭和三一年(ネ)第四七四号事件関係についての控訴費用は、中村隆三から田中利治にいたる右控訴人等の負担とする。

事実

昭和三一年(ネ)第四七三号事件につき、控訴人川崎重工業株式会社の代理人は、「原判決中被控訴人勝訴の部分(被控訴人遠藤忠剛より同赤田義久に至る被控訴人一八名に関する部分)を取り消す。同被控訴人等の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも同被控訴人等の負担とする。」との判決を求め、同被控訴人等の代理人は控訴棄却の判決を求め、昭和三一年(ネ)第四七四号事件につき、控訴人中村隆三より同田中利治に至る控訴人等の代理人は、「原判決中同控訴人等の敗訴部分を取り消す。被控訴人が昭和二五年一〇月一四日同控訴人等に対してなした解雇の意思表示は無効であることを確認する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人川崎重工業株式会社の代理人は、「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人等の負担とする。」との判決を求めた。

(以下、昭和三一年(ネ)第四七三号事件の控訴人兼同年(ネ)第四七四号事件の被控訴人を被告または被告会社と呼称し、前者の被控訴人および後者の控訴人を原告と呼称することにする)。

一、原告の請求原因

一、原告等は、いずれも被告会社の従業員であつて、被告会社の経営にかかる川崎造船工場の従業員をもつて組織する全日本造船労働組合(以下、全造船という)川崎造船分会に属していたものである(ただし、本件整理当時は、原告尾崎と被告会社東京出張所勤務の原告橋本は、右分会の組合員ではなかつた)が、被告会社は、昭和二五年一〇月一四日附通知書をもつて、原告等をふくむ整理対象者一〇五名に対し、同月二〇日附をもつて解雇する旨の解雇の意思表示をなし、その頃原告等は右通告を受けた。

二、しかしながら、原告等に対する右解雇の意思表示は、以下の理由により無効である。すなわち、

(一)  被告の右解雇は、原告等が共産党員又はその同調者であるという理由だけでなされた、いわゆるレツドパージであり、原告等の思想、信条を理由とした解雇にほかならないから、憲法第一四条、労働基準法第三条に違反し、無効である(その根拠については、後に詳述する)。

(二)  本件解雇は、被告会社の就業規則に準拠していないから、無効である。すなわち、使用者自身もその制定した就業規則によつて自己拘束を受けるものであるところ、被告会社の就業規則は、従業員の解雇について、第十一、十二章に特別の規定を設け、民法第六二七条の解雇権に自己制限を加えている。しかるに、被告会社が本件解雇につき設定した解雇基準(整理基準)は、「会社再建に対し公然であると潜在的であるとを問わず、直接間接に会社運営に支障を与え、又は与えようとする危険性のある者、他よりの指示を受けて煽動的言動をなし他の従業員に悪影響を与え、又はそのおそれのある者、又は事業の経営に協力しない者等、会社再建のため支障となるような従業員」を排除するというにあつて、その解雇基準なるものは極めて抽象的であり、その意味するところが明かでないが、かかる解雇基準は、就業規則第七七条第一項第二号「やむを得ない業務上の都合による場合」もしくは第五号「………第二号に準ずるやむを得ない事由がある場合」のいずれにも該当しないのであつて、右就業規則の基準に達しないところの、新しい労働条件の設定にほかならない。労働条件としてのかかる新しい解雇基準を、労働組合の意見を徴することなく、一方的に恣意的に設定することは、同就業規則第八五条の定める労働組合との協議約款に反して無効であるばかりでなく、かかる新設の解雇基準をその設定前の原告等の過去の言動に遡及して適用することは、許されない。したがつて、本件解雇は、就業規則に拠らない解雇として、無効である。

(三)  右のごとき解雇基準の設定が被告会社の就業規則に基いて許されるとしても、原告等には、被告主張のごとき就業規則違反の事実はない。したがつて、本件解雇は違法であり、無効である。

1  被告主張の「事件別ないし事項別整理基準該当事実」および「個人別整理基準該当事実」に対する原告等の答弁は別紙(三)および(四)記載のとおりであり、しかも、被告が其処であげる事実は、要するに、組合活動と党活動とに分柝されるのである。

2  まず、組合活動の面からいえば、被告が解雇基準に該当するという行為の大部分は、合法的な組合活動である。終戦後育成されたわが国の労働組合は、未成熟であり、一部幹部の考えで争議を幹部が請負うとか、組合員をひきまわすとかの弱点をもつていた。しかし、労働組合の真の強化は、全組合員が意識的に活動することにある。それぞれの職場の切実な経験から問題をとり上げること、職場から闘いを組み、もり上げてゆくことこそ、組合強化の大道である。甲第八号証(昭和二四年末の越年資金闘争の方針書)に職場闘争が強調され、甲第九号証の一(昭和二五年春の賃上げ闘争の方針書)に職場闘争の具体化、職場ごとの波状闘争戦術が述べられているとおり、職場闘争は、組合の闘争方針であり、組合の合法的な活動である。この職場闘争は、単に当時の川造労組の方針であつたばかりでなく、現在においても総評はじめ自主的な労働組合の基本的な方針として広くとられつつあるものである。しかも、かかる組合の闘争方針は、日本共産党川崎造船細胞(以下、川造細胞という)の企画指導したものではない。当時、組合執行部の決定は、多数決制ではなく、全員一致制であつたのであり、一部党員の策動により組合員が動かされたものではないのである。被告は、あたかも職場闘争が細胞の方針や戦術であるがごとく表現し、すべてを原告等が党員として組合と別個に行動したごとくあげつらつているが、その誤れることは、上述したところにより明かである。昭和二四年の越年資金要求八、〇〇〇円に対しては、生産報奨金三、五〇〇円および外国船受註祝一、五〇〇円計五、〇〇〇円で妥結したのであるが、外国船受註祝金は元来越年資金外の金員であり、組合では、当初から、越年資金にすりかえられることを警戒していたものであつた。かような不満の中に昭和二五年春の五割ベースアツプ一二、〇〇〇円の要求が出されたのであり、これは昭和二三年一一月の八、〇〇〇円ベース獲得以来の要求で、是非かちとるべく、全組合員が立ち上つたのであつた。しかるに、これまた一時金二、五〇〇円(税込み)で妥結せざるを得なかつたのであり、このことからしても、この闘争が如何に困難な闘争であり、被告の言及する戦術転換が如何に紛糾したかが察せられるであろう。要するに、被告が集団的不法事件として列挙するところは、かかる闘争もしくは争議中の言動でいずれも合法的な労組活動そのものにほかならないのである。

3  次に細胞活動の面からいえば、被告会社の従業員によつて川造細胞が組織されていたことは、原告もこれを認めるけれども、しかし、およそ労働者も、国民として、一定の政治的信条をもち、特定の政党に参加し、又はこれを支持するの自由を有する。さらに、労働者は、自己の働く経営において経営批判を通じて同僚労働者の政治的意識の昂揚に努める自由を有するのであつて、政党に参加する労働者が経営批判を通じて同僚労働者の政治意識を自己の支持する政党の政策の方向に導かんとすることも又同様に自由といわなければならない。原告等のうち党員であつた者(原告の遠藤、尾崎、橋本、市田、中村、谷口、仲田、田中や元原告の宮崎伍郎、村上文男、矢野笹雄、須藤実、日名克己が共産党員であることは、原告の認めるところである)が党の宣伝を行つたとしても、それらの言動が企業秩序や職場規律に反しない限り自由である。川崎細胞のした機関紙、ビラ等の発刊、配布に関する文書活動は、党活動に属し、党活動の主たる手段であつた。しかし、被告会社の社内で作成、発刊したことはないし、場所を選ばず貼附したことはない。会社内で無断で貼つたこともない(二回例外がある。そうすることの特別の意義と必要のあつた場合であつた)。又就業時間外はとも角として、就業時間内に作業を妨害するような配布をしていない。川造細胞は会社の構外に細胞の事務所や壁新聞板を設けていたのである。又印刷物も会社外で製作し、その配布は会社の構外か、休憩時間中に行つていたのである。

それらの文書が労働者的立場からなされ、偏見をもつ資本家によろこばれなかつたであろうこと、ことに社会的状勢に便乗しようとする被告会社に不快を与えたであろうことは、否定しない。しかし、言論と批判の自由が許されなくては、政党ばかりでなく、労働組合も成立しえないであろう。原告等(ただし、原告の全員を指すのではない。以下同様)細胞の党活動は憲法上も労働法上も違法ではない。

又原告等の細胞活動については、会社は、党員に対しても組合に対しても抗議したことがなく、組合からも党員又は会社に対して一度も抗議していない。したがつて、仮りに百歩をゆずるとしても、原告等の細胞活動は、会社の職場秩序をみだす程度には至らず、会社はこれを黙認していたものである。

いずれの面からみても、原告等には被告主張のごとき就業規則違反の事実はない。

(四)  本件解雇は、不当労働行為であるから、無効である。

原告等の組合歴は、別紙(二)記載のとおりであり、被告が就業規則違反すなわち、解雇基準該当事実としてあげる具体的事実が、原告等の適法な組合活動に属することは、右(三)で述べたとおりである。そうすると、本件解雇は、原告等が現に、或は前に組合の先頭に立つて活発に組合活動を推進していたことを理由として、原告等の組合活動を封殺し、組合を骨抜きにするためになされた不当労働行為である。仮りに、原告等の行動に細胞活動と目されるものがあつたとしても、本件解雇の真の理由は、細胞活動と目されるべき行為それ自体にあつたのではなく、むしろ日頃正当な組合活動を活発に行つていたことにある。そして、かような組合活動が、たまたま他面において、細胞活動としての性格をもつていたとしても、かような活動をとらえて解雇理由とすることは、やはり不当労働行為に該当するのである。したがつて、本件解雇は無効である。

(五)  もし、仮りに、原告等が被告主張のごとく破壊勢力として、現実に会社再建を阻害し、これに支障を与え、従業員に悪影響を与えた者であり、したがつて、原告等の行動が、組合活動にせよ、細胞活動にせよ、従業員としての職場秩序をみだすものとすれば、原告等は懲戒に値いするといわなければならない。また、右の阻害等の危険性のある者、そのおそれのある者についても、その危険性ないしおそれが現実急迫であるときには懲戒に付し得るであろう。就業規則中の懲戒に関する規定は、従業員にとつての保護規定として重大な意義を有するのであり、被告会社と組合との間には、労働協約の失効後も該協約にもとづく懲罰委員会は依然として存続していたのである。したがつて、被告会社としては、本件解雇につき、当然懲罰委員会に諮るべきである。仮りに、当時懲罰委員会がなかつたとしても、本件のごとき懲罰的解雇は、従業員の労働条件の中でも、最も重大な問題に属するから、被告会社としては、組合と討議したうえ、(かかる討議が社会的に要請される。)懲戒解雇に付すべきものであつて、会社の事業上の都合等による普通解雇は許されない。しかるに、被告会社は原告等に対し、かかる懲戒手続をふむことなく、前記就業規則第七七条第一項二号および五号に依拠して、原告等を会社の都合による解雇とした。したがつて、本件解雇は、就業規則所定の手続をふんでいないから、無効である。

(六)  本件解雇は、解雇権の乱用として、無効である。原告等に対する本件解雇は、一〇五名の大量解雇として実施されたのであるが、かかる大量解雇に当つては、組合と慎重に協議すべきことが信義則上要請されるにもかかわらず、労働協約が失効したからといつて、一方的にかかる大量解雇の挙に出たことは、労使関係の正常な在り方からみて、著しく信義誠実の原則をふみにじるものであり、解雇権の乱用として、無効といわなければならない。

(七)  以上の次第で、本件解雇の意思表示は無効であるから、原告等はその無効確認を求める。

二、被告の主張に対する原告の主張

一、辞職願を提出した原告に関する主張

(一)  原告の角谷、篠原、矢田、守谷、西村、久保、水口、長谷川、上山、村上、石田、神岡、露本の一三名が被告会社に対して辞職願を提出し、これにともなう退職金、餞別金等の支給を受領したことは、認める。その辞職願の提出および金員受領の年月日は別紙(一)記載のとおりである。なお、右原告等が被告会社より受領した前記昭和二五年一〇月一四日附通知書に被告の主張するような文面の記載されていることは、認めるが、右通知書は純然たる解雇通告であるから、合意解約の成立する余地はない。

(二)  右通知書は同年一〇月一九日までに退職の申出のない場合は同月二〇日附をもつて解雇するというものであるところ、原告等は同月二〇日以後に辞職願を提出したから、原告等は解雇扱いを受けるべき筋合いである。もつとも、被告会社は辞職願の受附を同年一〇月二三日まで延期したが、乙第五号証にも明かなように「解雇の日附は一〇月二〇日とし、変更しない。ただし、事務上の取扱として一〇月二三日までに辞職願を提出した者は、勧告期間(一〇月一九日まで)中に願出た者と同様、餞別金を支給する」というにすぎないから、原告等はいずれも一〇月二〇日以降解雇扱いを受けることにかわりはなく、餞別金受領の事務手続として辞職願を提出したものである。要するに、原告等の辞職願は、被告の指定した解雇の効力発生日時後に提出されたものであるから、原告等の雇傭関係につき、任意退職ないし合意解約の成立する余地がない。

(三)  原告等には退職の任意性がない。すなわち、原告等は、右(二)に述べたとおり、解雇が必至の運命として強制され、職場より退くと否との自由が奪われ、しかも被告会社は、原告等に対して、会社運営の阻害者、破壊勢力という烙印を押しながら、組合に対しては何等の事前連絡もなく、原告等に対する面接、弁明、交渉の一切の機会を奪い、解雇の具体的理由を指示せず、組合事務所への通行すら拒否した。かような会社の高圧的態度に加えて、警察も又会社の態度を擁護し、武装警官三〇〇余名を派して会社の四囲を固めるという有様であつた。一方、原告等は、右解雇通告によつて忽ち生活事情が窮迫化するに至つた。事態がこのように急迫した事情にあるとき、餞別金が形式的な手続一つで貰えるか貰えないかの瀬戸際に立たされた原告等が、辞職願を提出して餞別金を貰つたからといつて、それが自己の意思による任意退職であるとみることはできない。

(四)  原告等は、真実退職する意思を有しなかつたものであり、しかも、原告等の辞職願は、意思主義による解釈原理が適用される結果、原告等の右内心的意思によつて解釈されるべきであるが、仮りにそうでないとしても、被告会社は、原告等に退職の意思のないことを知り又は知り得べかりしものであつたから、辞職願の提出受理による合意解約は無効である。すなわち、

1  前記(三)に述べた本件解雇通告およびその後に生じた諸事情に加えて、被告会社は、右通告後の昭和二五年一〇月一六日に開かれた団体交渉の席上においても、組合側に対し本件解雇の具体的理由を述べることなく、誠意が全然みられないのみか、本件整理をまぬがれた残留従業員に対しては、「今回の措置に際し公然たると陰然たるとを問わず、破壊的勢力と同調し、会社運営に支障を与える者又はそのおそれのある者を発見したる場合は、追加整理する」旨警告し、その頭首に白刃が擬せられていた。かかる状況の下に、組合の残留執行部は「今次の解雇は、極めて高度な政治的思想的背景を有する赤色追放であつて、労働組合がその機関において本質を論じ闘うことは、現下の客観状勢より判断して困難」なりとし、同月二〇日右趣旨の執行部案の賛否を組合員の全体投票に問うた結果、組合は本件解雇に対する反対闘争を放棄するに至つた。(しかし、組合としては、本件解雇を妥当なものと考えたのではない)。

原告等をふくむ被解雇通告者は、いずれも会社の解雇措置を違法不当の暴挙と考えていたのであり、同年一〇月二〇日には、原告等(ただし原告神岡、露本をのぞく)をふくむ被整理者七二名より被告を相手方として、神戸地方裁判所に対し地位保全等の仮処分申請(同庁昭和二五年(ヨ)第四五二号事件)をなし、本件解雇を争う態勢を整えた。一方、被告会社は、すでにこれより先、同月一七日、原告等をふくむ被整理者全員一〇五名を相手方として、同裁判所に立入禁止の仮処分を申請しており、原告等の側が同月二〇日答弁書を提出し、会社側は翌二一日上申書(甲第五号証の一)を提出した。このようにして双方の間には、互いに法廷闘争がくりひろげられ、闘争の決意が高められつつあつた。さらに、原告等は、失業保険金の受給手続を行う際、職業安定所の係員に対し、本件離職に対する異議を留めておいた。

かような推移状況に照して明かであるごとく、原告等は、孤立、長期、苦難の法廷闘争を続けざるを得なくなるとともに、生活に窮迫し生存の危機さえ予感されるに至つたので、ここに、原告は緊急やむなく、生活資金として退職金、餞別金を受領するための方便として、辞職願を提出したのである。したがつて、原告等は、辞職願提出当時、退職する意思を有しなかつたものである。

2  原告等の辞職願は、退職の意思を表示するものとして解釈されるべきではない。労働法の分野においては、取引の動的安全の保護を必要とする私法上の分野とは異なり、意思表示は、表示主義によつて解釈されるべきではなく、むしろ意思主義によつて解釈されなければならない。したがつて、原告等に退職の意思がないこと前述のとおりであるから、原告等の前記辞職願は、原告等の該内心的意思によつてその解釈がなされなければならないのであつて、右辞職願によつて被告主張のごとき合意解約が成立するいわれはない。

3  被告会社は、原告等が本件解雇を到底納得しないものであることを熟知していた。被告会社が、原告等の面接、質問、弁明、交渉はもとより、組合との連絡さえ拒否していたのは、そのためである。これらの事情や前記仮処分申請事件の展開、職業安定所の係員に対する異議の開陳などよりすれば、被告会社は、前記辞職願の受理当時、原告等に退職する意思のないことを知つていたものであり、少くともこれを知り得べかりし状況にあつた。したがつて、前記辞職願の提出受理による合意解約は無効である。

(五)  原告等が被告主張の退職勧告期間内に退職の申出をしたとしても、原告等の辞職願は、被告がいかにも解雇権があるがごとく原告等を威迫ないし強迫して提出させたものであるから、原告等は、本訴(原審昭和三〇年九月一九日の口頭弁論期日)において、右退職の意思表示を取り消すものである。

(六)  原告等が被告より受領した前記昭和二五年一〇月一四日附通知書は、前にも述べたとおり、同月一九日までに退職の申出のない場合は同月二〇日附をもつて解雇するという「解雇通告」であり、職場に残留すると否との自由を原告等の自由意思、自由なる責任観に任したものではなく、原告等にとつては、離職は決定的運命として強制されているとともに、原告等との面接拒否等にみられる被告会社の前述のごとき態度を考え合わせると、被告会社においては、原告等を職場より断乎排除しようとする決定的な意思表示をもつて、原告等に辞職願を出させることにより、任意退職の形式を整えようとしたものにほかならない。それは、会社が原告等を職場から排除する形式をいかにするかの因果関係にすぎず、会社の退職勧告によつて一応合意解約が成立したとしても、かかる合意解約については、解雇権の行使と同様に評価すべきである。

(七)  原告等の辞職願の提出は、本件解雇に対する承認(異議申立権の放棄)ということはできない。原告等は、前に述べたような、原告等に対する会社側の断乎たる職場排除の態度に対しては、抗拒不能の立場にあつたのであるから、原告等が辞職願提出に当つて異議をとどめるという知識と留意を欠いたからといつて、本件解雇に対する異議申立権を放棄したものとは、到底いい得ない。

二、辞職願を提出しなかつた原告遠藤等についても、被告は、同原告等が被告の供託にかかる退職金を受領したことによつて本件解雇を事後承認したものであると主張するのであるが、右原告等において該供託金を受領したことは被告主張のとおりであるにしても、同原告等は前記神戸地裁昭和二五年(ヨ)第四五二号仮処分申請事件(原告橋本は昭和二五年一一月八日同種の別件を提起していた。ただし、これらの事件は、本訴提起後に取下げた)ならびに本訴を通じて引き続き本件解雇の効力を争つているものであるから、その間における右受領の事実は本件解雇を承認したことにはならない。

三、本件解雇の根拠となる法規範について。

(一)  原告等代理人菅原昌人弁護士の主張

一般産業におけるレツド・パージとして特色づけられる本件解雇は、占領軍の最高司令官の指令ないし指示(解釈指示をふくむ)に基いてなされたものではなく、経営者が企業防衛の見地から、自らの責任において、自主的に実施したものである。したがつて、本件解雇については、憲法を基本とする国内法規範によつて批判されなければならない。

1  いわゆるレツド・パージによる解雇が憲法を基本とする国内法規範によつてなされたものであるか、それとも連合国最高司令官の発した命令指示に基くものであるかは、解雇当時から最も基本的な問題として争われてきたところである。この点に関し、真先に行われた新聞報道関係のレツド・パージについては、昭和二五年七月一八日の連合国最高司令官の吉田内閣総理大臣宛書簡が直接的根拠としてあげられ、その書簡に共産主義者に公共の報道機関を利用せしめることは公共の利益に反するという趣旨を述べた部分があつたためもあつて、共同通信社事件において、最高裁判所は、右書簡について「報道機関から共産主義者又はその支持者を排除すべきことを要請した指示であることは明かである。また右の書簡は内閣総理大臣吉田茂に宛てられたものではあるが、前記日附の官報にも公表されており、それは同時に日本のすべての国家機関並びに国民に対する指示でもあると認むべきである。日本の国家機関および国民が連合国最高司令官の発する一切の命令指示に誠実且つ迅速に服従する義務を有すること、従つて日本の法令は右の指示に牴触する限りにおいてその適用を排除されることはいうまでもないところであるから、相手方共同通信社が連合国最高司令官の指示に従つてなした本件解雇は法律上の効力を有するものと認めなければならない」と判示している。これに対し、一般産業のレツド・パージについては、裁判所の見解は区々にわかれ、レツド・パージを有効とするものについても、最高司令官の書簡の性格については、様々の説明がなされていたが(北海道配電事件、昭和二五年一一月二二日札幌地方裁判所決定。中外製薬事件、昭和二六年八月八日東京地方裁判所決定参照)、占領下において、パージについて肯定的判断を下した裁判所さえ、一般産業のパージが最高司令官の指示に基くものであると判断することを憚つていたのであり、講和条約発行後においても、一般産業のパージについて前記書簡を直接法的根拠とすることはできないというのが下級裁判所の一般的見解であつた。

2  しかるに、最高裁判所は、前記中外製薬事件の決定において、連合国最高司令官の書簡(後記)は単に公共的報道機関についてのみなされたものではなく、その他の重要産業から共産党員又はその同調者を排除すべきことを指示したものである、と判示するに至つた。そしてその理由として、「当時同司令官から発せられた原審挙示の屡次の声明および書簡の趣旨に徴し明かであるばかりでなく、そのように解するべきである旨の指示が当裁判所になされたことは、当法廷に顕著な事実である。そしてこのような解釈指示は、当時においては、わが国の国家機関および国民に対し、最終的権威をもつていたのである」としている。

(1) 右にいう声明および書簡とは、連合国最高司令官の(イ)昭和二五年五月三日憲法記念日に際して発せられた声明、(ロ)同年六月六日附で日本共産党中央委員の公職追放を指令した吉田首相宛の書簡、(ハ)同年六月七日附で日共機関紙アカハタの内容に関する方針に対して責任を分担している者の公職追放を指令した同首相宛の書簡、(ニ)同年六月二六日附でアカハタの三〇日間の発行停止を指令した同首相宛書簡、(ホ)同年七月一八日附でアカハタおよびその後継紙並びに同類紙の無期限発行停止を指令した同首相宛書簡(以下、これらをマ書簡と総称する)を指すものである。しかし、これらのマ書簡を一読してみれば、その結論はおのずから明かであつて、これらの書簡から、一般産業より共産党員およびその支持者を排除すべきことを指示した法規範が設定されたものとすることは、困難である(新聞報道機関のパージについても同様)。最高裁が「声明書簡の趣旨に徴し明かである」とただ一言の下にいつてのけられる程明かであるというならば、従来全く同様の事案に対して数多くの下級裁判所が最高裁の今回の判断と異なつた判断を下しているという点をどのように評価すればよいのであろうか。このことは、当該下級裁判所の裁判官の能力にかかわる問題なのか、それとも、明かならざるものを敢えて明かであると強弁するものとして、最高裁判所こそ法の名によつて批判されなければならないのか。ところで、一旦「趣旨に徴し明かである」と断言した最高裁判所も、次には、最高司令官のそのように解すべきであるとの解釈指示がなされたものであるということをつけ加えている。「趣旨に徴し明かである」といい得るときに解釈指示をもち出す必要はなかろう。最高裁判所も実は「解釈指示」が必要とされる程に不明確であり、解釈指示にまたなければ、そのような解釈をなし得べくもないということを認めざるを得なかつたのである。

要するに、前記マ書簡自体から、重要産業より共産党員およびその同調者を排除すべき旨の法規範が設定されたと解する余地は全くないのである。

(2) 次に、最高裁判所の右にいう解釈指示がなされたかどうかについて、吟味する。この点について、最高裁判所は「当裁判所に顕著である」とし、証明を要しないということで、何時、何人から、如何なる指示がなされたか、という具体的事事を全然示していない。したがつて、ここでその事実の存否について断定を下すことには、困難をともなうのである。

しかしながら、民間産業レツド・パージに直接関与した総司令部エーミス労働課長は、昭和二五年九月二七日の日経連総会の席に臨んで、「赤追放に関して総司令部がこれを指示しているように考えているむきもあるが、そうではなく、経営者、組合が話し合つてやつているのである」(昭和二五年九月二八日附朝日新聞記事、同新聞縮刷版NO351七七頁参照)との談話を公表しており、又「今次私鉄の馘首に関するエーミス労働課長の談話」の記載内容によつてみても、レツドパージに対する総司令部の態度をうかがい知ることができ、一方、大橋法務総裁や保利労働大臣等の政府の担当者も再三にわたつて、「レツドパージは経営者の自主的な行動である」という趣旨の見解を表明している(第八回国会参議院議事録第一一号、大橋法務総裁答弁。第九国会参議院議事録第五号保利労相答弁。昭和二五年一〇月一二日朝日新聞記事、同新聞縮刷版NO352三三頁等)。

総司令部の担当官ならびに政府がレツドパージの実施に際してとつた上述の態度を綜合してみると、レツドパージは、最高司令官の指令ないし指示に基いてなされたものではなく、経営者が企業防衛の見地に立つて、自らの責任において、自主的にこれを実施したものであることが、明かである。したがつて、最高司令官から最高裁判所に対し、その決定に示されているような解釈指示がなされるというようなことは、あり得ないと、推測されるのである。

このことは、連合国のわが国に対する管理政策の根本方針やその管理機構を考えてみると一層明かとなろう。すなわち、連合国は、日本の非軍事化と民主化を規定したポツダム宣言を対日管理政策の基本方針としており、「言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重」(ポツダム宣言第一〇項)は、わが国において確立されなければならない最も中心的な課題であつたのであり、この基本方針に反して「共産党員もしくはその同調者」であるという思想信条のみを理由として特段の必要もないのに一般産業から一部従業員を排除するというようなことは、なし得べくもなかつたのである。さらに、連合国の対日管理が最高司令官の恣意に委ねられていたのではなく、政策決定機関として、十一カ国の代表から成る極東委員会が置かれ、最高司令官に対する勧告機関として、五カ国の代表から成る対日理事会が設けられ、ソ連をふくむ連合国の意見に基いて、対日管理政策が遂行されることとなつており、特に極東委員会は、単に政策決定のみでなく、最高司令官のとつた行動を変更するという強力な権限をもつていたのであつて、このような管理機構の下で対日管理政策の基本に背反する一般産業のレツドパージを最高司令官の名によつて指令するというようなことは、あり得ないことであり、解釈指示という装いの下に、実質的には全く新たな指令を発するというようなことは、考えられないことである。

ともあれ、最高裁判所の決定にいうような解釈指示がなされたであろうということを推測せしめるに足る客観的資料は全くないばかりでなく、むしろそのような解釈指示が発せられるというようなことはあり得ないという判断に連なる多くの資料が存するのであり、解釈指示がなされたという点については、重大な疑惑が残るのである。

(3) さらに決定的な問題は、解釈指示がなされたことが「裁判所に顕著」であり、証明を要しないとされていることが、訴訟法上どのように評価されるか、という点にある。

元来、証明の対象となるものは、事実である。マ書簡等の解釈如何は、法律問題であり、解釈指示も亦法規であること明かである。ところで、法規も時として証明の対象となる場合がある。それは、法規の存在や内容が明かでないときである。最高裁判所に対し判示のような指示がなされたかどうかということや、その内容がどうかということは、このような意味でまさに証明の対象とされなければならないのである。マ書簡等の解釈について下級裁判所の判断が区々にわかれているという事実こそ、「解釈指示」の存否、内容が証明されなければならないという必要性を最も端的に示しているのである。法令の解釈適用を統一し、法律生活の安定をはかるべき使命を有する。理性の府である最高裁判所が、このような重要な問題について、具体的根拠を挙げることをしないで、「裁判所に顕著である」の一言をもつて片づけるというようなことは、甚しく不当であり、非難されなければならないところである。

次に、裁判所に顕著であるといい得るためには、合議体の過半数の裁判官がそのことについて明確な記憶を有することが必要である。しかるに、前記中外製薬事件の裁判に関与した最高裁判所の裁判官一四名中八人の裁判官は講和条約発効の日である昭和二七年四月二七日以降に任命されており、最高裁に対する解釈指示が講和条約発効後になされるというようなことはあり得べくもないから、たとえ解釈指示がなされたということが真実であつたとしても、少くとも右八人の裁判官は書類なり口頭なりによつてこれを知るほかはなかつた筈であり、このような場合、「裁判所に顕著である」ということは、訴訟法上許容さるべくもないのである。最高裁判所が殊更具体的な根拠を明示することを避けて敢えて裁判所に顕著であるとしているところから推して、解釈指示があつたという点にさらに疑惑が深まるのである。

(4) 以上三点にわたつて考察したように、中外製薬事件に関する最高裁の決定は、多くの重要な問題点をもつているのであつて、マ書簡等の解釈について判例としての意義は極めて乏しいといわなければならない。すなわち、マ書簡の趣旨自体から最高裁の右決定と同様の結論が得られるというのであればいざ知らず(そのように解する余地のないことは既述のとおりである)いわゆる解釈指示の存否、内容について証明がない限り、マ書簡が一般産業のレツドパージを指示したものであると解することはできないからである。

要するに、中外製薬事件の最高裁の決定があるからといつて、これを引用して一般産業におけるレツドパージが最高司令官の指示に基くものであるということは許されないのであり、本件解雇の法律的根拠を最高司令官の指示に求めることはできないのである。

3  なお、中外製薬事件の最高裁判所の決定は、マ書簡が「その他の重要産業」をもふくめて、その企業の中から共産主義者又はその同調者を排除すべきことを要請したものであるとしているが、私鉄経営協会を通じて原告等に伝えられたというエーミス労働課長の指示内容は、「共産党員であるというだけで追放するのではなく、その中のアクテイブ・リーダー、アグレツシブ・トラブルメーカーを排除すべきである」ということであつたとされ、この両者の間に明かに相違の存することは、軽視すべからざる点である。この点は、新聞報道機関のパージが昭和二五年七月一八日附マ書簡に基き総司令部追放課長ネビヤの指示によつてなされたのに対し、一般産業のパージが総司令部労働課長エーミスの談話に基いており、最高司令部自体がパージに関して新聞報道機関と一般産業との間に明白な差異を認めていたという事実によるものである。

(二)  原告等代理人井藤誉志雄弁護士の主張

被告は、原審以来、本件解雇は、レツドパージではなく、国内法に依拠してなされたものであることを特段に固持主張していたにかかわらず、最近に至つて、本件解雇は、超憲法的権力の所有者であつた連合国最高司令官の指示による解雇であり、憲法以下の国内法を超えて判断さるべきものであると主張するに至つた。しかし、本件は、あくまで国内法に基いて判断さるべきものである。

最高裁判所は、中外製薬事件において、連合国最高司令官は、公共的報道機関だけではなく、その他の重要産業をもふくめて、その企業から共産主義者及びその支持者を排除すべき旨を指示したものであり、そのように解すべき旨の指示が当時最高裁判所になされたことは、当法廷に顕著な事実であると判示した。しかし、二〇世紀の今日、最高裁の法廷に顕著で下級裁判所、産業資本家、労働者に知られず、況んや一般国民には知られない法的規範が存在し、これに拘束されることを今更最高裁判所に宣言され、ぼう然とする姿は、まことに民主主義下の奇観である。

四、被告主張の停年制について。

原告の遠藤、尾崎、村上の三名につき、同人等が現在満五五才を超えていること、被告会社の就業規則第七八条が従業員の定年を満五五才と定めていることは、いずれも認める。しかし、被告会社の従業員は、満五五才の定年に達すると同時に自動的に定年退職せしめられるものではなく、定年退職については、当該従業員本人の同意ないし承諾を要するものであり、又従業員は定年に達した後も引き続き雇傭されるのが社内慣行である。したがつて、右原告等は、満五五才に達したからといつて、当然に従業員たる地位を失うものではない。のみならず、右原告等は、被告に対し、本件解雇の意思表示の無効確認を求め、その従業員たる地位とともに、賃金その他の権利、利益を確保せんとするものであるから、本訴を維持する利益を有する。

三、被告の主張

一、原告等が被告会社の従業員であつたこと、被告会社が昭和二五年一〇月一四日、原告等をふくむ一〇五名の従業員に対し、同月二〇日附をもつて解雇する旨の意思表示を内容とする通知書を発し、該通知書が同月一四日頃被通知者に到達したことは、いずれも認める。

しかし、右解雇が無効であり、原告等がなお被告会社の従業員たる地位を有するという原告等の主張は、理由がないのであつて、以下これを縷述する。

二、原告の角谷、篠原、矢田、守谷、西村、久保、水口、長谷川、上山、村上、石田、神岡、露本の一三名に対する合意解約による雇傭関係終了等の抗弁に関する主張

(一)  合意解約の抗弁

被告会社の原告等に対する前記昭和二五年一〇月一四日附通知書には、同月一九日までに辞職願を提出して円満に退職されたき旨の退職の勧告と併せて、同月一九日までに辞職願の提出がないときは、同月二〇日附をもつて解雇する旨の解雇の意思表示がふくまれていた。すなわち、原告等に対する右通知は、辞職願を提出して、会社との雇傭契約を合意によつて解約すべき旨の申込の誘引であるとともに、一〇月一九日までに辞職願の提出がなされない場合には、翌二〇日附で解雇する旨の条件附解雇の通告であつた。そして、右退職勧告期限は、その後組合執行部より延長の要望があつたので、被告会社もこれを容れて、同月二三日まで延長した。しかるところ、右原告一三名は、いずれも会社の指定した期限内に前記退職申込の誘引に応じ、原告露本は同月一七日、原告西村は同月二〇日、その他の原告等は同月二三日(別紙(一)参照)無条件に辞職願を提出して合意解約の申込を行い、会社はそくざに辞職願を受理して解約の申込を承諾したから、右当事者間の雇傭関係は合意により終了し、解雇の意思表示は効力を生ずるに至らなかつたものである。

この点は、前記通知書の文言が法的に被告会社の合意解約の申込であると解せらるべき場合においても、同一である。

(二)  「原告等に合意解約の任意性がないし、また退職する意思がない」という原告の主張に対する被告の反論

1  被告会社は、本件整理が被整理者の納得を得て円満に遂行されることを強く念願し、そのためにこそ、合意退職者に対しては、従来の慣例を上廻る特別の餞別金を支給することにしたところ、原告等は前記のとおり無条件に辞職願を提出し、退職金、予告手当のほか、特に合意退職者のみに支給されることが明示されているところの、当時としては相当多額の右餞別金(三年未満一万円、五年未満一五、〇〇〇円、一〇年未満二万円、一〇年以上二五、〇〇〇円)をも円満に受領し(その受領年月日は別紙(一)記載のとおりである)、何等の異議も述べなかつた。

2  本件整理に当つて、原告等が会社の勧告に応じて辞職願を提出し、合意退職にともなう諸給与を受領して円満に退職するか、或は辞職願を提出せず、会社の一方的な解雇を受けるか、そのいずれを選ぶかは、全く原告等の自由な意思判断に任されていたのである。辞職願の提出をはじめ退職金、餞別金の受領など、退職に際し原告等がとつた一連の行為は、会社や第三者が強制したものではなく、原告等の全く自由な判断に基く自由な意思によるものであつた。

3  この点は、当時の原告等をめぐる四囲の状況、特に原告等が所属していた組合の本件整理に対する態度の推移を知ることによつて、一層強い意味において、その任意性を肯定することができよう。すなわち、

会社は、本件整理の実施に当り、組合の了解協力を得ることが望ましいと考え、前記一〇月一四日組合に対して、本件整理を実施するのやむなきに至つた事情ならびに被整理者の氏名を通知し、同月一六日および一八日の両日、終日にわたつて団体交渉を行い、整理の必要性、整理の基準等につき縷々説明したのである。これに対し、組合執行部は、最終的には、本件整理のやむを得ないことを了承し、その間退職金の増額と退職勧告期限を一〇月二三日まで延長することなどの要望があつたので、会社は、既述のごとく、右勧告期限を右同日まで延長した。かくて組合は、同月一九日午後、委員総会に本件整理を付議し、討議の結果、絶対多数でこれを承認することを決定、ついで同月二〇日に組合員の全体投票を実施したところ、これまた四、一七〇票対八五三票の絶対多数をもつて本件整理を承認し、組合より翌二一日附文書をもつて、その旨会社に回答した。組合の右回答の中に「会社のいう整理基準に該当しないと思われる人達に対しては、組合のあげる反証を資料として再調査の上考慮願いたい」との要望があり、会社もこれを確約したが、その後組合から反証をあげて再調査の申入れをしてこなかつたので、組合としても、被整理者全員について、整理を了承したのである。本件整理の通知を受けた原告等が、その当初において、組合の強い支援を期待していたであろうことは、当事者の心情として容易に推認し得るところであり、組合も亦、被整理者の要望を容れて、組合員の全体投票により組合の態度が決定される一〇月二〇日以後まで退職勧告期限を延長するよう、会社に要請していた事情もあるので、被整理者としては、その間組合および組合員の態度をひたすら注視し、組合の態度が明確にされるまで自己の態度の決定を保留していたことも、一応自然であると考えなければならない。事実、会社の正門前には、テントを張り、退職の勧告を受けた二、三十名の者が毎日のように集まり、組合の全体投票が行われた一〇月二〇日には、七、八十名の者が集まつていたのであつて、当時被整理者達は、組合員の全体投票の結果に重大な関心と希望をかけていたのである。しかるに、右全体投票において、右のごとく圧倒的多数をもつて本件整理が承認されるに至つたので、原告等が最大の希望を寄せていた組合の強い支援の期待は、今や雲散霧消し、極めて不利な状勢下に、にわかに自己の進退を決せざるを得ない破目に陥入つたことも亦、容易に推認されるところであつて、これが原告等の辞職願提出の一つの要因を成している。辞職願の提出が一〇月二〇日以前には極めて少なく、同日以降相次いでなされた事実は、この間の消息を有力に語るものである。

さらに、原告等の辞職願の提出を促進した今一つの要因として、原告等(ただし、原告西村、長谷川、上山をのぞく)が所属していた川造細胞内部における意見の対立があげられるのであつて、当時、川造細胞としては、本件整理に当面して何等の結論も出せず、統一した反対闘争を放棄せざるを得なくなり、辞職願を提出するか否かを、それぞれ各人の意向に委ねざるを得なくなつたことが推認されるのである。

以上のごとく、組合が本件整理を承認した事実に加えて、川造細胞自体の結束がくずれて、結局各人の自由意思にその進退が任せられるに至つて、原告等は、四囲の情勢が反対闘争を遂行するためには極めて不利に転じたことを身をもつて痛感し、自己ならびに家族の将来、整理に処する経済上の利害得失などをも考え併せたすえ、この際仮りにある程度の不満があつても、辞職願を提出して任意に退職し有利な給与(餞別金)を受けるとともに闘争に終止符を打つ方が、得策賢明であると考えるに至つたとみるのが、前記事態の推移にも合致し、又原告等の心情の推移として自然である。

4  被告としては、本件整理に当面した原告等に将来の生活に対する不安がなかつたとは、いわないし、又、このことが辞職願を提出するに至つた一つの理由となつたであろうことも、争わないが、しかし、それだからといつて、原告等が提出した辞職願が真意に基くものでなかつたとは、いえない。原告等が仮りに解雇の途を選んだとしても、当月の賃金のほか、所定の退職金、予告手当が一時に支給されることになつていたことは、通知書に示されており、加えて、離職者には六カ月間失業保険金の支給が保障されていたのであるから、原告等が明日の生活に困り、窮迫の末、遂に自由な意思を失い、餞別金を受領する手段として、殊更辞職願を提出したなどとは、到底考えられないのである。ことに、辞職願を提出しなかつた原告遠藤等一〇名が退職金、予告手当すら二カ月ないし六カ月間受領しなかつた事実ならびに同原告等が本件解雇に対する法廷闘争の上で辞職願の提出を潔しとしなかつた事実と対比してみるとき、辞職願を提出した前記原告等は、かかる遠藤らの態度を当時直接見聞し、辞職願の提出が今後の闘争に当り、決定的に不利な事態になることを承知しながら、敢えて辞職願を提出したものであつて、その点において、もはや本件整理につき争う意思を有せず、辞職願の提出が最終的に会社との雇傭関係を終了せしめるものであることを認識し、かつ、それもやむを得ないと考えたものと解するのほかはない。

5  本件整理の行われた当時、一般に解雇を争う場合には、退職金の受領に先立ち又はその直後において、文書をもつて、「退職金は、生活資金もしくは賃金の前払として受領する」旨を使用者に通告する慣行があり、それは労使の関係者にとつて顕著な事実であつた。しかるに、原告等によつてかような行為が一切なされなかつたことは、まさに、原告等には、辞職願提出の時点において、本件整理を争う意思のなかつたことを示すものであるといわなければならない。

ただこの点に関し、原告等のうち数名の者が神戸地方裁判所に身分保全の仮処分を申請していた事実は、当該原告等がその時点において本件整理につき争う意思を有していたことを推認させる一つの事実として、充分注目に価いするが、右仮処分申請の日附が一〇月二〇日であるところをみれば、同申請が準備されたのは、おそくとも一〇月一九日までであることが推認される。しかるところ、原告等をめぐる事態、特に組合の情勢が前述したように、一〇月二〇日の午後四時頃組合の全体投票の結果の判明によつて急変し、原告等をふくめて被整理者の大多数は、これによつて闘争意欲を失い、遂に辞職願の提出を決意するに至つたのである。したがつて、一〇月二〇日に仮処分申請を行つたという事実は、その後に提出された辞職願が原告等の真意に基くものではないという裏付とするには、適当ではない。

6  以上の次第で、「辞職願の提出に任意性がないとか、又は退職が真意に基かない」とする原告の主張は全く理由がない。

なお、原告の主張に対して附言すると、被告会社は、本件整理につき、事前に組合に諮らなかつた(当時本件整理について組合と協議し又は組合に諮るべき労働協約上の義務はなく、被告会社は、整理発表後において、組合とは前述のとおり団体交渉し、誠意と条理をつくした)が、その理由は、当時団体交渉の相手方たる組合執行部内に二名の整理該当者があつたり、原告等の平素の破壊的言動からみて、これを事前に諮るときは、いかなる不測の事件が発生するかも知れぬと危惧せられ、会社が本件整理によつて守ろうとする秩序を逆に破壊と混乱に導くおそれがあつたからにほかならない。

(三)  心裡留保の抗弁に対する主張

仮りに、原告等の合意退職の意思表示が真意に基くものではなかつたとしても、被告会社は、辞職願を受理した当時、そのようなことを知らなかつたし、又そのようなことを知り得べき事情は何等存しなかつたのであるから、原告等の雇傭関係の合意解約が無効とされることはない。すなわち、原告等数名の者が神戸地裁に一〇月二〇日附で申請した前記身分保全の仮処分申請事件については、辞職願受附の最終日である一〇月二三日までの間、被告会社は全く関知せず、したがつて、何人が何時そのような申請をしたかということは、会社は全然知らず、かつ、知り得べき事情にはなかつた。むしろ、上記の本件整理に対する組合の態度の推移、原告等が何等の異議を留めることなく辞職願を提出して退職金、餞別金を受領した態度などからして、会社としては、原告等が真実合意退職をする意思を有するものと信じ、かつ、かく信ずるのも無理からぬ状況にあつたのである。

原告等は、失業保険金の受給手続に際して、原告等が職業安定所の係員に対し、本件離職に対する異議を留めたことをもつて、心裡留保の抗弁の傍証とするが、原告等が職業安定所の係員に離職票を提出する際にかかる措置に出たことはないばかりでなく、仮りに、かかる事実があつたとしても、それは、原告等と職業安定所との問題であつて、しかも辞職願を提出して問題が会社の手を離れた後の離職票の手続に関するものであるから、会社の全く関知しないところであり、そもそも会社としては、辞職願受理当時、そのようなことを知り得べき事柄ではない。

したがつて、原告主張の心裡留保の抗弁は理由がない。

(四)  被告が原告等を威迫ないし強迫して辞職願を提出せしめたとの原告の主張は、否認する。

(五)  「辞職願の提出があつても、解雇と同様に評価されるべきである」との原告の主張に対する被告の反論

被告会社は、当時の社会的諸情勢下において、前述のとおり、本件整理が被整理者の納得を得て円満に遂行されることを強く念願し、そのことの故にこそ、合意退職者に対しては、特別の餞別金を支給することとしたのである。合意退職するか、解雇を受けるかは、原告等の自由な意思判断に任されていたことも、すでに述べたとおりである。ところで、人員整理の実施に当つて、合意解約と解雇の二つの方式を併用し、退職給与において、前者を後者より優遇する方法は、従来とも民間企業界においては勿論、官界においてすら広く採用せられていたところであり、もとよりそれ自体公序良俗に反するものではない。而して、被整理者が合意退職と解雇の方式のうち、そのいずれを選択するかということは、法的に重大な意味を有するのであつて、辞職願の提出という事実を全く意味のないものとして、両者の相異を無視する原告の主張は、正当ではない。

(六)  被告の仮定抗弁

仮りに、原告が主張するごとく、雇傭関係の合意解約が成立せず、辞職願の提出があつても、なお法的には、一方的な解雇であると解するのが相当であるとしても、原告等は、何等の異議を留めることなく辞職願を提出し、退職金のほか、特に任意退職者にのみ支給することが明示されていた餞別金をも受領しているのであるから、右辞職願の提出態度および餞別金等の受領の趣旨よりして、原告等の辞職願の提出は、今後解雇につき争わない意思を表示したものと解すべきであり、解雇に対する異議権を放棄したものであるから、原告等の本訴は、その限りにおいて訴の利益を失い、棄却せらるべきものである。

三、原告の遠藤、尾崎、市田、橋本、赤田、中村、谷口、仲田、田中に対する被告主張の解雇承認の抗弁

右遠藤らは、いずれも昭和二五年一〇月二〇日附で解雇となつたものであり、被告会社は同人等に対し、退職金、予告手当を供託していたところ、市田は同年一二月一日、谷口は同年同月一三日、仲田は昭和二六年一月一二日、尾崎は同年三月一〇日、遠藤は同年同月一四日、中村は同年同月三〇日、橋本は同年四月六日、田中は同年同月九日、赤田は同年同月二四日、それぞれ右供託金を受領したから、右原告等一〇名も本件解雇を承認したものというべきである。

四、原告等全員に対する本件解雇は、超憲法的法規範に基づく解雇として有効である。

被告の上来の主張が理由ないとしても、原告等全員に対する本件解雇(辞職願を提出した前記原告等についても、その退職が解雇と同様に評価されるべきであるとの原告の主張に従つて立言するから、同原告等についても、解雇という字句を用いることとする。以下同様)は、連合国最高司令官および総司令部労働課長エーミスの「重要産業に対して直接その企業から共産主義者およびその支持者を排除すべきことを要請した指示」を機縁として、右指示および被告会社の企業防衛上の必要に基いて実施されたものであつて、原告等はいずれも右指示にいう排除の対象に該当するものであるから、本件解雇は、憲法その他の国内法令の違反の有無を論ずるまでもなく、有効である。すなわち、

(一)  連合国最高司令官は、(イ)、昭和二五年五月三日憲法記念日における声明において、日本共産党が「公然と国際的略奪勢力の手先となり外国の権力政策、帝国主義的目的および破壊的宣伝を遂行する役割を引受け」、しかも「外国からの支配に屈して人心をまどわし人心を強圧するため虚偽と悪意に満ちた煽動的宣伝を広く展開し」「日本国民の利益に反するような運動方針を公然と採用している」ことを強く非難し、「現在日本が急速に解決を迫られている問題は、この反社会的勢力をどのような方法で国内的に処理し、……こうした自由の濫用を阻止するかにある」として、「こんご起る事件がこの種陰険な攻撃の破壊的潜在性に対して公共の福祉を守りとおすために日本において断固たる措置をとる必要を予測させるようなものであれば、日本国民は……英知と沈着と正義とをもつてこれに対処することを固く信じて疑わない」旨、警告かつ要望し、(ロ)昭和二五年六月六日附の内閣総理大臣吉田茂宛書簡において、「日本国民の間における民主主義的傾向の強化に対する一切の障害を除去」することがポツダム宣言の基本方針であると述べ、最近に至つて新しい有害な集団が日本の政界に現われたとなし、日本共産党が真理を歪曲し、大衆の暴力行為を煽動してこの国を無秩序と闘争の場所に変え、これをもつて日本の進歩を阻止する手段としようとし、また日本の民主主義的傾向を破壊しようとしてきたこと、および「法令に基く権威に反抗し、法令に基く手続を軽視し、虚偽で、煽動的な言説やその他の破壊的手段を用い、その結果として起る公衆の混乱を利用して、ついには暴力をもつて日本の立憲政治を転覆するのに都合のよい状態を作り出すような社会不安をひき起そうと企てている」ことを指摘して「無法状態をひき起こさせるこの煽動を抑制しないでこのまま放置することは、……連合国の政策の目的と意図を直接に否定して日本の民主主義的な諸制度を抹殺し、……日本民族を破滅させる危険を冒すことになるであろう」と激しい言葉で警告し、日本政府に対し日本共産党中央委員二四名の公職からの罷免、排除等の措置をとるよう指令し、(ハ)昭和二五年六月七日附の同書簡において、共産党機関紙アカハタが共産党内部の最も過激な不法分子の送話管としての役割を演じており、「法令に基く権威に対する反抗を挑発し、経済復興の進捗を破壊し、社会不安と大衆の暴力行為を引き起そうと企てて、無責任な感情に訴える放縦で虚偽で煽動的で挑発的な言説をもつてその記事面や社説欄を冒とくしてきた」ことを指摘し、その是正方法として、アカハタ編集責任者一七名を公職から追放するよう、日本政府に指令し、(ニ)昭和二五年六月二六日附の同書簡において、アカハタが右六月七日附書簡で指令した措置をとつた後にも、穏健な方向に方針を改めないばかりか、人心を攪乱して公共の安寧と福祉とを侵害することを目的とした悪意のある虚偽煽動的な宣伝を広める行為を行つたとして、アカハタの発行を三〇日間停止させるために必要な措置を日本政府に指令し、(ホ)さらに、昭和二五年七月一八日附の同書簡において、「日本共産党が公然と連繋している国際勢力は民主主義社会における平和の維持と法の支配の尊厳に対してさらに陰険な脅威を与えるに至」つたと指摘し、「現在自由な世界の諸力を結集しつつある偉大な闘いにおいては、総ての分野のものは、これにともなう責任を分担し、かつ誠実に遂行しなければならない」と要望するとともに、「共産主義が言論の自由を濫用してかかる無秩序への煽動を続ける限り、彼等に公的報道の自由を使用させることは、公共の利益のため拒否されねばならない」として、アカハタおよびその後継紙ならびに同類紙の発行に課せられた停刊措置を無期限に継続することを日本政府に指令した。

(二)  次いで、同年七月、右マ書簡(前記の声明および各書簡をマ書簡と総称する)に基き、新聞報道関係企業よりの共産党員およびその支持者の排除が全国的に行われたが、これにつき、当時の総司令部民間情報教育局長ニユージエント中佐は、同年八月三日声明を発し、「日本の新聞発行者および日本放送協会経営者が最近その内部機構を再検討し、その結果現在ならびに潜在的な破壊分子の解雇を命じたことは、時宜をえた勇敢な措置である」と賞讚し、さらに右整理が前記「七月一八日の書簡の趣旨に全く合致するものである」ことを明かにした。

(三)  総司令部労働課長エーミスは、同年八月二六日電気産業(被告提出の当審第六準備書面中七月三一日とあるのは誤記と認める)、同年九月中旬日本通運、同年九月二五日石炭、鉄鋼、造船、機械その他の重要産業の労使の代表を総司令部に招致し、前記マ書簡の趣旨に従い、指定した期間内に共産主義的危険分子を企業内より排除すべきことを強く求め、それが占領政策の一環であることを明言し、さらに右排除の方法ならびに実施の結果報告等について具体的な指示を与えた。

(四)  前記マ書簡は、直接的には、日本共産党中央委員会の構成員や同機関紙アカハタの編集関係者の追放およびアカハタおよびその後継紙ならびに同類紙の発行停止に関し、日本政府の措置を指令したものではあるが、前記マ書簡が次々に発せられた経緯とその内容等を照し合わせてみるときは、連合国最高司令官が、当時の日本共産党を破壊的、煽動的行動に終始しているとなし、かような活動が抑圧されないままに放置されるときは、連合国の占領政策と相容れない結果を生じ、又日本国民を破滅させる危険が生ずるとして、共産主義者ならびにその支持者の排除を占領政策の基底の一つとしていたことが明かである。

当時連合国最高司令官は「降伏条項を実施しならびに日本国の占領および管理の遂行のために確立された政策を実行するための必要な権能を有し」又「最高司令官は日本国政府の機構および機関を通じ又はその機関を用いないでとるべき措置を如何なる場合でも命ずることができ(一九四六年六月九日極東委員会決定「降伏後の対日政策」)、日本国政府ならびに国民は、連合国最高司令官又は他の連合国官憲の発するかかる一切の指示に誠実かつ迅速に服すべきものとされ(昭和二〇年九月二日連合国最高司令官指令第一号第一二項)、占領軍の政策を遵守することは、わが国政府および国民の法的義務とされていた。したがつて、連合国最高司令官が直接特定の事項の実施を命令し、その限りにおいて日本国民の権利義務に関与するに至るときは、右は超憲法的権力の発動とみるべきであるから、その命令は、憲法その他の国内法令に優先して、それ自体日本国民を拘束する法的規範としての性格を有するに至り、前記実施行為の効力も亦右法的規範に照して判断せらるべきものである。

而して、その命令の形式については、通常は指令又は覚書という形式がとられていたが、この点については、特別の法的制約は存在しなかつたから、口頭による場合もあり、書簡の形式によつて行われることもあつた。また、その書簡が指令の性質を有するか否か、又その内容がいかなる意味を有するかは、その書簡の文言自体のみならず、書簡が発せられるに至つた種々の事情、書簡に関連して発せられる種々の文書又は声明などから解釈せらるべきものであるが、右の点に疑義の存するときは、最終的には発令官憲の解釈により決定されることとなつていた(昭和二〇年九月三日連合国最高司令官指令第二号第四項)。

(五)  最高裁判所は共同通信事件(昭和二六年(ク)第一一四号)において、前記七月一八日附のマ書簡は、「公共的報道機関から共産主義者又はその支持者を排除すべきことを要請した指示であること明かである」とし、「さらに、右の書簡は内閣総理大臣吉田茂に宛てられたものではあるが、前記日附の官報にも公表されており、それは同時に日本のすべての国家機関並びに国民に対する指示でもあると認むべきである」と判断(昭和二七年四月二日大法廷決定)し、さらに中外製薬事件(昭和二九年(ク)第二二三号)において、前記七月一八日附のマ書簡は「公共的報道機関にとどまらずその他の重要産業から共産党員またはその支持者を排除すべきことを要請する連合国最高司令官の指示と解すべきである」と判示し、「そのように解すべきである旨の指示が、当時当裁判所に対しなされたことは当法廷に顕著な事実である」として、当時前記マ書簡に関し発令官憲よりの解釈指示のあつたことを明かにしている。かかる解釈指示が存する以上、それは最終的権威を有し、日本の国家機関および国民はマ書簡をそのようなものとして受取るべく拘束されるのである。

(六)  以上のごとき経過に照し、前記マ書簡が公共的報道機関のみならず、その他の重要産業の経営者に対して直接その企業から共産主義者およびその支持者を排除すべきことを要請した指示であることが、明かである。ところで、被告会社が右指示にいう重要産業に属することは、会社がわが国造船業界を代表する有力会社であることの一事によつても、明かであるが、本件整理に当り、前述のとおり造船業界代表がエーミスに招致せられたこと、被告会社が造船工業会の有力会社としてエーミスの言明を伝達されたことなどに照して、明かである。而して原告赤田、西村、長谷川、上山以外の原告等が右指示にいう共産主義者に、右赤田等四名が右指示にいう共産主義者の支持者(同調者)にそれぞれ該当することは、別紙(四)に示すとおりである。

したがつて、前記の指示が超憲法的法規範として設定せられているもとにおいては、被告会社が右法規範に合致して原告等を企業内から排除した本件解雇措置は、憲法以下の国内法的視点から論ずるまでもなく、有効なものとして是認されなければならない。又その排除の手続においても法的に非難せらるべき点は、いささかも存しない。

(七)  なお、附言するのに、被告は、本件整理を実施するに当つて、もつぱら共産党員および同調者の阻害的部分に着目し、党員および同調者であることを銓衝要素とするほか、さらに会社運営に対する阻害的行動やその危険性を整理基準としたが、この後者の点をとらえて、被告の本件措置が前記指示に反するといわれるかも知れないが、原告等に対する解雇措置が該指示に合致する以上、その効力が左右されることはあり得ない。

また、当時関係者がマ書簡を指示=法規範であると認識し、右法規範に照して本件整理の効力が判断せらるべきであると理解していたが、或はマ書簡を指示=法規範であると必ずしも認定せず、ただ事実上、占領軍の前記要請を受けて国内法との関係をも考慮してこれが実施を行つたか、という整理実施者の当時における法規範の存在に対する認識の有無又はその当否は、実施当時、能力的規範が客観的に存在している限り、その超憲法的法規範に照してその効力を判断することの妨げとなるものではない。前記指示は、行為者にとつて、義務的規範であると同時に能力的規範と解すべきであるから、行為者の行為の内容こそは、右規範の適用に当つて問題とされなければならないが、法規範に対する認識が不充分であつたからといつて、その行為につき、本来適用せらるべき客観的法規範の適用が妨げられるという理は存しない。

本件解雇は、国内法の視点からしても、有効である。すなわち、前記マ書簡が新聞報道関係をのぞくその他の重要産業に対しても共産主義者およびその支持者を排除すべきことを要請した指示と法的に評価すべきであるか否かについては、当時関係者の間にも定説がなかつたし、又前記エーミス労働課長の言明も事実上の勧告又は要請とも受取られた。そこで、被告会社としては、前記エーミスの共産主義的危険分子排除に関する強い要請と企業防衛上の必要に基いて本件整理を実施するに至つたものであるが、その実施に当つては、国内法の立場においても非難を受けないよう、憲法、労働諸法、就業規則を充分配慮したから、本件解雇は、国内法の立場からみても、瑕疵のないものである。以下、本件解雇の無効を主張する原告の主張に対応して、順次反論するとともに、被告の本件解雇理由を開陳することとする。

(一)  原告は、本件解雇は原告等が共産党員又はその同調者であるということだけを理由としてなされたものであるから、憲法第一四条、労働基準法第三条に違反して無効であると主張するけれども、右は理由がない。(この点に関し、被告が昭和三五年一二月六日の当審口頭弁論期日に陳述した第七準備書面(記録五五二四丁)によれば、被告は原告の右先行自白を援用するとあるけれども、原告側は原告らが共産党員又はその同調者であることを必ずしも自認するものではなく(ただし、請求原因二、の(三)の3で党員であることを自認するものをのぞく)、ただ被告がその点だけを解雇理由としたことを主張するものとみられるから、これを先行的自白とはいい難いし、さらに、被告の提出陳述にかかる当審第八準備書面を精読すれば、被告は原告等が共産党員又はその同調者であるという理由だけで解雇したものではないと主張するに帰するから、右先行的自白の援用に関する被告の主張部分は撤回されたものと認める)。

1  憲法の基本的人権に関する規定は、もつぱら国家と国民との関係を規律するものであつて、直接労使関係にまで及ぶものとは解されない。

2  原告等をふくむ会社の一部従業員は、後述するごとく、会社の正常な運営を阻害し、又はこれに現実かつ明白な危険を与えていたものであつて、本件解雇は、原告等が単に共産党員又はその同調者であるという理由だけで実施したものではなく、原告等が共産党員又はその支持者であつて、しかも後述のごとき業務阻害的行動ないしその危険性があることを理由として、企業防衛の見地からなされたものであるから、原告の右主張は理由がない。なお、共産党員であつても会社が解雇しなかつた者は、十数名に達する。例えば、室谷治、水口道明もその一部で、同人等は「あくまで共産主義を信じ、共産党員であることを名誉と考える。今後においても変わることがない」と公言していたけれども、会社は解雇措置に出なかつたのである。

3  日本共産党の党員の義務は、通常の民主主義的団体の構成員の義務とは著しく異なり、いかなる場合においても、党の組織の決定した方針を最上のものとして、その示された方針を忠実に遂行しなければならない積極的な行動の義務であり、しかもその義務は「個人は組織に従い、下級は上級に従い、全党は中央に従う」軍隊的鉄の規律の下に遂行せられ、そのためには、「個人生活をも党に従属させる」ことを義務づけられているのである。日本共産党は、かくして、一般の民主主義的政治団体とは著しくその性格を異にし、極めて高度の行動性を党員に義務づけている革命団体である。したがつて、日本共産党員であることは、単なる共産主義者と異なつて、その中にすでに高度の行動性を内包しているものというべきであるから、その行動性に着目して党員たることを理由にこれを排除することは、必ずしも憲法にいう信条による差別的取扱や思想の自由自体を侵すことにはならない。ことに、連合国最高司令官の日本共産党の破壊的性格に対する事実判断があり、しかも川造細胞等を中心とする党員および同調者の企業阻害的事実に当面していた当時の事情のもとにおいては、会社が仮りに社内の共産党員全般について、党員たること自体に会社の企業の運営を阻害する現実かつ明白な危険性を内包していると判断して、その故にこれを排除するとしても、決して不当ではないと信ずる。

したがつて、本件解雇は、信条による差別的取扱に該当しない。

(二)  原告は、本件解雇は就業規則に準拠せず、また、被告の設定した本件整理基準は就業規則所定の労働条件に達していないから、本件解雇は無効であると主張するけれども、この点も理由がない。すなわち、

1  本件整理の必要性

わが国屈指の造船業者であつた被告会社は、戦争により潰滅的打撃を受け、戦時中二九、〇〇〇名をかぞえた従業員は戦後六、一〇〇名に縮少され、今日からは想像もつかないほどの状態に陥入り、昭和二十四、五年に至つて、ようやく再建の緒につくことをえたというものの、当時はまだ極めて不安定かつ困難な状態にあつた。加うるに、会社は賠償工場に指定せられて、その管理保全につき厳重な責務を課せられ、鋼船の建造はいちいち総司令部の許可を要し、その意向を無視しては、一日たりとも経営活動をなしえなかつたばかりでなく、本社工場の一部は占領軍の直轄工場としてその管理下に置かれ、また、占領軍の艦船の修理を担当していた関係上、阪神間の占領軍事務所が社内に設けられて、占領軍代表者が常駐して作業全般を監督し、会社の経営、特に労使関係については、強い関心を持ち、職場秩序の維持につきしばしば厳重な警告を受けていた。かかる会社経営の困難かつ特殊な実情に鑑み、会社は再建をはかるため、昭和二四年三月綜合企画委員会を設置、鋭意経営の合理化の線を推進することにしたが、まず、泉州工場の閉鎖を断行、同工場の従業員二、四〇〇名中一、一〇〇名の本社転勤、一、三〇〇名の人員整理を行い、さらに電機部、岡田浦工場の配置転換、人員整理をはじめ、職制の確立、経理・賃金面の改善、設備・工事・材料面の刷新等、会社再建の強力なる諸方策を実施した。昭和二四年一〇月には、企業再建整備計画が許可せられ、従来の川崎重工を改組し、造船業一本として再発足することになつたのである。しかしながら、かかる再建ならびに合理化の推進は、従業員の理解と協力による職場秩序の確立なくしては、到底その達成を期しえなかつたので、会社は、経営協議会等を通じ、再三にわたり会社の現状や方針を能う限り説明して、従業員の協力を要請し、かつ、社規、社則の厳守につき従業員に強く示達するところがあつたし、一般従業員も企業の使命を自覚して協力を惜しまなかつたのである。

しかるに、一部少数の従業員は、外部の破壊的特殊勢力と結び、公然或は陰然、その指令下に活動し又は同調して、会社業務の円滑な遂行をはばみ、職場の秩序と規律をみだし、会社の再建に著しい支障を与えるような言動をほしいままにして顧みなかつた。これらの非協力的破壊活動は、戦後いち早く社内に従業員中の共産党員によつて組織せられた川造細胞を中心として、これに同調する分子を加えた一部従業員によつてなされたものであつて、被告会社は昭和二三年以来関西における日本共産党の一大拠点工場と目されていた関係上、細胞の破壊的活動は特に目ざましかつた。戦後、本件整理に至る間に起つた企業阻害行動は別紙(三)および(四)に列記するとおりであつて、特に昭和二四年末の越年闘争、これに次ぐ昭和二五年春の賃上げ闘争に際しては、相次いでかかる企業阻害的破壊活動が行われたのである。

戦後、他の一般大企業においても、従業員中の共産党員により社内に共産党細胞が組織せられ、細胞を中心とした企業阻害行動が程度の差こそあれ、著しいものがあり、特に昭和二五年一月のいわゆるコミンホルム批判以来、共産党の破壊的暴力的性格はいよいよ顕著になつてきた。かかる情勢等に際会して、前記マ書簡が相次いで発せられ、前述のごとく、同年七月新聞報道関係より共産党員およびその支持者の排除が全国的に行われたのに続いて、総司令部労働課長エーミスは、同年八月二六日電気産業、同年九月中旬日本通運、同年九月二五日造船をふくむ重要産業に対して、企業破壊的分子である共産党員およびその同調者を企業より排除することが占領政策の一環であるとして、その排除方を強く要請した。被告会社が造船業界代表より右エーミスの要請を伝達されたことは、すでに述べたところである。さらに、被告会社は、その頃、社内に常駐する占領軍代表ランドベツクより重ねてこの点をただされ、整理に関する報告方を指示された。前記エーミスの要請が勧告であつたとしても、当時賠償指定工場、占領軍管理工場に指定されていた被告会社としては、右エーミス勧告をなお一層強いものとして至上命令的に受取らざるをえなかつたのである。

かかる経緯により、被告会社は、前記エーミスの勧告と相いまつて、企業防衛上の必要に基き、本件整理を実施するのやむなきに至つたものである。

2  本件整理基準の設定

被告会社が昭和二五年八月頃より準備作成した本件整理の実施基準は、当時一般に行われたこの種整理の事例を踏襲して、もつぱら共産党員および同調者の企業阻害的部分に着目し、原告の主張するがごとく、

(1) 会社再建に対し、公然であると潜在的であるとを問わず直接間接に会社運営に支障を与え又は与えようとする危険性のある者

(2) 他よりの指示を受けて煽動的言動をなし、他の従業員に悪影響を与え又はそのおそれのある者

(3) 事業の経営に協力しない者

等、会社再建のため支障となるような一部従業員を整理の対象とし、さらにその具体的な銓衡基準として、

(1) 「就業時間中に職場を離れたり、又他人の業務を妨害する」者

(2) 「会社の政策方針に反対するとか、運営方針を曲げて宣伝するとか、又は中傷誹謗する」者

(3) 「就業時間中に部課長に面会を強要するとか、部課長などの吊し上げをした」者

(4) 「組合の指示によらないで、勝手にサボをやるとか、デモをやるとか、又そういうことを煽動した」者

(5) 「就業時間中に党細胞の機関紙、ビラなどを配る等、仕事以外のことをした」者

(6) 「反占領軍的なことを言つて会社の業務を阻害する」者

等、約一〇項目を設定した。

3  被告会社は、前記の整理の必要性に基いて右のごとき整理基準を設定したが、かかる整理の必要性こそは、会社の就業規則第七七条第一項二号の「やむを得ない業務上の都合による場合」ならびに同条項五号の「その他第二号に準ずるやむを得ない事由がある場合」に該当するのであつて、右整理基準は、本件整理の必要性を勘案しながら整理対象者の銓衡基準とするため、右就業規則の各規定に依拠してこれを具体化したものにすぎない。したがつて、この点に関する原告の主張は理由がない。

(三)  被告の本件解雇理由

1  被告のした本件解雇の理由、すなわち前記整理基準該当事由は、別紙(三)および(四)に詳述するとおりである。別紙(三)の中の不法集団事件は、川造細胞を主体として組織的に行われたものであるが、その事件ごとに列記してある原告および元原告は、現実に当該事件に関与して指導的ないし積極的にその不法な行動をしたものであり、それらの事件(ただし4石原選挙長吊し上げ事件と28証拠写真破棄強要事件をのぞく)ごとに氏名の記載されていない原告中、共産党員である原告(したがつて、同調者である原告西村、長谷川、上山、赤田をのぞく)については、同原告等は党の特殊的性格からいつて、特別の事情なき限り、それら事件の背後にあつて直接間接参加しているとみるべきであるが、同原告等の参加が認められないとしても、それら不法集団事件がいずれも川造細胞を主体として惹起された事実からして、該事件をもつて、党員たる同原告等が整理基準にふくまれた「会社運営に対する危険性」を包蔵することの認定の基礎事実として主張するものである。

2  被告会社は、前に触れたとおり、昭和二五年八月頃より本件整理の準備調査に着手し、同年九月中旬には人事部関係者の手許で約二〇〇名の整理対象者のリストを作成していたが、前記エーミスの要請によつて本件整理断行の社内方針が決定された結果、さらに人事部において鋭意銓衡を加えたうえ、人事部案として一五〇名の整理を内定し、次いで部長会議において、人事部案を討議し、指導教育の可能性の有無、各部門のバランス等について数回に及ぶ慎重かつ詳細な検討を行い、最終的に一〇五名の本件整理該当者を決定するに至つたものである。右銓衡経過に照しても原告等の整理基準該当事実に誤りはないといわなければならない。

3  本件整理については、その発表後組合に諮り、その承認を得たことは、すでに述べたとおりである。なお、本件整理前に組合に対してなされた全造船の指令にも「全労働者の熱望する日本の民主化及び自立経済達成のための産業復興を妨害するようなものに対しては、その行動の具体的事実の上にたつて、組合として、自主的に処置するものである」とあつて、全造船自体においても、各傘下組合に対し、原告等のようないわゆるトラブルメーカーはこれを自主的に処置、処分することを明かにしていたのである。

4  原告は、原告等の参加した事件は適法な組合活動であるというけれども、整理基準該当事実としてあげられる原告等の行動は、企業阻害の党活動(細胞活動)と評価、認定すべきであつて、組合活動とみるべきではない。すなわち、

原告のうち、遠藤、尾崎、角谷、篠原、矢田、守谷、久保、水口、村上、石田、神岡、露本、市田、中村、谷口、仲田、田中は、元原告の宮崎伍郎、石川利次、小林時則等、多数の本件被整理者とともに、日本共産党川崎造船細胞の構成員であり、原告橋本は、全造船本部書記局細胞の構成員であり、又元原告の西岡良太郎は日本共産党加古川細胞の構成員であつたし、原告の西村、長谷川、上山、赤田は共産党員の積極的な同調者として、前記細胞員等と共同して熱心に行動していた者である。会社は、前述のごとく、昭和二三年以来党によつて、関西における戦略的拠点工場と目され、党員は機会あるごとに、常に内外の力を結集して精力的に会社の従業員に働きかけ、内にあつては、造船、造機、電機、資材、総務、人事等の各部に散在してそれぞれ党活動を分担し、上下、左右、内外、互いに相呼応して活発な細胞活動を行つていた。ために社内における党勢力は急速に伸長し、昭和二四年当時においては、党員および同調者の数は、約三〇〇人にのぼると呼号するほどの勢力となつたのである。党勢力の一部は職場委員等の地位を獲得し、又組合執行部の中にも党員を送り込み、執行部内に「組合グループ」なる党組織を結成し、相互に緊密な連携をもつて、党上級機関の方針や細胞会議の決定に基き、細胞、組合グループの名において積極的な党活動に狂奔した。

元来、日本共産党が労働組合を目して、党の学校、党員獲得のための貯水池、ならびに党の日常活動の基盤として大衆団体中最も重視し、これが指導に最大の努力を傾注していることは、もはや顕著な事実に属するが、そのため、職場における党の拠点としての細胞は、経営体における革命運動の中心体、指導体として、党と組合員大衆を結合せしめる機能を有していたのであり、細胞員は、大衆の先頭に立つて革命的宣伝、煽動に当り、常にその行動を通じて大衆を訓練し、組織化することの任務が与えられ、可及的に組合執行部の中に細胞員を送り込み細胞グループを組織して組合の指導権を獲得し、組合運動を党の方針に従属せしめるよう努力を傾注しているのである。しかも、党員には党に対する高度の行動の義務が課せられていることは、前述((一)の3参照)のとおりである。

その行動の戦術面からみるとき、原告等が川造細胞の構成員又は同調者として行動するに当つて、細胞名を使つて公然と行動することが有利であるときは、細胞活動であることを明示し、それが不利なときは、細胞としては、裏面においてその企画指導に当りながら、表面上は、或は組合活動のごとく仮装し、或は自然発生的な闘争であるかのごとく誘導する方法に出ることが、極めて多かつた。このように細胞の用いる戦術は種々であるが、その意図するところは、あくまで闘争を通じて従業員の階級意識の強化と党勢の拡大をはかり、まず一義的に党に奉仕するというところにあつた。

したがつて、仮りに原告等の行動中に表面上組合活動とまぎらわしく、これと競合するかのごとく思われる部分が存在したとしても、それは党活動とみるべきものであつて、組合活動とみるべきではない。このことは、原告等の行動が組合の団結を無視し組合の統制に反し組合員の多数によつて支持されていなかつたことからしても、裏付けられる。

別紙(三)に列記する各種事件は、いずれも当時の日共の指導方針に沿うものであり、結局は経済主義に立脚する労働組合運動を否定して一切の闘争を内閣打倒、人民政府の樹立および国民の反米闘争等に結びつけ、政治闘争、権力闘争化せんとするものである。右は、職場内の闘争のみならず、隠退蔵物資の摘発闘争(別紙(三)の3事件参照)、いわゆる反動立法反対闘争(同5事件参照)等の職場外の活動にも一貫して現われたところであり、前記の各種不法事件において、細胞名、その他党機関の名義を付した多数のアジビラが毎日のように配布され、又事件発生の前後には必ずといつていいほど原告等をふくむ職場の細胞員が会合し或は細胞会議を開いて、謀議していた事実に徴しても、さらに昭和二五年春の賃上げ闘争において執行部内の「組合グループ」が公然と組合員大衆に呼びかけを行つた事実からしても、これら企業阻害の不法事件が原告等の党活動(細胞活動)であることが明かである。

5  原告は、原告等が参加した行動は、職場闘争として、正当な組合活動であると主張するけれども、原告の右主張は理由がない。

(1) 原告主張の職場闘争戦術は、当時の組合が正式に決定した闘争指針ではない。

イ、組合の内部組織である職場が主体的に組合活動をなすについては、組合の統制と承認のもとに行われなければならない。しかるに、川造労組においては、組合規約上職場の組合員が独自に意思決定を行い、独自に行動することが許される旨の特別の条項もなく、さらに組合大会において職場組織の構成や権限につき何等かの決定がなされたという事実は存しない。当時における組合決議機関は、規約上、大会と委員会と執行委員会であり、常設的機関は委員会と執行委員会のみであつて、闘争時において職場闘争委員会というような組合の組織はなかつた。ただ、右の委員会を構成する委員が部又は工場ごとに集まつて談合することがあり、通常右談合を部委員会又は工場委員会と呼んでいたが、これらはもとより組合規約上の組織ではないし、又組織と呼ぶほどの形態をそなえたものでもなかつた。したがつて、当時職場がそれ自体組合としての保障対象となり得べき団結とみられる根拠はなく、況んや組合の指示によらずに独自の争議行為に訴えるがごとき能力を有していなかつた。したがつて、当時組合は職場闘争戦術を採用し得るに足る内部的組織に欠けていたから、組合活動としての職場闘争を組合の方針として打ち出す余地はない。

ロ、のみならず、当時組合は職場闘争を組合の運動方針として正式に決定したことはない。いわゆる職場闘争が労働組合運動の重要な課題として今日世上で論議されているような意味と形態をもつに至つたのは、昭和二八年の日産争議を契機とするものであつて、それ以前においては、共産党が早くからかかる戦術を強調し、組合運動の面でも共産系の分子によつて一部提唱されていた事実はあるが、労働組合として全面的に職場闘争を運動方針として取り入れ実施したことは、一般になかつたのである。原告の提出にかかる甲第八号証(「昭和二四年越年闘争を如何に闘うか」と題したパンフレツト)および甲第九号証の一(「賃上闘争は如何に闘うか」と題したパンフレツト)には、組合の名前が記されてはいるが、それらは、組合の常任執行機関であつた専門部長会議に諮つて決定されたものではなく、当時の組合の一部、特に教育出販部長等の意見を組合員の参考に資するためのものにすぎない。これ等の点と乙第二四号証を考え合わせると、原告のいう職場闘争は、川造細胞の方針を示すものにしかすぎない。

ハ、したがつて、原告等の行つた闘争はこのような状況のもとに行われたものであるから、仮りに個々の組合員としての立場で行動するという意識があつたにしても、それ自体組織的な組合運動という名に値いしない。すなわち、原告等が恣意的に職場の組合員を勝手に集めて行動を起したにすぎず、労働法上の団体行動たる実質をそなえていないのである。

(2) 仮りに、組合が職場闘争の一般的方針を決定したとしても、原告等の行動は、次の各理由により、違法不当であつて、正当な組合活動を逸脱するものである。

イ、職場闘争を職場において実践するためには、当然右に関する組合執行部の具体的な指示統制に従わなければならない。しかるに、原告等のした集団的職場放棄等は組合執行部の意向を完全に無視し、その指示統制に反してこれを強行したものである。昭和二五年春の賃上げ闘争時においても、組合は、職場が組合の承認なしに独自に職場単位の実力行使に出ることまで許容していたのではない。組合の指示なくして職場の集団が実力行使に出ることは、組合に対する関係において統制違反になることは、いうまでもないが、組合が厳存しているにもかかわらず、組合との関係なく職場の組合員が独自の要求をかかげて、それが容れられないからといつて、争議行為類似の実力行使に出ることは、いわゆる純粋の山猫ストとして労働法上の保護に値いしないのである。

ロ、原告等が主導して職場において行つた諸要求は、「越年資金に関する所属長の意見」とか、「汚れ作業手当、危険作業手当の増額」とか、「工事出張日当の倍額増額」等であつて、いずれも全従業員の統一的労働条件に重大な関係を有するものであり、又これが実施のためには賃金規則等の改正を必要とするものであつて、本来職場における交渉の対象とするに適しないものばかりであつた。職場交渉が労働法上是認されるか否かについては、論議もあるが、これを是認する立場に立つ者においても、その要求事項は、職場固有の問題を中心とすべきものであつて、これを超えて全社的労働条件に関する要求やそれ自体協約、就業規則の改正、変更までふくむ事項を要求することは許されないとするのが、一般である。窓がこわれているから直してもらいたいとか、作業上危険な場所にその旨の掲示をしてもらいたいとか等の問題について、所属長に要求することまで不当なこととはいえないかも知れないが、前記手当の増額等のごとく、統一的労働条件に関する要求を職場交渉において求めることは、一面組合の団結自体を無視するものであり、正当な団体交渉のルールを侵すものである。そのような性質の要求は、本来組合執行部に吸い上げて、組合と会社との正式の交渉手続に移すべきであつて、組合の正式の委任を受けていない職場の集団がこれらの事項につき何等の権限も有しない所属長を交渉相手として交渉を強要するがごとき行為は、団体交渉権の正当な行使とはいえない。

ハ、原告等が職場闘争としてとつた行為の態様は、著しく不当であり、職場秩序を全く無視するものであつた。仮りに、職場に苦情があつて、その問題について所属長と交渉する必要がある場合においても、社会的に相当とする節度をもつて行われなければならない。しかるに、原告等の行つた職場交渉の大部分は、不法な集団交渉であつて、多くの場合、就業時間中多衆をもつて或は所属長の室に乱入し、退去の命令にも応ぜず、或は所属長を多衆の面前に連れ出し、多衆の威力を背景として雑言をあびせ、人身攻撃等を行つて所属長に身の危険を感じさせるまでにこれを吊し上げる等の行為をほしいままにしたのであつて、それ自体交渉の名に値いしない不当なものであつた。又その交渉の態様も、定められた手続と秩序の下において、誠意と理性とをもつて話合いを行い、職場の苦情の解決とか、他の問題の処理を行うというものではなく、もつぱら些細な職場の事項をとらえて過大に従業員に呼びかけ、不当に燃え上つた群集の異常心理を利用して職制に圧力を加えてこれを吊し上げ、これが自信を喪失せしめて職制の機能を減退麻痺せしめ、或は従業員大衆に徒らに職制に対する不信軽悔の念を植えつけ職場における秩序を混乱させることを目的としたとみるほかはない。それほどに、その交渉における原告等の態度は非常識であり感情的であつたのである。

ニ、したがつて、原告等の行つた職場闘争は、その目的において、交渉事項において、交渉の態様において、さらには要求貫徹のためにする恣意的な実力行使の点において、違法不当のものであり、いずれも組合活動としての正当な範囲を著しく逸脱したものである。したがつて、この点に関する原告等の主張は理由がない。

(四)  原告の不当労働行為の主張に対する反論

原告等の行為が組合活動、少くとも正当な組合活動と解すべきものでないことは、前述のとおりであり、さらに加えて、原告のこの点に関する所論は、本件整理が占領軍当局の共産主義的分子の排除に関する強い要請を重大な契機としている事実を全く無視したものであつて、原告の所論は理由がない。

なお、原告のうち、組合役員の経歴を有する者は、尾崎、矢田、久保、村上、中村の五名にすぎず、これを組合委員の地位まで拡張してみても、昭和二四年ないし昭和二五年の間に委員の経験のある者は、角谷、矢田、西村、久保、水口、神岡、露本、赤田、谷口、中村、田中であつて、その他の原告等は組合役職の経歴は有しないのである。これを被整理者全員について昭和二十四、五年当時における組合役職関係者の比率をみれば、組合役員の地位にあつた者七名、組合委員ならびに執行委員(非専従)の地位にあつた者三三名であつて、その他の六五名には何等の組合役職の経歴はない。しかも、右にいう委員とは、当時の組合規約によれば、組合員三五人に対し一人の割合で選ばれることになつており、したがつて、従業員中委員の地位にあつた者の数は極めて多かつたのであるから、委員の地位にあつたことの故をもつて、直ちに積極的な組合活動家とみることも、正当ではない。さらに、当時、細胞は組合を重要な基盤としてその指導部に多くのオルグを潜入せしめ、組合の指導権を掌握することに最大の努力を傾注していたことを思えば、被整理者中に組合経歴のある者が仮りに多数存在しても、別に不思議ではなく、そのことの故に直ちに会社が組合活動の弱体化をねらつたなどと速断することは、本件整理の性格ならびに経過に照して、もとより不当である。

(五)  原告主張の懲罰的解雇ならびに解雇権乱用に関する各所論は、本件整理に関する前記被告の所論に照し、理由がない。

(六)  原告遠藤、尾崎、村上に対する定年制に基づく抗弁

本件訴は、会社が昭和二五年一〇月一四日原告等に対して行つた解雇の意思表示の無効確認を求めるものであるが、右訴は、原告等と会社との雇傭関係の存在確認を求める訴としてのみ許されるものである。ところで、原告等と会社との雇傭関係がすでに消滅したとする被告の上記各主張が理由ないとしても、会社の就業規則第七八条によれば、被告会社の従業員はすべて満五五才をもつて定年となり、六月末日までに満五五才に達する者は六月末日に、一二月末日までに満五五才に達する者は一二月末日にそれぞれ退職することに定められている。しかるところ、原告村上は昭和三四年一月一〇日に、同遠藤は同年一二月八日に、同尾崎は昭和三五年一月一日にそれぞれ満五五才に達しているから、右就業規則に基き、原告村上は昭和三四年六月末日附、同遠藤は同年一二月末日附、同尾崎は昭和三五年六月末日附をもつて、いずれも定年退職となる関係にあるから、右原告等と会社との雇傭関係はすでに終了しているものといわねばならない。したがつて、右原告等の本訴請求は、この点からしても棄却せらるべきである。

定年による雇傭関係の終了についても定年者の承諾を要するとか、定年後も引き続き雇傭を継続する社内慣行が存するという原告の主張は、被告においてすべて否認する。

四、証拠関係〈省略〉

理由

一、原告等がいずれも被告会社の従業員であつたこと、被告会社が昭和二五年一〇月一四日附通知書をもつて、原告等をふくむ会社従業員一〇五名に対し、同月二〇日附をもつて解雇する旨の解雇の意思表示をなし、原告等がその頃該通知書を受領したことは、当事者間に争がない。

二、辞職願を提出した原告について

被告主張の合意解約成立の抗弁ならびにこれに関連する双方の主張を順次検討する。

(一)  原告の角谷、篠原、矢田、守谷、西村、久保、水口、長谷川、上山、村上、石田、神岡、露本が前記昭和二五年一〇月一四日附の通知書を受領した後、会社に対してそれぞれ辞職願を提出し、会社から退職金、餞別金等を受領したことは、同原告等の自認するところであり、原告の矢田、守谷、水口、長谷川、上山の辞職願提出日が昭和二五年一〇月二三日で、右金員受領日が同日頃であることは、当事者間に争なく、成立に争のない乙第六号証の八、九、二〇、二一、三六、三八、四〇、四二の各一、二および当審における原告露本忠一の供述によると、原告露本の辞職願提出が同月一七日で右金員受領が同月二〇日であること、原告西村の辞職願提出が同月二〇日で右金員受領が同月二一日であること、原告の角谷、篠原、久保、村上、石田、神岡の辞職願提出と右金員受領がいずれも同月二三日であることが認められる。

(二)  成立に争がなく、かつ、その文面が原告等の受領した前記通知書と同一であることについても争のない乙第四号証によれば、原告等の受領した前記通知書には、「会社と致しましては、……令般止むを得ない都合により、……十月十四日附を以て貴殿の退職を願うの他ないことになりました。就きましては、来る十月十九日迄に会社に御届出の上、円満退職せられるよう御勧め致します。従つて、右期日迄に退職の御申出のあつた場合は依願解職の取扱いを致しますが、御申出のない場合には十月二十日附を以て本通告書を解雇辞令にかえ、解職することに致しますから、御承知下さい」との文言が記載されているほか、右通知書の左「記」の中に、「依願退職する場合」にも「予告手当金三十五日分」を支給すること、「十月十九日迄に退職願を届出た場合も」「十月十六日より同月二十日迄の会社都合による休業賃金」を支給すること、ならびに「餞別金」は「十月十九日迄に退職願の届出のない者に対しては支給しない」ことが記載されていることが認められ、さらに、成立に争のない乙第六号証の八、九、一六、一九、二〇、二一、二七、三三、三五、三六、三八、四〇、四二の各一によれば、前記原告のうち、守谷、上山の提出にかかる「辞職願」には「私儀右の理由により辞職仕度此段及御願候也」との記載があり、その他の原告の提出した「辞職願」には「私儀辞職致し度く此段御願申上ます」との記載があるが、そのいずれの辞職願にも辞職の理由が記載されていないことが認められる半面、当審における証人鍛冶孝雄の証言によれば、会社の従業員が辞職願を提出して任意退職する場合には、その理由を辞職願に書かせるのが普通であること、当審における証人下堂園辰雄、永安伸三の各証言によれば、任意退職者に対しては、予告手当を支払う必要はなく、通常の場合は支払つていないこと、又当審における証人坂口干雄の証言によれば、餞別金は就業規則に定められていない特別の退職給与であることが認められる。以上の事実を対比しながら前記通知書の文言を仔細に検討するときは、該通知書は、原告等に対して昭和二五年一〇月二〇日限りで解雇する旨の単純な期限付解雇の意思表示に尽きるものではないことが明かであつて、被告会社は、右通知書により、原告等に対して会社側の都合に基く雇傭契約の合意解約の申入をなし、これに対する原告等の承諾方を勧告するとともに、これに併せて、原告等の側からの退職の申込の誘引をも行つたものと解し得るのであつて、原告側の承諾(会社の解約申入に対する承諾)および申込(会社の退職誘引に応じた合意解約の申込)(以下、両者を包括して合意解約又は合意退職と略称する)の期限を同月一九日までとし、同月一九日までに合意解約の申出がないときは、同月二〇日限りで解雇する条件付解雇の意思表示をなしたものであることが認められる。したがつて、本件整理の過程において、雇傭契約の合意解約の成立する余地があるものといわなければならない。

(三)  原告等は、右通知書の指示する一〇月二〇日以後、したがつて、原告等が被告会社から解雇扱いを受けることになつた以後において、辞職願を提出したものであるから、合意解約の成立する余地がないと主張する。しかしながら、原告露本が被告の右指定期限内の一〇月一七日に辞職願を提出していることは、前記認定に照して明かであるから、同原告については、すでにこの点において、右抗弁は理由のないことに帰する。又その他の原告については、同原告等が右一〇月一九日までに辞職願を提出していないこと上叙説示に照して明かであるけれども、当審における証人坂口干雄、中江範親の各証言により成立の認められる乙第五号証、右証人中江範親の証言により成立の認められる乙第一一号証の二と原審(第一回)および当審における証人中江範親、当審における証人坂口干雄、下堂園辰雄、相原英雄、永安伸三、仙波佐市の各証言によれば、会社は本件の整理に関して、組合と団体交渉を持つたが、組合は、同年一〇月一八日の団体交渉の席上、「本件整理に対する組合の態度を決定する必要があるから、被整理者に対する合意退職の勧告期間を同月二三日まで延長されたい」旨を要望したので、会社は、これを諒承し、同月一九日人事部長名義で会社の正門前に、「解雇の日附は十月二十日とし、これを変更しない。但し、事務上の取扱いとして、十月二十三日迄に辞職願を提出した者は、勧告期間(十月十九日迄)中に願出た者と同様餞別金を支給する」旨を公示し、当時正門前に屯していた被整理者達に知らせる一方、組合からも当時被整理者達に右退職勧告期間の延長の次第を連絡したことが認められる。この事実を前記通知書の内容と合わせて統一的に理解するときは、一〇月一九日までに辞職願を提出しない者については、同月二〇日限りで一旦解雇扱いを受けることになるけれども、同月二三日までに辞職願を提出すれば、これを合意退職として取り扱い、その合意解約の効力をさかのぼらせて解雇扱いにしないことが定められたものと解し得るのであり、合意解約にかかる遡及的効果を持たせることを否定すべきいわれはない。したがつて、前記の一〇月二〇日以降同月二三日までに辞職願を提出した原告等についても、それぞれその辞職願の提出受理によつて合意解約が成立するものといわなければならない。原告のこの点に関する主張は、理由がない。

(四)  原告等は、辞職願の提出に任意性がない旨主張するけれども、これを確認するに足る証拠はない。かえつて、前掲の証人坂口干雄、中江範親、下堂園辰雄、鍛治孝雄、相原英雄、永安伸三の各証言ならびに前掲乙第四号証、前掲証人坂口干雄の証言により成立の認められる乙第一〇号証、前掲証人中江範親の証言により成立の認められる乙第一一号証の一ないし三、成立に争のない乙第六号証の一から一四まで、一七、十八、二〇、二一、二三から二六まで、二八から三二まで、三六、三八から四一まで、四三、四五、四六、五六、五七、六一から六四まで、および六六の各一、成立に争のない甲第一ないし第四号証、第六号証、前記(一)の争いのない事実と原審および当審における証人仙波佐市(原審は第一、二回)、原審における証人古田槌生の各証言、当審における元共同原告の宮崎伍郎(第一回)、矢野笹雄(第一回)、石川利次、池崎種松、梅野浩司、浅田義美、小林時則、小山竹二、平松一生、沖合善一、松尾幸雄、松尾美恵子ならびに原告本人遠藤忠剛、谷口清治、矢田正男、村上寿一、角谷一雄、西村忠、篠原正一、久保春雄、上山喬一、神岡三男、露本忠一の各供述を綜合すれば、次のとおり認められる。

会社は本件整理発表と同時に被整理者の会社構内への立入、ひいては会社構内にある組合事務所への立入をも禁止したので、被整理者の側では、会社の正門前にテントを張り、数十名の者が毎日のように屯して寄々対策を相談し、当時組合の専従役員で組織部長の地位にあつて本件整理を受けた元原告の宮崎伍郎を通じて、組合に対し、組合が本件整理に対して反対闘争に立つよう働きかけるとともに、前記一〇月一七日頃には、原告等(ただし、辞職組の露本、神岡、非辞職組の橋本をのぞく)をふくむ七二名の被整理者達は、本件原告の代理人である井藤誉志雄弁護士に依頼して地位保全等の仮処分申請の準備をすすめ、同仮処分申請事件を同月二〇日神戸地裁に提起し、その間組合の動向をひたすら注視していた。他方、組合の残留執行部は、会社内にいつかはいわゆるレッドパージの行われることを予期はしていたものの、組合に事前連絡なしに本件レッドパージを実施したことに対して、同月一六日の団体交渉において、会社側を難詰し、被整理者の個人別整理該当事由の説明を求めるとともに、少くとも被整理者の組合事務所への立入りおよび被整理者中の組合専従者(前記宮崎伍郎と青年部長であつた元原告の庭田一雄)を団体交渉に列席せしめることを要求したが、会社は、今回の措置は諸般の社会状勢より判断してやむを得ずとつた措置であり、慎重な態度で独自の方針をもつて臨んだということを繰返えし説明して組合の諒解を求めるとともに、組合側の要求をすべて拒否した。次いで、同月一八日の団体交渉において、組合は、本件整理に対する組合の態度決定が必要であり、退職勧告もこれと関係するから、退職勧告期間を同月二三日まで延長されたい旨を要望して、前述のごとく会社の諒解を取りつける一方、被整理者の中で、組合からみて整理基準に該当しないと思われる者について会社側の再考を求めた。かくして、退職勧告期間は同月二三日に延長されるに至つたが、組合執行部としては、本件レッドパージに対して労働組合として対抗し得るだけの力関係にないものと判断し、「一、今回の特別整理は世にいう「赤色追放」と考える。二、この赤色追放は、極めて高度な政治的或は思想的背景を有するもので、労働組合がその機関において本質を論じ闘うことは、現下の客観状勢より判断して困難と考えられる。従つて、今回の特別整理は承認する。三、正常な組合運動を守るため、これに該当しないと思われる者については、正確な反証をあげて、あくまで擁護する。」との執行部案を作成して、同月一九日組合機関の委員総会の討議に付したところ、絶対多数で可決され、同月二〇日の組合の全員投票においても、右委員総会の決定が賛成四、一七〇票、反対八五三票の絶対多数で承認される結果となつた。そこで、組合は、右結果を正門前に待機する被整理者達に通報するとともに、翌二一日、会社に対し、「特別整理を承認する。但し会社のいう整理基準に該当しないと思われる人達に対しては、組合のあげた反証を資料として再調査の上考慮願いたい」旨を回答する一方、その頃被整理者に対して、一人一、〇〇〇円の割合による別れ金を前記宮崎伍郎を通じて一括交付し(この別れ金については、当審における元原告宮崎伍郎(第一回)、原告矢田正男の各供述中これを闘争資金の趣旨に述べる各供述部分は、信用しない)。じご組合員資格を認めない措置に出た。

被整理者達の多くの者は、組合が反対闘争に立つことを期待し、組合の動向にひたすら注視して自己の態度決定を保留していたが、組合がすでに本件整理を承認して反対闘争を放棄し、組合本部の全造船もすでに指導力を失い、川造細胞内部にも対立を生じて統一的闘争を期し難いという四囲の情勢に当面して、被整理者達は自分達だけでいよいよ態度決定を迫られるに至つた。かくして、これら被整理者達の討議においても、辞職願の提出を潔しとせず、あくまで闘うことを主張する者と、この際辞職願を提出して餞別金を貰うのもやむを得ないとする者との二つに岐れ、後者の立場をとる者(原告露本をのぞく)の殆んどの者は、同月二〇日以降、ことに退職勧告期間の切れる同月二三日相次いで辞職願を提出するに至つた。本社工場の関係で証拠上はつきりしている者だけでも、その数は四十数名に達し、露本をのぞくその他の原告等はいずれもこの部類に属するのである。

会社は本件整理発表後、万一に備えて警戒態勢をしき、又若干の警察官が会社の正門附近を巡察していたにしても、会社側が原告等に対して辞職願の提出を強制した事実は全然ない(当審における元原告森田武司の供述中右認定に牴触する部分は信用しない)。さらに、原告等がいわゆるレッドパージの烙印を押された以上、将来就職の機会にも恵まれないであろうことを予想して生活の不安を深刻に感ずるところがあつたにしても、辞職願の提出を潔しとしない十数名の被整理者の存した事実ならびに上叙の経過に徴すれば、原告等が辞職願を提出するか、しないかの自由を失うほどに生存の危機に瀕していたとは認められない。原告露本に至つては、他の原告等とは趣を異にし、組合の態度も決まらない同月一七日、いち早く辞職願を提出していることは、すでに説示したとおりであつて、前記地位保全の仮処分申請にも加わつていないのである。

以上の事実からすれば、原告等には職場に残る自由こそ残されていなかつたにしても、解雇扱いを受けるか、辞職願を提出するか、そのいずれを選ぶかの自由だけは、被告の主張するとおり、原告等の自由な意思判断に任されていたと認められるのである。したがつて、この点に関する原告の主張は、理由がない。

(五)  原告は、原告等は真実合意退職する意思を有しなかつたものであつて、被告において原告等提出の辞職願がその真意でないことを知り又は知り得べかりしものであつたとか、右辞職願は原告等の右内心的意思によつて解釈されるべきものであると主張する。

1  まず、原告等に真実退職する意思がなかつたかどうかの点を検討する。

(イ) 原告露本、同神岡について、

原告露本が前記一〇月の一七日、組合の態度も見極めないでいち早く辞職願を提出し、同月二〇日退職金、餞別金等を受領し、他の原告等(神岡をのぞく)の前記地位保全の仮処分申請事件にも加わらなかつたことは、すでに認定したとおりであつて、前掲証人相原英雄、鍛治孝雄の各証言、当審における原告本人露本忠一の供述、上記(四)に認定した事実ならびに弁論の全趣旨を綜合すれば、原告露本は、被整理者の殆んど大多数の者が未だ去就を決め兼ねている間、率先して、辞職願を提出して餞別金等の交付を受くべきことを主張した者であつて、会社正門前の特設受付所で辞職願を提出して餞別金等を受領するに際して何等の異議を留めなかつたし、その後本訴を提起(昭和二七年一二月一二日)するまで二年一カ月有余の間会社に対して何等の苦情も申出なかつたことが明かである。これらの事実に、当時本件整理がレッドパージとして一般に受取られていた前記認定の事実を考え合わせると、原告露本は、本件整理に内心不満な点があつたにしても、諸般の情勢からレッドパージに抗すべくもないといち早く観念し、これを争つて餞別金を失うよりか、むしろ辞職願を提出して餞別金を得た方が賢明であると較量し、真実退職する意思のもとに率先右のごとく辞職願を提出して餞別金等を受領したものであると認めるのを相当とする。

原告神岡については、同原告が前記一〇月二三日辞職願を提出し、同日直ちに退職金、餞別金等を受領したこと、同原告も他の原告等の前記地位保全の仮処分申請事件に加わつていなかつたことは、上叙のとおりであり、前掲証人相原英雄、鍛治孝雄の各証言ならびに弁論の全趣旨に徴すれば、同原告も右辞職願の提出および右金員受領当時何等の異議を留めなかつたし、その後本訴提起まで約二年一カ月有余の間、会社に対し無為に過ごしてきたことが認められる。これらの事実と前記認定のごとき組合その他四囲の情勢が反対闘争に不利となつてきた状態のもとで右辞職願が提出された事実を考え合わせると、原告神岡は、本件整理に内心不満な点があつたにしても、組合が反対闘争を放棄する等の事態に当面し、孤立無援では抗すべくもないと観念し、本件整理措置を争つて餞別金を失うよりも、むしろ辞職願を提出して餞別金を貰つた方が賢明であると判断したものであると推認されるから、同原告も亦、辞職願提出当時においては、真実退職する意思を有していたものと認めるのを相当とする。

したがつて、原告露本、神岡については、原告の右主張はすでにこの点において、理由がない。

(ロ) その他の原告等について

原告西村が前記一〇月二〇日、原告の角谷、篠原、矢田、守谷、久保、水口、長谷川、上山、村上、石田が同月二三日、いずれも辞職願を提出して同日頃餞別金等を受領したこと、右原告等をふくむ被整理者七二名が同月二〇日附で前記地位保全の仮処分申請をなしたことは、上叙のとおりである。右仮処分申請事件の係属中に本訴が提起されたことは、被告の明かに争わないところであるから、右原告等は、辞職願を提出する前から今日に至るまで、本件整理措置を法廷で争つているわけである。これらの事実に前記(四)で認定した事実ならびにそこに掲げた証拠(ただし、乙第六号証の四〇の一と当審における原告神岡、露本の各供述をのぞく)を綜合すれば、右原告等は、会社の措置を不当としてあくまで闘うにしても、組合その他全造船等の支援を得られないし、本件整理がレッドパージであることからして、前記仮処分事件を続けていくうえで長期、苦難の路を歩まねばならぬことが予想されたし、離職後他に職に就き得るか否かの不安が控えていることでもあつた。原告等としても、辞職願を提出して餞別金を受領することは、会社側に円満退職の口実を与えて、将来の法廷闘争がより困難となることを予想し、その点では、辞職願を提出しないで闘争するに越したことはないことは、わかつていた。しかし、同原告等は、前記仮処分事件の担当代理人である井藤誉志雄弁護士(本件原告等の代理人)に相談して、辞職願を提出しても争う余地があるとの示唆を受けて勢いを得たところもあり、或いは、「会社が抜打的に本件整理通告をなし、被整理者の組合事務所への立入りを禁止し、被整理者には勿論、組合に対しても各人の具体的整理該当事由を説明することなく、又被整理者に意見弁明の機会さえ与えなかつた」措置を非人間的な態度として批難して、辞職願提出にともなう自らの不利な点は会社側の右の非人間性と相殺するもののごとく感得したりして、結局、今後生活しながら法廷闘争を続けてゆくうえからは、この際辞職願を提出して餞別金等を貰うのもやむを得ないと決断し、前記のごとく辞職願提出の措置に出たことがうかがわれる。したがつて、右原告等には辞職願提出および餞別金等の受領当時、真実退職する意思を有しなかつたものと認めるのが相当である。

もつとも、前掲証人相原英雄、鍛治孝雄、永安伸三の各証言によれば、右原告等が辞職願の提出および餞別金等の受領に際して、会社掛員に何等の異議を留めなかつたことが認められるけれども、右各証言によれば、いささかでも異論を留めるような者には、辞職願は受理されず、したがつて、餞別金も貰えない事情にあつたことが認められるから、右原告等が右提出受理に当つて異議を留めなかつたからといつて、そのことだけから直ちに原告等が退職の真意を有したものと断定することはできない。さらに、組合の反対闘争の放棄等四囲の情勢が右原告等をして辞職願の提出、餞別金等の受領に踏み切らせた大きな要因をなしていることは、まさしくそのとおりであるにしても、そのことから原告等をして本件整理措置に対する一切の反対闘争を断念させて真実合意退職するの意思を抱かしめるに至つたものと推断することはできないのであつて、現に右原告等が辞職願提出後も前記地位保全の仮処分申請事件を取り下げることなく継続して追行し(ただし、本訴提起後に至つて右仮処分申請事件が取下となつたことは、被告の明かに争わないところである)、その間本訴にまで発展して来た事実を直視すれば、右原告等は本件整理措置を争う意思を終始持続していたものと認めるのが至当であつて、右のごとき推断の許されないことが明かである。前掲証人相原英雄、鍛治孝雄、永安伸三の各証言をもつてしても上記認定を左右するに足らないし、他に上記認定を動かすに足る証拠はない。

2  そこで、次に、会社が右(ロ)記載の原告等の関係で辞職願の受理又は餞別金等の交付当時、原告等の真意を知り又は知り得べかりしものであつたか、どうかを検討する。

上来すでに説示したように、右原告等は辞職願を提出して餞別金等の支給を受ける際、何等の異議を留めなかつたが、餞別金は、辞職願を届出た者にのみ支給され、辞職願を提出しない者には支給されないことが原告等の受領した本件整理通知書に明記されており、辞職願を提出するか否かの差異は、餞別金を貰えるか否かの一点に存したことは、原告等の熟知するところであつた。しかも、会社側は、いささかでも異議をさしはさむような者の辞職願は受理せず、これに餞別金を支給しない建前にしていた。したがつて、右原告等が餞別金を得ることを目当てに辞職願を提出するものである以上、辞職願の提出、餞別金の受領に当つて異議を留めよう筈もなかつたのである。又原告等の申請にかかる前記地位保全の仮処分事件について、会社が原告等の辞職願を受理して餞別金等を交付した前記一〇月二三日当時(ただし、原告西村については、同月二〇日)に右事件の係属を知つていたとか、知り得る状況にあつたとかの事実は、これを認めるに足る証拠は何等存しない。さらに、被整理者の間でも、組合の反対闘争の放棄等四囲の情勢が被整理者に不利に進展し孤立無援の破目に追いやられた中にあつて、あくまで闘うことを言明して辞職願を提出しない者がある半面、会社が組合の要求を容れて延長した退職勧告期間の最終日である一〇月二三日に相次いで辞職願の提出をみるに至つた、という前記認定事実から推して、会社側が、当時、これら辞職願の提出は、四囲の情勢上、被整理者において闘争意欲を失い、本件整理措置を争わない趣旨のもとになされるものであると受取つたとしても、けだし、やむを得ないところであるといわなければならない。辞職願を提出すれば円満退職とみられるおそれのあることを原告等自身、すでに予期していたことを思えば、会社側が辞職願の受理、餞別金の交付当時、円満退職と信じたとしても、これをとがめることはできないであろう。

したがつて、以上の事実に徴すれば、会社は、原告等の辞職願の受理および餞別金の交付当時、原告等に合意退職する意思のなかつたことを知らなかつたし、又知り得べかりし状況になかつたものと認めざるをえない。この点に関して、原告の主張を認めて右認定を動かすに足る的確な証拠はない。したがつて、この点に関する原告の主張は理由がない。

3  原告は、会社側の受理した従業員の辞職願は、意思主義によつて解釈されなければならないと主張するけれども、労働契約の成立、終了に関する法律行為は、畢竟労働力の売買交換に関するものとして取引的性格を有し、かかる労働力の取引に関する法律行為の分野にあつても、一般取引法の領域と同様、法的安定の要請が確保されなければならないことは、あえて論ずるまでもないところであつて、その法律行為の解釈については表示主義の適用を受けるものというべきであり、原告の所論は理由がない。

(六)  原告は、被告が原告等を威迫ないし強迫して辞職願を提出せしめたと主張するけれども、これを認める証拠はないから、原告の右主張は理由がない。

(七)  以上により、会社と前記原告等一三名との間に雇傭契約の合意解約が成立したものというべきであるが、さらに、原告は、「本件整理通知書は、原告等を企業より排除する決定的な意思表示であつて、その中にふくまれる合意退職の勧告は、原告等を職場から排除する形式をいかにするかの因果関係にすぎないから、合意退職の効力は、解雇権の行使と同様に評価さるべきである」と主張する。その主張の結論的部分は、その趣旨必ずしも明確ではないが、そのいわんとするところは、「本件整理通知書に基く期限付(条件付)解雇の意思表示が原告主張のごとき理由によつて無効であるから、これと因果関係に立つ合意解約も無効である」ことを主張する趣旨と解して、判断する。

会社が乙第四号証の昭和二五年一〇月一四日附本件整理通知書をもつて、原告等に対し、合意解約の申入をなすとともに退職の申込をするよう勧告し、同月一九日まで(その後同月二三日まで延長された)に合意退職の申出がないときは、同月二〇日限りで解雇する旨の意思表示をなしたこと、会社が右通知書において、合意退職を申し出る者に対して餞別金を支給し、合意退職を申し出ない者に対してはこれを支給しないことを明示したことは、上叙のとおりである。ところで、本件整理通知には、右のとおり、合意解約の申入および退職申込の勧告ならびに期限付解雇の意思表示が合わせてふくまれている。したがつて、本件整理通知を受けた原告等は、合意退職の申出をしなくても、期限付で解雇される運命にあつて、企業内に残留し得る望みは完全に絶たれ、本来の意味における退職しない自由は存しない。原告等にとつては、企業から離職するに当つて、辞職願を提出して出て行くか、解雇を受けて出て行くか、そのいずれを選ぶかの自由しか残されていない。このように期限付解雇の申し渡しと同時に合意退職の勧告が行われた場合にあつては、当該従業員にとつて、その勧告に応じて合意退職するか否か、すなわち辞職願を提出するか否かの自由は残されているとはいえ、その自由を行使するか否かの行動の基底には、たえず使用者の期限付解雇の申し渡しがまつわりつき、影響し浸透していることは、否めない。この意味において、合意退職の勧告と期限付解雇の意思表示とは、単に並列的に比重を占めるものではなく、両者は事実上一体不可分のものとしてなされ、期限付解雇の意思表示を底辺として退職勧告がその上層に位しているのである。したがつて、その整理過程において合意退職が成立する場合、当該従業員をして合意退職に至らしめた主たる契機は、特段の事情の認められない限り、使用者の期限付解雇の申し渡しが作用して従業員に詰腹を切らせたとみるのが相当である。本件整理通告に期限付解雇の申し渡しがふくまれていなければ、恐らく、会社の退職勧告に応ずる者は、一人もいなかつたであろうことは、上記認定の被整理者の態度決定に至る経過に照し明かである。なるほど、合意退職が成立すれば、期限付解雇の申し渡しは効力を生ずるに至らないとはいえ、そのことは、決して期限付解雇の申し渡しが合意退職成立の主たる契機として事実上作用したことまでも否定するものではない。

これを使用者の側からみても、本件合意退職の勧告は、期限付解雇の申し渡しとは無関係に、したがつて、かかる申し渡しがなくても退職の勧告だけで、従業員の側から自発的に退職を申し出てくることを期待してなされたものと解することは、妥当ではないのであつて、むしろ、期限付解雇の申し渡しをおつかぶせ、その圧力を背景として当該従業員に詰腹を切らせようとするものにほかならないと解するのが相当である。本件整理通告に期限付解雇の申し渡しがなければ、一人の合意退職者も期待しえなかつたであろうことは、上記認定に微して明かである。当審における証人坂口干雄、中江範親の各証言からもうかがわれるように、本件合意退職の勧告は、原告等をふくむ一〇五名の整理対象者に対する企業外排除の意図を円滑容易に遂行するために考案工夫せられた整理の方法であつて、合意退職者に餞別金を支給して優遇するのも、かかる労務管理的意図に基くのである。したがつて、「使用者の合意解約の申入とこれに対する承諾の勧誘」「従業員の承諾」又は「使用者の退職申込の勧誘」「従業員の退職申込」「使用者の承諾」なる一連の形式による合意退職は、期限付解雇の申し渡しにふくまれる会社側の整理意図を断行する過程にすぎないのであるから、本件整理過程において解雇に至らずして合意退職が成立しても、それは、会社側の本来の整理(解雇)意図が合意退職の形式において実現されたことを意味するものにほかならない。

かような次第で、本件整理通知書にふくまれる合意退職の勧告は、同通知書に合わせふくまれた期限付解雇の意思表示の作用によつて原告等に詰腹を切らせる結果となつたものというべきであるから、会社の右期限付解雇の意思表示は、原告等と会社との間に成立した合意退職と相当因果関係に立ち、しかも右勧告による合意退職は会社の整理(解雇)意図の実現形式にほかならないから、もし会社の期限付解雇の意思表示に不当労働行為的意図その他の公序良俗に反するような意図が存するとすれば、本件合意退職も亦、無効に帰するものといわなければならない筋合いである。

しかし、被告の本件解雇の意思表示が就業規則によらないとか、就業規則違反の事実がないのにしたとか、懲戒手続をとらないとか、解雇権の乱用とかの理由によつて無効であるというような、未だ公序良俗違反の程度に達しない無効事由については、これらの無効事由は合意退職の無効をも招来すると解すべきではなく、合意退職における当事者の任意性がこれらの無効事由の違法性を遮断するものと解するのを相当とする。したがつて、合意退職も解雇権の行使と全く同一に評価さるべきであるとする原告代理人の見解は、右の限度において、失当たるをまぬがれない。

かかる視点からすれば、合意退職の成立した前記原告等についても、右のような公序良俗違反による無効事由の存否を判断したうえでなければ、その合意退職の効力を最終的に判定できない。そこで、この点につき、右の限度において、辞職願を提出しない他の原告等と一括して検討することにする。

三、辞職願を提出しない原告(遠藤、尾崎、市田、橋本、赤田、中村、谷口、仲田、田中)に対する被告主張の解雇承認の抗弁について、

被告は、右原告等が被告の供託にかかる退職金を被告主張の日時に受領したから、同原告等は本件解雇を承認したと主張する。原告等が被告主張のごとく供託にかかる退職金の還付を受けたことは、原告等も認めるところであるが、橋本をのぞいた他の原告は、多くの他の被整理者とともに昭和二五年一〇月二〇日附で会社を相手方として神戸地裁に地位保全の仮処分申請(同庁昭和二五年(ヨ)第四五二号事件)をしたことは、すでに認定したところであり、右還付当時、右仮処分事件が会社と係争中であつたこと、原告橋本も後から右と同種の仮処分申請事件を神戸地裁に提起し、右還付当時、同事件が会社との間で係争中であつたことは、被告の明かに争わないところであり、又成立に争のない甲第七号証の一、二によれば、原告谷口、仲田は、右還付に先立つ昭和二五年一二月六日頃、原告赤田、中村、田中は右還付に先立つ昭和二六年三月二九日頃、いずれも内容証明郵便をもつて、会社に対し、右供託金を給料の一部として受領する旨を通告していることが認められるのであつて、これらの事実に弁論の全趣旨(当審における被告提出の第八準備書面第二項の(三)参照)を綜合すれば、右原告等は本件解雇を承認する意思で供託金を受領したものでないことは勿論、被告においても、原告等が右受領当時本件解雇を争う意思を有していたことを知悉していたことがうかがわれるから、原告等の右供託金受領の一事をもつて、本件解雇承認の資料とすることはできない。したがつて、被告の右主張は理由がない。

四、本件解雇の拠るべき法規範について

本件解雇を受けた前記三掲記の原告と合意退職の成立した前記二掲記の原告につき、本件整理通知書をもつてなされた期限付解雇の意思表示が原告主張のごとき事由(ただし、合意退職の成立した原告については、公序良俗違反の事由に限ることをことわつておく)によつて無効であるかどうかについて判断するに当つて、本件解雇の拠るべき法規範の点ですでに当事者間に根本的な意見の対立があるので、まずこの点を究明する。

この点に関し、被告は、被告会社のごとき造船業をふくむ民間重要産業から共産党員およびその支持者(同調者)を排除することを要請した連合国最高司令官の指示が本件解雇当時存在し、本件解雇は超憲法的法規範たる右指示に合致するものであるから、本件解雇の効力の判断は右超憲法的法規範によつてなされるべきであると主張するのに対し、原告は、いわゆるレツドパージに属する本件解雇については、被告主張のごとき占領軍当局の指示はなく、企業経営者が自主的立場において実施したものであるから、国内法によつて判断されるべきであると主張する。そこで、本件解雇につき、被告主張のごとき連合国最高司令官の指示があつたかどうかについて検討すべき問題点は、

(1)  本件両当事者の挙示するマ書簡、ことに昭和二五年七月一八日附マ書簡は、被告会社のような造船業の経営者に対する被告主張のごとき指示をふくむものであるか、

(2)  本件解雇の直接の契機となつたエーミス談話は何等かの指示、ことに前記マ書簡に対する解釈指示をふくむものであるか、

(3)  最高裁判所がいわゆる中外製薬事件(昭和二九年(ク)第二二三号、同三五年四月一八日大法廷決定)の決定において判示するところの解釈指示は、これをいかに理解すべきであるか、

(4)  前記マ書簡およびエーミス談話が何等かの指示(解釈指示をふくむ)をなしたものであるとしても、その指示はいかなる内容を有するか、

の諸点に存するのであつて、これらの点に対する当裁判所の判断ならびに見解は、次のとおりである。

(一)  当審における証人今井俊介、原審における証人細田平吉(一部)原審および当審における証人坂口干雄(原審は一部)中江範親(原審は第一、二回)、下堂園辰雄(原審は第一回)、塚本碩春(第二回)の各証言と右証人坂口干雄の証言により成立の認められる乙第二号証、成立に争のない乙第一号証、甲第四号証ならびに弁論の全趣旨を綜合すれば、次の事実が認められる。すなわち、

総司令部経済科学局エーミス労働課長は、電産、映画、日本通運に続いて、昭和二五年九月二五日、造船、機械、鉄鋼、石炭、金属等の民間重要産業の経営者および労働組合の各代表者を総司令部に招致し、大要左のとおりの談話を発表した。

(1) 共産党員が近時企業内で経営を妨害し破壊活動を行つている事実に鑑み、企業経営者は、企業を破壊活動から防衛するため、自主的立場において、企業破壊分子である共産党員およびその同調者を企業から排除しなければならない。

(2) この排除は、労働組合にとつては、一部組合員の破壊行為を排除して自由かつ健全な労働組合を守るものである。

(3) この排除は、総司令部又は日本政府が行うものではなく、企業経営者が自主的立場において労働組合と協力して行うものである。

(4) この排除は、占領軍の占領政策であり、屡次のマ書簡の趣旨に副うものである。

(5) 正当な組合活動をした者を便乗解雇してはならない。

(6) この排除措置は同年一〇月中に実施し、実施完了次第総司令部に結果を報告すること。

そこで、右談話をきいた造船工業会では、同年九月二六日頃傘下企業の人事担当者から成る労務委員会を緊急招集して、右談話の要旨を伝達したが、不明疑問の点も生じたので、翌二七日頃造船工業会の代表が再びエーミス課長と会見したが、その会談内容は大要左のとおりであつた。

(7) エーミス課長は、前記談話が占領軍の命令(指示、指令をふくむ)であるかどうかの点については、明言を避け、またそれが命令であることをはばかる様子であつたが、右排除が占領軍の占領政策の基本的なものの一つであることは重ねて強調し、企業を破壊活動から防衛することは、本来企業経営者および民主的な労働組合が自発的になすべき事項であるから、自発的にやるようにと附言し、なお、右排除に応じない企業に対しては、船舶の建造は許可されないであろうと述べた。

(8) 整理対象者の範囲について、共産党員は行動を義務づけられていて潜在的危険性があるから、原則として排除の対象に該当するが、ただし過去に党員であつても、その後脱党して党と関係を絶つている者、党員であつても党費を払つていない者或は企業阻害活動をしていない者は除外してもよろしい。同調者は、非党員で党員とともに破壊活動をする者である。被整理者の人選、党員・同調者の認定、判断は経営者側の責任においてすること。

(9) 排除については、労働組合と話し合うことが望ましい。

(10) 総司令部への実施結果の報告は、造船工業会でとりまとめてすること。

(11) 整理過程でトラブルが起これば、総司令部に報告すること。

そこで、造船工業会では、即日前記労務委員会を開いて、傘下各企業に対し右の顛末を報告した。(エーミスの前記談話と右会見内容を合わせて、本件ではエーミスの談話という。)

かくして、被告会社は、右エーミスの談話を造船事業に対するいわゆるレツドパージの示唆として受取つたが、示唆とはいい状、事実上これを至上命令として本件整理に踏み切る一方、右整理措置を企業の自主的自発的立場において実施しなければならないとの右エーミス談話に基き、被告会社としては、国内法的視点から本件整理を実施することとし、当時一般に行われたこの種整理の事例を踏襲して、企業防衛の見地から主として共産党員および同調者の企業阻害的破壊活動に着目し、会社の就業規則第七七条第一項二号の「やむをえない業務上の都合による場合」に準拠して本件整理を断行したものである。

原審における証人坂口干雄、細田平吉、相原英雄の各証言中以上の認定に反する趣旨の発言部分は前掲各証拠に対比して信用し難く、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

次いで、前記エーミス労働課長は同年九月二七日の日経連総会の席上において「赤追放に関して総司令部がこれを指示しているように考えられているむきもあるが、そうではなく、経営者、組合が話し合つてやつているのである」旨のあいさつをしたが(同月二八日附朝日新聞記事、縮刷版No三五一の七七頁参照)、この点については、被告の明かに争わないところである。また、わが国の労働省も同年一〇月九日各都道府県知事にあてた通牒(発労三一五号。これは、当審における証人今井俊介がその証言において触れているものである。労働法令三巻二六号所収。同年一〇月一二日朝日新聞記事、縮刷版No三五二の三三頁参照)において、世上レツドパージと称せられる解雇に関し、かかる解雇は、「経営者が自己の企業を破壊から防衛する為の措置として行われるものであり」「企業経営者及び民主的な労働組合がその自覚と責任において実施すべきである」旨の見解を明かにしている。大橋武夫法務総裁も昭和二五年一〇月一一日の第八回国会衆議院の地方行政委員会において、当時における共産党員およびその同調者の追放に関し、国内法の見地に立つての答弁を行つている(同委員会議録二一号九頁、一〇頁参照)。当審証人塚本碩春(第三回)の証言により成立の認められる乙第三一号証の一、二によれば、保利労働大臣も当時、全国労働委員会連絡協議会および経営者協会常務委員会の席上で、同様の見解を公式に表明している。政府ならびに労働省のこれらの見解は、右エーミス談話と軌を一つにするものであつて、特別の事情の認められない限り、総司令部の意向を体しているものとみるべきである。

上叙のごとく、前記エーミス労働課長がその談話において、企業および労働組合に対する破壊的活動分子である共産党員およびその同調者の排除をもつて占領軍の基本的占領政策であるとしながら、しかもその排除に対する企業経営者の自主性、自発性を強調している点、被告会社がエーミス談話を示唆として受取り、本件整理を国内法的立場において自主的に実施したのみならず、当時の政府もかかる立場をとつていた点は、特に注目すべき事実である。

(二)  いわゆるマ書簡(昭和二五年五月三日の声明をふくむ)について、

1 連合国最高司令官は、被告の挙示する右声明以来の屡次の書簡を通じて、被告引用の文言等を用いて日本共産党の活動を攻撃してはいるが、同司令官のこれに対処する仕方は極めて慎重であることがうかがわれる。すなわち、同司令官は、右五月三日の声明において、日本共産党が貧困のまだ回復していない日本の社会状態に乗じて、「最近においては」「正常な国家目的に奉仕するという仮面すらかなぐり捨て、」「公然と国際的略奪勢力の手先となり、」「人心をまどわし、人心を強圧するための虚偽と悪意にみちた煽動的宣伝を広く宣伝し」、さらに「反日本的であるとともに日本国民の利益に反するような運動方針を公然と採用している」とし、その戦術に関し、「労働階級の支持をうるため、労働者の諸権利を守るチヤンピオンを僣称し」、「言論および平和的な集会の自由、良心にもとづく信仰の自由その他普遍的に認められている基本的人権にもとづく諸自由の熱心な使徒であるかのごとく装つて」、「政治権力獲得に有利な地位を築くための手段として、社会、人心の不安を起こすことだけに限られている」と述べ、日共の活動に対し「果してこれ以上憲法で認められた政治運動とみなすべきかどうかの疑問を生ぜしめる」としながら、これに対処するに当つては、「平和的で法律の守られている社会に存在している一切の反社会的勢力に与えられているのと同じ考慮ならびに保護を考慮して、冷静に公正に、かつ感情にとらわれずに解決されなければならない」と述べるとともに、当面の問題提起として、「現在日本が急速に解決を迫られている問題は、全世界の他の諸国と同様、この反社会的勢力をどのような方法で国内的に処理し、個人の自由の合法的行使を阻害せずに国家の福祉を危くするこうした自由の濫用を阻止するかにある」と述べ、さらに「いかに基本的人権が、それ自体を破壊する具となることなく侵害されずに行使できるかということである」と述べ、最後に、「こんご起こる事件が、この種の陰険な攻撃の破壊的潜在性にたいして公共の福祉を守りとおすために日本において断固たる措置をとる必要を予測させるようなものであれば、日本国民は憲法の尊厳を失墜することなく英知と沈着と正義とをもつてこれに対処することを固く信じて疑わない」と結んでいる。次いで、連合国最高司令官は、同年六月六日附の書簡において、ポツダム宣言(第一〇項参照)にある「日本国国民の間における民主主義的傾向の強化に対する一切の障害を除去」させることが連合国ならびに占領軍の政策の基本的な目的の一つであることを説き、日本共産党が反民主主義的、暴力的破壊活動の煽動を企てているとしながら、これに対処する措置として、同書簡では、日本の政界におけるこれらの煽動者と目される日本共産党中央委員会全員の公職追放を指令し、同月七日附書簡では、「共産党内部の最も過激な無法分子の代弁者の役割を引受けてきた」アカハタ編集責任者の追放を指令し、さらに同月二六日附書簡によりアカハタ(後継紙、同類紙をふくむ)の三〇日間の発刊停止措置を、同年七月一八日附書簡によりアカハタおよびその後継紙ならびにその同類紙の無期限発刊停止を各指令するに至つた。

本件における当面の問題にとつて極めて重要なことは、ポツダム宣言(第一〇項)に基き日本国民の間における「言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重」を確立することも亦、連合国ならびに占領軍の基本的な政策の一つをなしていた関係上、連合国最高司令官は、日本共産党の活動を痛撃しながらも、これに対する対処の仕方は上述のごとく極めて慎重であり、共産党自体を非合法化することなく、しかも事態の発展に即応して措置を必要とする場合においても、共産党の中央における中核的分子ならびに党の機関紙関係のみを対象として指令(direct)し、しかもその指令は、日本政府あてにするという対日管理の原則的方針に則り、かつ、その指令の内容は極めて明確にされていたということ、ならびに連合国最高司令官の基本的態度として、右声明に照して明かなように、日本国民が共産党の活動に対し、憲法を正しく擁護することによつて、いかに国内的に処理解決するかに大きな期待と望みを託していたということである。

2 連合国最高司令官の共産党活動に対する以上のごとき基本的態度に照してみるとき、被告の挙示する前記マ書簡をいかに通読精読しても、これらの書簡を通じて同司令官が直接わが国の民間重要産業の経営者に対して、その企業から共産党員およびその同調者を排除することを要請したという指示を汲み取ることはできない。

もつとも、被告も引用しているように、前記七月一八日附書簡の中には「現在自由な世界の総力を結集しつつある偉大な闘においては、すべての分野のものは、これにともなう責任を分担し、かつ誠実に遂行しなければならない」との文言がある。右文言が前記の「日本国国民の間における民主主義的傾向の強化に対する一切の障害を除去」することをもつて連合国および占領軍の占領政策の根本的な目的の一つとしていたことと相まつて、被告の見解の支柱をなしているように思われる。そこで、この点を吟味するのに、前記七月一八日附書簡の右文言については、日本語の飜訳文も勿論連合国最高司令官の直接法の形式をとつていないが、右日本文から受ける感じとして、どことなく命令的、指示的要素もあるかのような言葉の響きを持つている。ところで、かかる命令的指示的要素が右文言にあるかどうかについて疑義のあるときは、正文である英語の本文に拠るものとされるから(昭和二〇年九月三日連合国最高司令官指令二号四項)、これを英語の本文に徴すれば、右文言に相当する部分は、

In the great struggle which is now engaging the forces of the free world all segments must accept and faithfully fullfill their share of the attendant responsibility.

となつている。その趣旨とするところは、自由主義の世界と共産主義の世界に二分して対決しつつある世界情勢を背景として、「現在自由主義世界の総力を結集しつつある偉大な闘い(主として朝鮮動乱を指すと思われる)においては、自由主義の世界に属する日本のあらゆる分野のものは、これにともなう責任に対する各自の分担の存在することをその自覚と自由なる意思に基いてそのまま受け入れ、かつ自主的立場において誠実にその分担責任を遂行しなければならない」ということである。これを国民に限定していえば、国民がこれらの行為をするにしても、それはあくまで国民がその自覚に基いて自由な意思のもとに自主的、自発的にすることを意味するものであつて、他から強制され義務づけられてするものでは決してないのである。右英文をこのように理解することは、「自由なる意思」を基調とする英米人の思考型式にも適合するのであつて、人にいわれてする場合に兎角人のせいにする日本人的な思考型式をもつてのぞむべきではない。前記文言をこのように理解するとき、該文言は、同書簡の結論(アカハタ等の無期限発刊停止措置の指令)を導き出すための大前提として、連合国最高司令官がその世界観より日本国民の心構えを説いたものであつて、同司令官としては、日本国民が右文言の趣旨に沿つて「責任」を分担し遂行することに期待を寄せていたにしても、そこには何等の命令的、指示的要素は介在しないとみるのが相当である。したがつて、右文言をもつて被告主張の見解の支柱とすることは、適切でない。さらに、「日本国国民の間に民主主義的傾向の強化に対する一切の障害を除去」することが、占領軍の占領政策の基本的目的の一つであつたにしても、そのことから、直ちに、被告の主張するような超憲法的法規範による「法的義務」が設定されたものとみることは、到底不可能である。

3 占領下においては、日本の国家機関および国民は、連合国最高司令官の発する一切の命令指示に誠実かつ迅速に服従する義務を有していたのであり(昭和二〇年九月二日降伏文書五項、同日連合国最高司令官指令一号一二項)、その点で、その命令指示は国内法に優越する超憲法的法規範であつた。しかも、かかる命令指示を遵守することを遅滞したり、又はこれを遵守しないとき、又は連合国最高司令官が連合国に対し有害なりと認める行為があつたときは、連合国官憲および日本国政府は、厳重かつ迅速なる制裁を加えるものとされ(同上指令一二項)、指令の趣旨に反する行為は処罰の対象とされていた(昭和二一年六月一二日勅令三一一号二条、四条参照)。したがつて、連合国最高司令官の発する命令指示のかかる法規範性からして、前記七月一八日附マ書簡自体の中に、公共的報道機関以外の重要産業より共産党員およびその支持者を排除すべき旨の法規範が存在するかどうかがさらに問題とされなければならない。しかしながら、同書簡には、公共的報道機関以外の重要産業等にも関すると思われる部分といえば、前記の「現在自由な世界の総力を結集しつつある偉大な闘においては、すべての分野のものは、これにともなう責任を分担し、かつ誠実に遂行しなければならない」の文言があるのみである。いわゆる朝鮮動乱にともなつて分担し遂行すべきわが国の国家機関および国民の「責任」の内容については、その内包においてもその外延においても、全く明確性を欠いている。これを国民の分担責任に限定してみても、国民の拠るべき行為規範というからには、いかなる内容の作為義務又は不作為義務を命ずる規範が定立されるにいたつたのか、その義務の内容が明確でなければならない。しかるに、前記書簡の右文言からも、その他の文言ならびに同書簡以前の被告の挙示するマ書簡(前記声明をふくむ)をいかに熟読玩味しても、被告主張のごとき前記法規範の設定を汲み取ることはできない。むしろ、連合国最高司令官が屡次のマ書簡において、その指令の内容を明確にしている一方、一貫して、健全な民主主義が日本の社会に育成発展すべきことを強調念願していることを考え合わせるとき、かかる内容不明の表現形式によつて同司令官が前記七月一八日附書簡自体の中に被告主張のごとき法規範を設定したものとは、到底考えられないのである。

また、前記七月一八日附マ書簡の発せられた当時は勿論、ことに前記の総司令部エーミス労働課長の談話が発表された後においても、右書簡が重要産業より共産党員およびその支持者を排除すべき指示をふくむかどうかの点について、世上論議の存するところであつたことは、本件両当事者の指摘するところであり、公共的報道機関以外のその他の重要産業においては、同書簡の発せられた事実だけで共産党員およびその同調者の排除措置に踏み切つた例はなく、そのいずれもが当該業界に対するエーミス談話を契機として右排除措置に出たことが、弁論の全趣旨に徴して認められるのである。しかも、業界は勿論、政府機関においても、前記マ書簡をはじめ、エーミス談話を法的規範の性格を有する指示として受取つていなかつたことは、上叙の説示に照して明かである。いやしくも連合国最高司令官の発した前記書簡自体の中に法的規範たる指示をふくむとした場合、右のごとき、指示の存否に関する争いにとどまらず、指示に基いて行動しなかつたという意味において指示の趣旨に反する行動の行われたことは、一体何を物語るものであろうか。果してかかる状態が、上叙のごとく厳しい統治関係に服する占領治下において、許される事態として放任され、又その方がその筋にとつて好都合だつたとでもいうのであろうか。いかに反社会的な勢力であるとしても、これに対して法規範をもつて一種の制裁を加える以上、その法規範は、内容において明確でなければならないことは勿論、その適用に当つても、連合国最高司令官の前記の声明にもあるとおり、「冷静に公正に、かつ感情にとらわれずに」処理されなければならない。しかるに、ゆるぎなき権力の把持者として憚るところなく発言し得た筈の連合国最高司令官の側でかかる状態に対して何等かの措置に出た形跡はうかがわれない(最高裁判所が前記中外事件において判示した「解釈指示」については後述する)。以上のごとき占領軍当局ならびにわが国内における無反応な表情に徴しても、前記マ書簡自体の中に造船業界に対する被告主張のごとき指示がふくまれているものとは解し難いのである。

4 かような次第で、被告の挙示するマ書簡(前記声明をふくむ)ならびにこれらの声明、書簡の相次いで発せられるに至つた当時の内外諸情勢として本件弁論に現われる全資料を合わせ考慮しても、前記七月一八日附書簡の内容は、少くとも民間重要産業に関する限り、明確性を欠き、その指定する基準がそれを適用する側の判断の指標として不十分であるばかりでなく、その適用を受ける側の行動の決定の指標としても極めて不十分であり、右書簡自体の中に被告主張のごとき連合国最高司令官の指示があるものとは、到底解し難いばかりでなく、発令官憲側の何等かの解釈指示を媒介することなしに、右各マ書簡、わけても前記七月一八日附書簡自体の中に造船業その他の民間重要産業に対する被告主張のごとき指示がふくまれるものと解することは、わが国の裁判機関としては、法解釈の限度をはるかに超えるものであつて、かかる法解釈の態度は、法の支配する民主主義社会においては到底許されないところであると信ずる。

(三)  マ書簡とエーミス談話との関係

以上(一)、(二)に考察したところを綜合すれば、連合国最高司令官は、わが国民の間における健全な民主主義的傾向の強化に対する一切の障害を除去することが占領軍の占領政策の基本的目的の一つであることを説く一方、他方では日本共産党の活動を非合法的、暴力的、反民主主義的活動ないしその煽動として鋭く批判攻撃しながら、しかもこれに対処する措置として、上記のごとく、日本政府あての各書簡によつて、共産党の中央における中核的分子に対する公職からの追放ならびにアカハタ編集責任者の地位からの追放、アカハタの発刊停止を指令するにとどめ、その余は概ね、わが国民の「英知と勇気と正義」に期待し、わが国民が憲法の精神を正しく運用して国内的にこれを処理解決することに信頼を託していたものであり、前記七月一八日附書簡にある「現在自由な世界の総力を結集しつつある偉大な闘においては、総ての分野のものはこれにともなう責任を分担し、かつ誠実に遂行しなければならない」との文言も、これをわが国の民間重要産業に関して適用すれば、結局、わが国の民間重要産業の経営者ならびに労働組合は、自由主義の世界の構成員としてこれに所属するものである以上、その自覚に基いて、国内的、自主的に、共産主義的勢力による企業ならびに労働組合内における破壊的活動に対処することを示唆していたものということができる。そうすると、前記エーミス労働課長がその談話において、造船その他の民間重要産業の労使の代表を前にして、「企業経営者はその自覚と責任において、自主的、自発的な立場から、企業ならびに労働組合に対する破壊的活動を行う共産党員およびその同調者を排除しなければならない」と説いたところは、その基本線において、連合国最高司令官の上叙の態度と全く軌を一つにするものであつて、右エーミス課長が右排除をもつて連合国最高司令官の前記屡次の書簡の趣旨に副うものであると言明したことが充分に理解できるのである。

このようにみてくると、法律的にいえば、前記エーミス談話は、屡次のマ書簡を通じて上叙のように解される前記七月一八日附書簡の前記文言に対する解釈指示的示唆と解することができるのである。したがつて、前記マ書簡にもエーミス談話にも被告主張のごとき指示は勿論、それに類する解釈指示(最高裁判所昭和三七年二月一五日第一小法廷判決、最高裁判例集一六巻二号二九四頁参照)もふくまれていないものと解するのを相当とする。

(四)  最高裁判所の前掲中外製薬事件の決定にいわゆる「解釈指示」について、

最高裁判所の前掲中外製薬事件の決定(成立に争のない乙第一一一号証)によれば、前記七月一八日附マ書簡に対する解釈指示として、公共的報道機関以外の「その他の重要産業」から共産党員又はその支持者を排除すべきことを要請したものと解すべきである旨の指示が、発令官憲側から「当時」最高裁判所に対してなされたことが認められる。(なお、同決定にいう「解釈指示」が公共的報道機関および「その他の重要産業」をふくめてなされたものであるのか、それとも「その他の重要産業」のみに対してなされたものであるのかは、同決定の文脈上必ずしも明かでないが、共同通信社事件に関する昭和二七年四月二日の最高裁判所大法廷決定(最高裁判例集第六巻四号三八七頁参照)がかかる解釈指示を援用することなく、前記七月一八日附マ書簡に対する最高裁判所自身の法解釈に基いて判断している事実に徴し、右判示にかかる解釈指示は「その他の重要産業」のみに関するものとして、検討する。)

連合国最高司令官の権限により発せられた一切の命令、指示、訓令に関し「疑義発生スルトキハ発令官憲ノ解釈ヲ以テ最終的ノモノトス」(昭和二〇年九月三日連合国最高司令官指令二号四項参照)とされ、発令官憲の解釈指示は、占領当時においては、わが国の国家機関および国民に対し、最終的権威をもつていたのであるが、前記七月一八日附マ書簡の趣旨が少くとも「その他の重要産業」に関する限り極めて不明確で、何等かの発令官憲側の解釈指示をまたずしては、到底具体的な法規範と解し得ないことに徴し、さらに、前示認定の解釈指示は被告会社の本件解雇の準拠規範を国内法から超憲法的法規範たる連合国最高司令官の指示に置き換える作用をもつものであることに徴し、前示認定の解釈指示は、解釈指示とはいい状、本来、わが国の裁判所(労働委員会をふくむ)のすべてにとつての裁判規範であると同時に、関係企業にとつての行為規範たる性質を有すべき筋合いのものである。しかるに、右解釈指示については、最高裁判所が「そのように解すべきである旨の指示が当時当裁判所に対しなされたことは当法廷に顕著である」と判示するのみで、該解釈指示を官報に掲載するとかその他の方法によつて、当時他の裁判機関ならびに関係当事者をして該解釈指示を知り得べき状態においた証跡は認められない。

以上によつてみれば、最高裁判所に対してなされた前記解釈指示は、最高裁判所を覊束する趣旨のもとに最高裁判所に向けられたところの、解釈指示命令であつて、その他の裁判機関ならびに関係当事者をも拘束するような解釈法規範を設定する趣旨のもとになされたものではないと解するのが相当である。仮りに、右解釈指示が関係当事者をはじめ他の裁判機関をも拘束するような一般的な解釈法規範を定立する趣旨のもとになされたものであるとしても、本件解雇の行われた当時これを一般に知らしめる措置がとられていない以上、当裁判所は、かかる解釈指示を本件に対する裁判規範として適用することはできない。のみならず、昭和二五年一〇月二〇日附毎日新聞紙上(縮刷版同月号五三頁参照)に、前記総司令部「エーミス労働課長は同月一九日島上総評事務局長、小椿炭労事務局長ら一四主要労組代表を招き会談したが、島上が語るところによると、エーミス課長の発言内容は次の通りである」として、「赤追放問題」に関し、「総司令部が中労委および裁判所に対し、この問題に関し何らの指示も与えたことはない」と報道されている事実(右報道は真実を報道したものと認める)に徴すれば、本件解雇の意思表示の行われた昭和二五年一〇月一四日よりその効力の生ずる同月二〇日頃にかけての当時においては、まだ解釈指示はなされていなかつたことが推認され、而して上叙のごとき性格を有する解釈指示については、発令官憲の特段の措置がない限り、法規範不遡及の原則の適用を受けるものと解するのを相当とするところ、最高裁判所の右決定は、本件解雇後の昭和二五年一〇月二三日付で解雇の行われた中外製薬の事件(最高裁判例集一四巻六号九一三頁、九一五頁参照)に関するものである。したがつて、右事件の解雇当時に解釈指示があり、しかもそれが対象企業に適用されるべきであるとの立場をとるとしても、その解釈指示がすでにそれ以前に実施ずみの本件解雇に対して当然に遡及するかどうかについては、前記最高裁判所の決定によつてもこれを証するに足らない以上、一般原則にかえつて、右解釈指示は指示後に行われる「その他の重要産業」にのみ適用されるべきであつて、本件解雇に及ばないというべきである。

上叙の各理由により、最高裁判所の前掲決定からうかがわれる解釈指示は、いずれにしても本件に対する裁判規範としてこれを適用することはできないといわざるをえない。

(結論)

以上の各論拠に説示したところに照し、「被告挙示のマ書簡および前記エーミス労働課長の談話ならびに最高裁判所の前記中外製薬事件の決定にいう『解釈指示』を各論拠として、本件解雇の準拠規範が連合国最高令司官の指示である」とする被告の見解は、当裁判所の採用しえないところである。

(五)  当裁判所の第二次的立場

仮りに、前記エーミス労働課長の談話が前記七月一八日附マ書簡に対する解釈指示を表明したものであつて、これらにより「その他の重要産業」に対する何等かの指示がなされたものであるとしても、その指示の内容については、さらに検討されなければならない。すなわち、

1 被告挙示のマ書簡を通じ、連合国最高司令官は、日本共産党の暴力的破壊行動の煽動とこの煽動による無責任、不法の少数分子による「法に背き、秩序を乱し、公共の福祉を損」う危険の明白性を警告しているが、同司令官は、前記七月一八日附書簡によつても日本共産党自体を非合法化するものではなく、又同書簡においていわゆる「その他の重要産業」をふくむ「すべての分野のもの」に対し、朝鮮動乱にともなう分担責任の誠実な遂行を指示したものであるとしても、単に共産党員又はその支持者であるという理由だけで「その他の重要産業」からこれらの者を排除し得ることまで指示するものとは解せられないのであつて、この点は、以下の説示によつて一層明かとなるであろう。

2 エーミス労働課長の談話の内容は、すでに認定したところであり(前記(一))、その談話は、共産党員およびその同調者によつて行われた企業および労働組合に対する破壊的行動とその危険性に着眼しての発言とみられるばかりでなく、前掲証人今井俊介の証言によれば、エーミス課長は右談話の際、企業を破壊活動から防衛することは、本来企業経営者が自主的、自発的になすべき事柄であるにもかかわらず、その措置をしないから、総司令部としては、被告挙示のマ書簡(昭和二五年五月三日の声明をふくむ)の趣旨に沿い、企業に対する破壊的活動分子の排除が行われなければならないことを言明するにいたつた旨を発言したことが認められるのであつて、エーミスが企業経営者に対し、自主的、自発的立場においてこれらの分子の排除措置を行うべきことを要請したことは、上叙のとおりである。エーミス課長によるこれらの発言は、連合国最高司令官の前記五月三日の憲法記念日の声明にあるところの「現在日本が急速に解決を迫られている問題は、この反社会的勢力をどのような方法で国内的に処理し、個人の自由の合法的行使を阻害せずに国家の福祉を危くするこうした自由の濫用を阻止するかにある」、「こんご起る事件が、この種の陰険な攻撃の破壊的潜在性にたいして公共の福祉を守りとおすために、日本において断固たる措置をとる必要を予測させるようなものであれば、日本国民は憲法の尊厳を失墜することなく英知と沈着と正義とをもつてこれに対処することを固く信じて疑わない」との各文言に流れる思想と完全に合致する。すなわち、エーミス課長の前記談話は、企業破壊活動分子の国内法的処理を要請したものであり、したがつて、わが国の憲法のわく内で本来可能であるべき措置を要請したものであつて、憲法のわく内で不可能なことまでも要請した趣旨では決してないと理解すべきである。

3 労働省は前記通牒において、赤色追放の範囲に関し、「企業の破壊的分子の排除は、企業防衛上必要な範囲に限り適確に行われるべきであつて、その範囲は、一般に考えられているよりも相当小範囲に留まるべきものと考える。即ち企業からの排除の対象は、共産党員およびその同調者であつて、且つそのいずれにしても、主導的に活動し、他に対して煽動的であり又はその企画者で企業の安全と平和に実害のある悪質な所謂アクテイブなトラブルメーカーである。従つて、過去に於て共産党員として企業に対して破壊的言動をなしたものであつても、既に充分反省の誠意の認められるものは、所謂アクテイブなトラブルメーカーの中には入らない。なお、同調者中所謂アクテイブなトラブルメーカーとは、所謂アクテイブなトラブルメーカーである共産党員と一体をなすもの、例えば党の拡大細胞会議に進んで出席し、或は党の資金カンパおよび所謂「九人の愛国者」釈放の署名運動等に於て之を自ら企画し、部署を定め、或は自らその部署を受持ち、積極的に資金又はサインを集めて廻るような積極的分子で、企業の破壊にも影響する様な者等が之に当るのであつて、単に資金カンパに応じた事があるとか、前記署名運動中に求められて署名したとかいうような消極的な受身の者又は単なる思想上の支持者は之に含まれない」、「経営者が労働組合の組合員の積極的な組合活動を嫌悪する気持から、組合員の些細な行き過ぎの言動の故をもつて又は労働組合内に於ける単なる分派的争いの故をもつて所謂アクテイブなトラブルメーカーなりとして排除するような事は絶対に許されない」とし、さらに「自由にして民主的な労働組合を御用化し又は萎縮沈滞せしめるような措置」がとられてはならないことを強調して、これらの諸点につき、あらかじめ関係者への注意喚起方を求めている。大橋武夫法務総裁も昭和二五年一〇月一一日の第八回国会衆議院の前記地方行政委員会において、共産党員の追放については、「純法律的に許された範囲内で特にアクテイブなトラブルメーカーと目せられるべき人たちを追放することはけつこうであるが、行き過ぎにならないことを希望する」旨ならびに「同調者は、党員ではないけれども、しかし過去の行動によつてまつたく党の規律に服するところの党員と、常に無批判に同一行動に出るような人たちをいい、単に共産主義を信奉しているとか、あるいはかつて共産党の基金カンパに寄付金を投じたとかということだけでは、同調者というのに不十分である」旨、答弁している(同委員会議録二一号九頁、一〇頁参照)。当時の政府のこれらの見解は、右エーミス労働課長の発言と軌を一つにするものであつて、特別の事情の認められない限り、総司令部の意向を体しているとみるべきである。

4 以上1ないし3を綜合すれば、前記七月一八日附マ書簡の指示および総司令部エーミス労働課長の前記談話による解釈指示が「その他の重要産業」から赤色分子の排除を要請した指示であるとしても、その指示は、企業経営者に対し、企業破壊的活動分子である共産党員およびその支持者の排除の国内的処理、すなわち憲法の尊厳を失墜することなくしてその運用による自主的排除を命じた指示であつて、憲法第一四条を排除する趣旨のものではなく、したがつて、単に共産党員又はその支持者(共産主義の信奉者)という理由で排除し得ることまで許容するような広範なものではないと解するのを相当とする。かく解してはじめて、前記マ書簡(前記声明をふくむ)およびエーミス談話における「指示」的性格と「国内」的、「自主」的処理の性格との二面性が矛盾なく統一的に理解できるとともに、これに対応するところの、被告会社の本件整理における上述のごとき、エーミス談話が踏切台となつて実施したという至上命令的性格と共産党員およびその支持者の企業阻害的行動に着目し就業規則に準拠したという国内法的、自主的性格との二面性もまた、統一的に把握されることになるのである。

なお、便乗解雇の禁止、組合との話し合いの要否、実施時期、実施結果の報告方法等に関する指示の内容については、前記認定のエーミス談話のとおりである。また、エーミス課長がその談話において、共産党員は行動を義務づけられているから原則として排除の対象となる旨発言したことは上叙のとおりであるが、右の発言は、共産党員の破壊活動の危険性に着眼しての発言であることは、その談話の全趣旨に徴して明かであつて、本件整理実施上の留意事項につき、同課長の意見を参考的に補足したにすぎないものと解すべきであるから、右発言部分は上記の認定を左右するに足らない。

したがつて、被告会社は連合国最高司令官の指示により昭和二五年一〇月中にその企業から破壊的活動分子である共産党員およびその支持者の排除を義務づけられ、その点において本件整理の特殊な性格が存するとはいうものの、その義務履行の過程における実体的側面、すなわち、排除者の選別、認定判断など、本件解雇の実体上の理由自体は、すべてわが国の憲法以下の国内法による批判に堪え得るものでなければならない。それゆえ、仮りに、被告会社が本件整理に当つて、共産党員又は共産主義の信奉者という理由で排除すれば信条による差別扱いとなるし、又それらの者の正当な組合活動を理由とした排除であれば不当労働行為を構成するし、さらに同調者でないのに同調者と誤認して解雇したときは、結局、政治的信条による差別的扱いに帰し、憲法第一四条、労働基準法第三条違反の解雇として、公序良俗に違反することにもなるであろう。

これを要するに、前記の七月一八日附マ書簡による指示およびエーミス談話による解釈指示は、以上のごとく、被告会社をふくむ造船等の重要産業の経営者に対し、共産党員および同調者の企業阻害的破壊活動に着目して、憲法を頂点とする国内法に基きこれら破壊的分子の排除措置をとることを要請した指示であると解するのを相当とする。被告は、連合国最高司令官の指示は、企業の破壊活動の面を全然問題としないで、ただ単に共産党員又はその支持者であるという理由だけで解雇し得、かつ、解雇すべきことを要請した趣旨であると主張するけれども、連合国最高司令官と雖も、共産党自体を非合法化することなく、前記各書簡により日本政府にあてた指令には、当該指令を発するに至つた理由を相当慎重に叙述しているのであつて、単に共産党員又は党の機関紙という理由だけで追放又は発刊停止の措置を指令したものでないことは、前記各マ書簡に照して明かであつて、被告の右見解は、これらの事実ならびに前記エーミス労働課長の談話による解釈指示の全趣旨を逸脱するばかりでなく、さらには、被告会社が本件整理に当つて主として党員およびその支持者の企業破壊的行動ないしその危険性に着眼して被整理対象者を選別し、党員でも整理の対象にしなかつた者が十数名に及ぶという本件整理の実態(この点は原審および当審における証人坂口干雄、中江範親(原審は第一回)、下堂園辰雄(原審は第一回)、原審における証人古田槌生の各証言ならびに弁論の全趣旨に徴して認められる)にも著しく反するのであつて、これらの諸点ならびに上記説示の理由に照し、被告主張の右見解は、当裁判所の到底採用しえないところである。

したがつて、当裁判所は、右の第二次的立場をとる場合においても、本件解雇につき国内法的視点からの当否の判断を必要とする点においては、本件解雇が連合国最高司令官の指示に基くものではないとの前記第一次の立場をとる場合とはほとんど全く同一に帰するのである。よつて、以下、本件解雇の当否につき、国内法的視点に立つて検討をすすめることとする。

五、本件解雇の意思表示の当否に対する判断の順序について

被告は、別紙(三)および(四)に列記する各事実をもつて本件解雇理由としたと主張するのに対し、原告は、まず、本件解雇は原告等が共産党員又はその同調者であるという理由だけでなされたものであることを主張し、次いで、被告が本件整理について設定した整理基準の不当違法を主張して、本件解雇は就業規則に基かずになされたものであることを主張する。原告のこれらの主張を判断するについては、被告が原告等のいかなる具体的事実をとらえて解雇理由としたかを具体的、個別的に検討したうえでなければ的確な客観的判断を下し難い。そこで、まず、被告の側で本件解雇理由とする具体的事実につき、その存否、参加の有無、当否、評価を順次判断する。

六、被告主張の不法集団事件(別紙(三)参照)について

被告は、「これらの事件は川造細胞を主体として組織的に行われたものであつて、当該事件ごとに列記した原告は当該事件に関与して指導的ないし積極的に行動し、企業阻害的破壊活動をなしたものであり、当該事件(ただし、別紙(三)の4、28、の事件をのぞく)ごとに特に氏名の記載されていない原告中、共産党員である者(同調者である西村、長谷川、上山、赤田をのぞく)については、党の特殊的性格からして、それらの事件の背後にあつて直接間接参加していたとみるべきであり、仮りにその参加が認められないとしても、それらの事件が川造細胞を主体として惹起された事実に徴して、「企業運営に対する危険性」認定の基礎事実とするものである」

と主張するのである。

1  電機部不法デモ事件(原告遠藤の関係)

昭和二一年六月頃、被告会社の小倉淑成電機部長の退任をめぐり、留任運動が行われ、当時電機部の工作課長であつた矢野正己が留任運動の闘争委員長をしていたことは、当事者間に争なく、当審における証人古田槌生の証言により成立の認められる甲第一三号証、成立に争のない甲第二一号証の一ないし九、第二五号証、乙第三七号証、右証人古田槌生の証言、当審における証人河辺光明(第二回の一部)、名代永一(一部)、石原健造の各証言、原告遠藤忠剛、田中利治、元共同原告矢野笹雄(第二回)の各供述を綜合すれば、次の事実が認められる。

被告会社の本社工場(当時は川崎艦船工場と称していた)では、昭和二一年六月二八日、電機部長小倉淑成を定年制を理由に退職させて、元ジヤワ川崎造船勤務の中島修七をその後任に決定したが、かねて小倉部長を信頼する電機部従業員は、同月二九日午前八時頃、各課長以下約一、三〇〇名をもつて従業員大会を開き、この人事異動に絶対反対の態度を明かにするとともに、直ちに手塚敏雄所長に決議文を手交し、同日午後四時から再び従業員大会を開催し、電機部の先任課長である前記矢野工作課長を闘争委員長として電機部の工場に闘争本部を設け、小倉部長留任運動を展開することになつた。かくして、同年七月二日午前一〇時頃から開かれた闘争委員会の決議により中島新部長へ絶対不承認の申入れを行うとともに、同日午後〇時半頃から電機部全従業員約一、三〇〇名が参加して、デモに移り、民主的部長小倉オヤヂの復職、反動的所長の即時退陣等のスローガンを押し立てて工場内を行進し、気勢をあげ、さらに、同月五日午前八時従業員大会を開催し、小倉部長の退任が会社の一部幹部の策動であるとして、これを糾弾し、代表委員から手塚所長に対し、所長の不信任と問題解決まで矢野先任課長をして部長職を代行させることを申し入れる一方、同日午後五時頃から社内デモ行進を行い、気勢をあげた。会社側は、同日午後六時、「小倉前部長を嘱託として復職させる。中島新部長の就任を取り消す。矢野工作課長を新部長にする」との回答を手交したが、電機部従業員側では翌六日正午頃、従業員大会を開いて討議した結果、あくまで小倉前部長の電機部長復職を要求することを決議して会社側に通告するとともに、当時電機部工作課の機械掛長としてこの留任運動に参加していた河辺光明生産委員長の提唱により右要求の貫徹まで絶対に生産を落とさぬことを申し合わせた。このようにして、電機部従業員側は、会社側の提案を一旦拒否し、長期闘争の態勢を固めるに至つたが、同月一三日午後一時頃矢野闘争委員長が鋳谷社長と交渉した結果、妥結の機運が動き、同日午後四時頃に開かれた電機部従業員大会において、結局前記の会社案を受諾するに至つた。(被告主張の「電機部の工員約五〇〇名が同年七月中旬に午前一〇時半頃から約一時間にわたつて不法デモを行い、所長室の器物を損壊した」との事実については、これを確認するに足る証拠はない)。

当時、川崎艦船工場においては、工員から成る川崎造船労働組合と職員から成る川崎造船職員組合があり、電機部の各課長も右職員組合に参加していたが、右職員組合は、昭和二一年一月一九日の結成に当つて、経営参加の実現を期することを宣言し、産業の再興と産業民主化の実現を綱領としていたし、同年七月一二日前記労職の組合では、全従業員大会を開いて、戦時機構から生じた職制上の種々の矛盾を是正するため、天降り人事反対、生産能率化のための職制改革等の社内民主化の機構改革案を決議して手塚所長に決議文を手交していた。これらの事実にみられるように、当時澎湃として起こつていた社内民主化の風潮をも考え合わせると、前記留任運動は、小倉前電機部長の信望のみならず、「人事は能率をあげるための手段であるべきにかかわらず、規則づくめで、有能の士を退任させた会社機構」ならびに天降り人事への批判に連なるものであつて、職制の上からは電機部の各課長、掛長以下全従業員、組合組織の上からみれば、電機部内における労職双方の全組合員の要求として盛り上つたものであることが認められる。労職の各労働組合の執行部が正式に介入しなかつたことは、右認定を否定することにはならない。当時電機部の事務掛長で、かつ職員組合の委員であつた原告遠藤や電機部第一工作課所属の工員であつた元原告の矢野笹雄も右留任運動に参加しており、この二人はともに共産党員であつた(この点は争がない)。しかし、この留任運動は、電機部の各職場の職制上の幹部ならびに当時の電機部の職場から出ていた組合役員が中心となつて闘争委員会を組織し、主導的に推進していたものである。原告遠藤は、闘争委員の一人であつたが、前記矢野工作課長(この運動の結果、小倉部長の後を継いで電機部長に就任した)、河辺光明機械掛長等とともに右留任運動を推進していたのである。元原告の矢野笹雄は、昭和一六年頃造機部に約一年在社していたが、その後応召し、昭和二一年五月半ばに大陸から復員したばかりで、当時はまだ組合の役員ではなく、闘争委員でもなかつた(この点につき、矢野笹雄は、当審における第一回供述では、組合役員になつたのは昭和二一年三月下旬であると供述しているが、その第二回供述に対比すれば、右供述は記憶違いであつて、組合役員就任は昭和二二年三月であることが認められる)。

これらの諸点を考え合わせると、前記留任運動は、当時における社内民主化の風潮を反映した電機部全従業員の要望として、先任の前記矢野工作課長以下の各職制および電機部出身の労職組合幹部が打つて一丸となつて積極的に展開したものであり、単に原告遠藤一人が主導したものでもなければ、同人や矢野笹雄が矢野工作課長以下の電機部従業員を煽動したものでもないと認めるのが相当である。当審における証人河辺光明(第二回)、名代永一の各証言中右認定に反する部分は、前掲各証拠に照し信用しない。ことに、昭和二一年当時川造細胞の組織せられていたことが認められるにしても、前記留任運動が川造細胞を主体として反幹部闘争の一環として惹起されたとの被告の主張事実については、これを認める何等の証拠もない。さらに、原告水口は昭和二二年三月に、同守谷は同年一〇月頃に、同谷口は昭和二三年四月に、同仲田は同年七月に、それぞれ被告会社に入社した者であつて(この点は、同人等の当審における各供述により認められる)、前記留任運動は同人等の入社以前の事件に属するから、同人等に対してその入社以前の事件に対して何等かの責任を負わしめることは到底不可能である。

なお、電機部従業員による前記社内デモの際、被告の主張するように「小倉民主オヤヂを助け、手塚タヌキを追い出せ」というようなプラカードを押し立てていたとしても、それは前記留任運動の趣旨を象徴するものであつて、決して会社の秩序を根本から破壊するような趣旨に出たものでないことがうかがわれるし、又その責を原告遠藤および矢野笹雄だけに問うことはできない。また、前記七月二日午後〇時半頃からの社内デモならびに同月五日の午後五時頃からの社内デモが、仮りに就業時間内にくいこんだとしても、これらのデモは前記矢野工作課長を闘争委員長とする闘争委員会が主導し電機部のほとんど全部の従業員が参加して行われたものであり、その闘争委員長の矢野工作課長が前記妥結により後任の電機部長に就任したことをも考え合わせると、これらの社内デモが就業時間にくいこんだ事態の責任を原告遠藤や前記矢野笹雄等の共産党員のみの責任に帰することはできない。むしろ、前記妥結において、被告会社は右デモの責任を追及しないことを暗黙に表示したものというべきである。

したがつて、前記留任運動に関しては、いかなる意味においても、原告等の責任を問うことはできないといわざるをえない。

2  電機部長吊し上げ事件(原告田中、石田、水口の関係)

当審における証人河辺光明(第二回)、山田重康の各証言ならびに原告石田好春(一部)、元共同原告矢野笹雄(第二回の一部)の各供述と前掲甲第一三号証を考え合わせると、「被告会社の電機部では、工場が戦災を受けて破損していたので、昭和二二年一二月頃、空いていた造機部の第五、第六工場へ移転することになり、これによる電機部の第一、第二工作課の統合にともなつて、組の統合、編成替を実施することとし、組合(当時は前記の川崎造船労組と川崎造船職組が合同し、統一労働組合が組織されていた)も従業員の整理、賃下げを行わないことを条件として、右の組の統合、編成替を諒承していた。そこで、矢野正巳電機部長は、同年一二月頃の午後一時頃から旧電機部第五工場に、工員関係では組長以上および職員関係では掛長、掛員全部、合計数十名を集めて、組の編成替に関する具体的実施計画の説明を行つていた。ところが、電機部所属の工員である原告田中、石田、電機部出身の組合執行委員であつた元原告の矢野笹雄ら七、八名の者は、組合の指令もなく、かつ、就業時間中にもかかわらず、無断で右会場になだれこみ、部長を取り巻く参集者の列のうしろから、同部長に対し、右計画実施の中止を要求し、主として右矢野、田中、石田が「組の編成替は首切りの前提だ」「組の統合、編成替は拒否する」などと発言し、他の者が「そうだ、そうだ」とこれに同調して野次をとばすなどして、場内を騒然たらしめ、同部長から再三退出するよう指示されたのにかかわらず、これを無視し、同日午後二時頃から午後四時頃に至るまでの間、同部長を吊し上げて会議の続行を不能ならしめた」という事実を認めることができる。当審における原告田中利治、石田好春、元共同原告矢野笹雄(第二回)の各供述中右認定に反する部分は前掲各証拠に比照して信用できないし、他に上記認定を動かすに足る証拠はない。

ところで、職制に対する右のごとき集団的吊し上げの許されないことは、明かであるから、右原告らは、著しく職場秩序をみだし、会社の業務運営を阻害したものといわなければならない。しかし、原告水口が前記田中らと右行動を共にしていたこと、および、川造細胞自体が主体となつて右行動を惹起したという点については、これを認めるに足る証拠はない。また、原告谷口、仲田については、右行為は、同人等の入社前のことに属するから、この点からしても、同人らに右行動の責を負わせることはできない。

3  扶桑鋼管摘発隊被検挙者釈放要求デモ事件

(原告水口、角谷の関係)

成立に争のない乙第九号証の二(昭和二二年八月三一日附の労働協約)によれば、その第二四条において、被告会社は川造労組が友誼団体と連絡提携するの自由を認めており、又第二三条において組合員が就業時間中に組合活動を行おうとするときは、川造労組が所属長に申し出で、その諒解を求め、所属長は特に支障のない限りこれを認めることになつていたことが認められ、また、当審における証人古田槌生の証言に成立に争のない乙第四一号証の四を参酌すれば、川造労組の中には青年および婦人をもつて組織される青年婦人部があり、この青年婦人部は川造労組の内部組織の一つではあるが、別に内規をもち、自主的に活動していた面があつたことが認められる。これらの事実に当審における原告水口保、角谷一雄の各供述ならびに弁論の全趣旨を綜合すれば、「昭和二三年はじめの頃、神戸市を中心に兵庫県下の大企業の労組青年婦人部を結ぶ兵庫県民主青年婦人協議会の結成大会が神戸市生田区の善福寺(モダーン寺ともいう)において開かれたが、川造労組青年婦人部としてもこれに参加することになつていたので、同青年部の幹事を主にした約五〇名の労組青年婦人部員が組合および会社の諒解を得て、右結成大会に参加した。原告水口、角谷はいずれも同青年部の幹事であり、水口は右協議会の設立準備委員をしていたので、右両名とも右結成大会に参加していた。ところで、右大会の議事が終わるに際して、川造労組青年婦人部以外の者から扶桑鋼管摘発隊事件(昭和二二年一二月二七日尼崎市扶桑鋼管製造所に隠退蔵物資があると称して同製造所に侵入したといわれる事件で、元原告の上野山光三、日名克巳、川崎豊も部外者とともにこれに参加していた)によつて起訴せられていた者(被告会社の従業員ではない部外者)のために釈放要求デモを行うことが緊急動議として提案可決せられたので、右結成大会参加者の大多数の者が神戸地方裁判所に釈放要求のデモを行つた」という事実を認めることができるのであつて、右認定を左右するに足る証拠はない。したがつて、原告水口、角谷が右のような結成大会を行うといつわつて右釈放要求デモに参加させるためだけに、労組青年婦人部員を動員したとみるのは、相当でない。なお、原告水口が当時青年共産同盟に加入していたことは、当審における同原告の供述によつて認められ、また、原告角谷が当時青年共産同盟に加入していたことは、同原告の明かに争わないところであるけれども、前記の兵庫県民主青年婦人協議会がもつぱら共産党系の青年婦人を中心にした組織であることや、右結成大会への川造労組青年婦人部員の動員が川造細胞を主体として企画されたものであることについては、これを認めるに足る証拠はない。

そうだとすれば、原告水口、角谷ら労組青年部の幹事、部員の前記結成大会への参加は、適法な組合活動というのほかはない。また、右釈放要求デモについていえば、右デモは右組合活動に際して緊急動議として提案せられ、しかも原告水口、角谷らが個人としてではなく、川造労組青年部として参加している右結成大会において採択せられた以上、原告水口、角谷ら労組青年部の幹事、部員が右デモに参加しても、これをもつて組合員個人の政治活動とはいえないのであつて、川崎労組青年部の政活活動として評価するのが相当である。しかも、前記乙第九号証の二の労働協約第一七条、同附帯覚書五の趣旨からすれば、労組青年部がかかるいきさつのもとに会社の構外においてとるに至つた政治活動は、たとえ会社の就業時間中に行われたとしても、これを労働協約違反ないし就業規則違反とみることは、相当でない。

したがつて、右事件をもつて、原告水口、角谷の企業阻害行為とみることはできない。原告谷口、仲田の関係では右事件が同人等の入社前に生起したことからしても、同人等に右事件の責を問うことは到底許されないし、その他の原告についても、右事件が川造細胞自体によつて組織的に行われたものではないから、右事件の責を負わせることはできない。

4  石原選挙長吊し上げ事件

これに対する判断は、後記九の(二)の遠藤、尾崎に対する綜合的判断をなす個所にゆずる。

5  公安条例反対デモ事件

(イ)  公安条例反対暴力デモ事件(原告田中、矢田、久保、長谷川、上山、石田の関係)

(ロ)  公安条例反対被検挙者釈放要求デモ事件(原告尾崎、仲田、角谷、石田の関係)

昭和二四年五月一九日神戸市会において、公安条例案が上程審議せられた際、これに反対するデモが行われたことは、当事者間に争なく、原告田中、矢田、石田、元原告の須藤実、平田平、大西恵、日名克巳、村上文男、庭田一雄、上野山光三が右デモに参加したことは右原告の明かに争わないところであり、右デモ隊が警官隊と衝突し、原告矢田および右須藤実が検挙せられたので、被告会社の一部従業員が同月二一日公安条例反対、釈放要求のデモを行つたことは、当事者間に争なく、原告仲田、石田、元原告の松尾正男、青野日出男、平田平、高橋敏雄、川崎豊、村上文男、日名克巳がこのデモに参加したことは、右原告の明かに争わないところである。右事実に前掲甲第一三号証、当審における証人大宮宗三郎、原審および当審における証人古田槌生の各証言、当審における元共同原告の宮崎伍郎(第一、二回)、小林時則、原告の仲田、田中、矢田、久保、石田、長谷川、角谷の各供述と当審証人寺岡二郎の証言により成立の認められる乙第四四号証の一の二、弁論の全趣旨に徴して当裁判所が真正に成立したものと認める乙第四四号証の一の四、成立に争のない乙第一一二号証の一、成立に争のない乙第八号証の一、第九号証の一、二および当審における証人中江範親の証言(一部)を綜合すれば、次の各事実が認められる。

(1) 昭和二四年五月上旬頃、神戸市その他兵庫県下の各市において、いわゆる公安条例制定の機運が再燃してきたので、県下の各労働団体では、かかる条例は「資本攻勢に対抗する労働階級の勢力を分散させ、表現の自由として労働者の権利に属する集団示威運動の自由を弾庄する悪法」であるとし、右制定の機運に対処するため、公安条例反対共同闘争協議会を結成し、社会党、共産党の各政党とも相呼応して活発な反対闘争を推進し、神戸市会に公安条例案が上程された同年五月一四日には、産別、総同盟、中立の各労組より動員された多数の組合員が神戸市会へ押しかけ、議場内に混乱をまき起したが、同条例案は委員会附託となり、同月一九日の同市会には朝から反対デモがかけられたが、同条例案は同市会において上程可決されるに至つた。

川崎労組においても、かねて執行委員会および専門部長(専従の常任執行委員)会議で検討したうえ、公安条例は労働者の基本的人権を制限するものであり、組合活動に影響するところが甚大であるとの立場に立つて、前記共闘協議会に参加し、反対闘争にはいつでも組合員を動員参加させる態勢をととのえていた。同月一九日の前記反対デモには、勿論組合として参加することに決まつていたので、当時組合の常任執行委員で組織部長であつた宮崎伍郎は、当日の朝から組合員約三七名を動員し、前記共闘協議会の主宰する右反対デモに川崎労組として参加せしめていたが、同日の市会において公安条例案が上程可決される事態に立ち至つたので、同日午後〇時五〇分頃、デモ隊よりの応援要請に応じて、さらに一部組合員を動員派遣した。組合としては、右のとおり公安条例に対して反対闘争を推進する基本方針を決定していたが、情勢に即応する組合員の動員については、一々文書による組合指令というような形式にこだわることなく、臨機の措置をとつていた。そのため、右デモに朝から参加していた組合員は会社に欠勤届の提出又は有給休暇の申請をなし、昼から参加した組合員は早退の手続をとり、それぞれ所属上司の許可を得て、出門したものである。所属上司の許可した通門証を提示しなければ、一般工員等は就業時間中に会社構外へ出門できない仕組みになつていたのである。なお、右デモには、原告角谷、長谷川も参加したが、これに参加した組合員には、共産党員もおれば、そうでない者、ことに社会党系の組合員もいたが、その比率は判らない。

(2) 右反対デモにおいて組合員の原告矢田および前記須藤実が市会を警護する警官隊と衝突し、同日午後三時半頃他労組の十数名とともに検挙されるに至つたので、前記共闘協議会では、これに対する抗議および被検挙者に対する釈放要求運動を起すことを決したが、川造労組の執行部においてもこれに呼応して直ちに右被検挙者に対する釈放要求運動を展開することを決定し、各職場に向かつて、同日退社後に右釈放要求に参加するよう呼びかけたが、さらに同月二一日午後〇時半頃職場に向かつて右釈放要求のためデモを行うよう呼びかけを行つたので、職場の一部組合員約七、八〇名は、組合執行部の要請に応じ、早退の手続をとり、所属上司の許可を得て出門し、神戸市役所、警察署、拘置所へ公安条例反対、弾圧抗議、被検挙者即時釈放のデモを行つた。

(3) 被告は、原告上山が前記五月一九日のデモに参加したと主張するけれども、これを認めるに足る証拠はなく、かえつて、当審における原告上山喬一の供述と同供述により成立の認められる甲第二三号証の一ないし三によれば、同原告は被告主張の右デモに参加していないことが認められる。

原告久保が前記五月一九日の昼からのデモに参加したという被告の主張事実については、乙第四四号証の一の一をのぞいて他に証拠がなく、また、原告尾崎が前記五月二一日のデモに参加したという被告の主張事実については、乙第四四号証の二が有力な証拠となつている。ところで、当審証人寺岡二郎は、前者(乙第四四号証の一の一)の用紙は警ら表の裏面を使用しているから保安課員のメモだと思う、後者(乙第四四号証の二)も保安課員のメモであると証言し、当審証人宮本芳晴(第五回)は、前者は麻生掛員、後者は小野田掛員の作成にかかるものであると証言し、前者の用紙には約四二名、後者の用紙には約七〇人がデモのため出門ないし出勤した旨記載され、前記宮本芳晴証人は、後者のデモ参加者は、正門前に集合してデモに出かけたと証言している。かかるメモがいかなる状態のもとで作成されたかについては、証拠上明かでないが、従業員の出門に際してメモされたものとすれば、かかる多数の者が出門証を提示して出門するに際してこれを被告会社の工場部門別に整然と記入することは、かえつて不自然であるし、出門後にメモされたものとすれば、かかる多数の出門者を逐一記憶にとどめて、あとから記録することは至難というべきである。さらに、前記証人寺岡二郎は、かかるメモは「調査係の勤務日誌作成の材料になるものである」、後者のメモに関係して「人事部長から保安課の管掌事項について日報を作つてくれといわれてやりかけたが、しばらくやつて材料もないので止めにした」旨証言しているのに対比して検討しても、前掲乙第四四号証の一の二の日報が前者のメモを基礎にしたものとはみられないし、又後者のメモに基く日報は証拠として提出されていない。さらに又、後述のごとく、前記五月一九日には午後一時三〇分から泉州工場の閉鎖に関する重大な第一回の経営協議会が開かれることになつていた事実に徴すれば、当審における原告久保、元共同原告宮崎伍郎の各供述するごとく、当時組合の組織部長であつた宮崎伍郎やその文化部長であつた原告久保は直接デモそのものには参加しなかつたことも考えられるのである。原告尾崎は当時組合員ではなく(この点は争がない)、別件の仮処分事件(神戸地裁昭和三一年(ヨ)第二九号事件)および本件を通じ、前記五月二一日のデモ参加を否定し又は記憶がないと供述している。原告角谷も前記五月一九日のデモ参加を認めながら、前記五月二一日の釈放要求デモには参加した記憶がないと供述している。これらの点に徴すれば、被告提出の前記乙第四四号証の一の一および同号証の二の各メモが果して事件当時掛員の現認と記憶だけに基いて作成せられたものかどうかについて確たる心証を惹起するに至らない。したがつて、乙第四四号証の一の一をもつて、原告久保が前記五月一九日のデモに参加したことを立証する資料となしえないし、又乙第四四号証の二をもつて、原告尾崎、角谷が前記五月二一日のデモに参加したことの立証資料となしえない。前掲証人宮本芳晴(第五回)の証言中同証人が右乙第四四号証の二を基礎として原告尾崎が右デモに参加したとの発言部分は、にわかに信用し難い。したがつて、原告久保、尾崎、角谷の右各デモ参加については、結局これを証するに足る的確な資料がないことに帰する。

(4) 当審における証人中江範親の証言によれば、前記各デモへの組合員の動員につき、会社側は組合から通告を受けていないことが認められるけれども、組合は労働協約上、前記のごとく、他の友誼団体との連絡提携の自由を有するのであつて、組合が本件のごとき公安条例反対共同斗争協議会に参加して公安条例反対の集団的示威運動をなすがごときは、右にいう自由にふくまれるものというべく、もし組合が会社構外においてとる集団的示威運動についても、事前に逐一会社側に通告することを要するものとすれば、かかる組合の運動を会社に予知させるにひとしいから、争議行為の場合とは異なり、組合がその一部組合員を動員して本件のごとき集団的示威運動に参加させるについては、一々会社の労働課に通告することを要せず、組合から動員を要請せられた組合員において、その所属長に対して休暇、早退等の手続をとりその許可を得れば足るものと解するのを相当とする。したがつて、組合の決定した組合員の動員について、会社に届け出なかつたとしても、その動員による個々の組合員の早退等を組合の指示に基かない職場離脱として問責することはできないといわなければならない。

前掲証人中江範親の証言および乙第一一二号証の一の記載中、上叙認定に反する証言および記載部分は、前掲の他の証拠に照して信用しない。被告は、元原告の宮崎伍郎が、当審における第二回供述において、前記五月一九日のデモにつき、執行委員長大宮宗三郎の指示に従つて各職場委員に組合員の動員を要請したものであると供述した部分をとらえ、当時の執行委員長は大宮ではなく、古田槌生であつたことを理由に、右動員は組合の正式機関の指示によるものでないと主張する。なるほど、前記甲第一三号証(八六頁最下段)には組合の執行委員長大宮宗三郎が昭和二四年五月一日以後全造船中央執行委員長に就任し、組合の副執行委員長古田槌生が同日より委員長代理をした旨の記載が存する。しかしながら、前掲証人大宮宗三郎の証言と右甲第一三号証(三三頁中段、八七頁上段、中段参照)を考え合わせると、組合の執行委員長であつた大宮宗三郎は、同年四月二一日全造船大会において全造船中央執行委員長に選出せられ、組合の後任執行委員長の選挙が同年五月二日実施せられたが、右大宮は同年五月上旬頃まで組合の執行委員長の事務をとつていたもので、組合では当時すでに前記認定の公安条例反対共闘協議会に参加するとともに、組合としていつでも組合員の動員態勢をとり得ることを決しており、その後も一貫して右の方針を踏襲していたことが認められるから、前記宮崎伍郎の供述は必ずしも事実に副わないものではない。したがつて、被告の引用する甲第一三号証の記載部分と宮崎伍郎の右供述部分から、直ちに、前記認定のデモへの参加が組合の指示に基かないことを証することにはならないのである。

また、前記デモに参加したものと当裁判所が認定した原告および元原告(ただし、原告長谷川、元原告高橋敏雄をのぞく)が川造細胞の構成員であつたことは、成立に争のない乙第三四号証の一に徴してうかがわれ、右事実に当裁判所が真正に成立したものと認める乙第四四号証の一の三と四を合わせ考えると、これら川造細胞の構成員であつた原告および元原告のデモ参加が細胞活動としての一面をもつていたとしても前記デモ参加はいずれも川造労組において基本的に決定せられ、組合の指導方針に沿つて他の多くの非共産党系の組合員とともに行動したものであるから、川造労組としての合法的な政治活動たる性格をも有することを否定することはできないといわなければならない。

かような次第で、前記デモに参加した原告につき、該参加を企業阻害行為とみることはできないし、該デモに参加しなかつた原告に対して何等かの責任を問うことも許されないといわなければならない。

6  泉州工場暴行事件(原告橋本の関係)

(一)  前掲甲第一三号証(37頁は39頁につづき、39頁は38頁につづくべきものであるから、その限度において同書証は印刷の誤りがあることに注意)に当審における証人仙波佐市、大宮宗三郎、古田槌生の各証言、原告橋本広彦、久保春雄、元共同原告宮崎伍郎の各供述と成立に争のない乙第一〇〇号証の一、第一一二号証の二(一部)、前掲乙第九号証の一、二、当審における証人坂口干雄、駿河清(一部)、塚本碩春(第二回の一部)の各証言を綜合すれば、泉州工場閉鎖の経緯は次のとおり認められる。

被告会社には、昭和二四年五月当時、神戸市内に従業員約六、三〇〇名を擁する本社艦船工場、大阪府下多奈川町に従業員約二、三〇〇名を擁する泉州工場、大阪府泉南郡西信達村に従業員約五百数十名を擁する岡田浦電機工場があり、労働組合の組織としては、それぞれの工場ごとに分会を組織し、これらの三つの分会が合して全日本造船労働組合川崎造船支部(同年六月一日から川崎造船分会と改称した)を結成し、この支部が会社側と或は経営協議会をもち、或は団体交渉をもつていたが、当時有効に存続していた労働協約により、会社が工場閉鎖や従業員の解雇を行うには支部の同意を要することが定められていた。ところで、泉州工場は、戦時中海軍の命令により潜水艦建造のため建設にかかつたものであるが、建設途上で終戦を迎え、その後も設備未完成のままであつた。そこで、被告会社は戦後における会社再建ならびに合理化方策の一つとして、泉州工場を閉鎖する方針を決め、昭和二四年五月一九日の第一回経営協議会(甲第一三号証では四月一九日と記載されているが、同書証および前掲の各証拠を詳さに検討すれば、五月一九日の誤植と認められる。第一回というのは、泉州問題についての第一回という意味である。以下同様。)において、はじめて組合側に対し、「一、一〇〇名は艦船工場へ配置転換する。一、一〇〇名は解雇する。泉州病院関係者七〇名は川崎病院の分院として存置を予定する」という大量の人員整理をともなう泉州工場閉鎖案を発表し、次いで同月二三日の第三回経営協議会において、「工場閉鎖予定日を昭和二四年六月六日とする。希望退職者は同年五月三一日までに会社に届け出ること」その他退職金等に関する「泉州工場従業員取扱要綱」を発表した。組合(支部)は、これに対し、闘争体制を強化する一方、同年五月二九日の第四回経営協議会で、会社側に対し、「一、会社が泉州工場の閉鎖方針を確認したのは、同年二月二三日の重役会議であつたにもかかわらず、首切りのともなう重大な問題をどうして今まで伏せていたのか、不誠意極まる、二、わずか数日の検討期間で組合の同意承認を求めようとするがごときは、組合を愚弄するものである、三、二月頃閉鎖方針が確認されたというのに、その後神戸の艦船工場においては、相当の増員を行つている。この矛盾、この経営方針の混乱を何と説明するか」等にわたつて抗議するとともに、人員整理反対ならびに工場存置の可能を理由とする閉鎖反対理由書を提出し、次いで、同月三〇日には、川造労組支部大会において、泉州工場企業整備対策に関する非常宣言を発した。さらに、組合は、会社側に対し、組合側より工場存置案を提示することになつていた同年六月六日の経営協議会を同月九日に延期されたい旨申し入れていたが、会社は同月六日、経営協議会の一方的打切を宣し、翌六月七日には泉州工場の一部従業員に対して残留予定通知書を送付してしまつた。そこで、組合は、同日および同月九日の団体交渉において、右通知は労働協約違反であるとして、会社側に抗議を申し入れるとともに、その頃各分会ごとに組合員の全体投票を行い、圧倒的多数をもつてそれぞれスト権を確立するに至つた。

この間、泉州工場問題は、大量の解雇および工場閉鎖をともなうところから、家族ぐるみ、町ぐるみの悲壮な必死の反対闘争の様相を帯びるに至つていたが、組合では、同月一〇日、神戸、泉州、岡田浦の各分会において午後一時を期して半日ストを決行し、泉州分会では、同日および同月一四日には、造船造機のほとんど全組合員約二、〇〇〇名がデモを敢行した。かくして同月一五日ようやく経営協議会が再開せられ、組合側より提出した泉州工場存置案をめぐつて長時間にわたつて討論が続けられたものの、会社側は一八日以後において厳重なる処置をとることを断言して、同協議会は終わり、組合は一八日までに会社案をのむか否かの回答を迫られるという関頭に立つことになつた。そこで、組合では、幹部会議で、「あくまで既定方針どおりすすむ」というA案と「工場閉鎖は一応認める。そうして完全雇傭の線ですすむ。希望退職は認めるが、残りは神戸へ配置転換する」というB案とをもとにして、全艦船労組としての態度決定を無記名投票により決することを決めた。この投票において、神戸本社工場の分会ではB案支持、岡田浦分会ではA案支持の各結果が出たが、泉州分会では、論議の末、この投票は「全川造労組の意思決定にはならない。一八日の回答は留保する」との条件をつけて投票に付した結果、圧倒的多数でA案支持と決まつたため、同月一八日、全川造労組としては、「組合の意思決定に関し、泉州分会が参加しないので、組合としての意思を表明することができない。したがつて、この際、泉州工場閉鎖に関しては、回答することができないことを回答する」旨の回答を会社側に提出した。

かくして、会社側は独自の方針に従つて善処すると言明する一方、泉州分会は、川造労組の内部情勢の前記変化にともない、その闘争が勢い孤立化するの不利な事態に立ち至つたが、同月二〇日臨時大会を開き、あくまで既定方針どおり反対闘争をすすめることを確認し、じらい、街頭遊説隊、資金カンパ隊、教宣行動隊を強化し、神戸―尼崎―大阪―泉南地区―和歌山を結ぶ広範な地域に五〇名ないし三〇名の組合員を動員し、残つた組合員約一、七〇〇名は連日のごとく泉州工場にある綜合事務所へデモをかけた。同月二九日頃泉州工場は組合員やその家族達に占拠されるに至つたので、会社側は、同月三〇日頃に翌七月一日午前一〇時を期して工場を閉鎖する旨通告し、七月一日から一週間休業する旨を宣言したので、泉州分会では、これに対し、「仕事させろ」運動を起し、結局会社側もその後作業を再開したが、その間、組合側より、事態収拾のため現地の泉州で団体交渉を開くよう再三会社に申し入れた結果、七月一四日、一五日、一九日の三回にわたつて、現地の泉州工場の「山の上クラブ」で団体交渉がもたれたが、それでも妥結をみるに至らず、会社は、右一九日の団体交渉の席上で、「(1)解雇者には二、〇〇〇円を支給する、(2)労組の積極的な協力により希望退職者を募集する、(3)解雇者の就職斡旋をする、(4)争議中の賃金は改めて考慮する」との最終案を示して、同月二一日の午後までに組合側の回答を要求し、交渉を打切つた。この間、右七月一四日にもデモが行われ、又一五日には、泉州分会の組合員約二、〇〇〇人が団体交渉の現場に向かつて熾烈なデモを敢行し、デモ隊と保安課員等との間に衝突が起り、その際綜合事務所の窓ガラスがこわれた。かかる推移を経て、泉州分会では、いよいよ最終的態度の決定を迫られるに至り、同月二〇日頃緊急中闘委員会(泉州分会だけの執行委員会)を開いて、会社の右最終案を受諾することを決定し、これにつづく同分会の臨時大会において、終にこれを承認するに至つた。かくして全川造労組は、同月二三日会社側との間で協定書に調印し、会社案どおり泉州工場閉鎖問題の妥結をみるに至つたのである。

ところで、川造労組の所属する全日本造船労働組合(全造船という)本部においても、被告会社の泉州工場閉鎖問題は重大な問題であつたので、同年六月一〇日頃より中央執行委員を現地に派遣し、川造労組のとつている閉鎖反対の方針を支援するとともに、同月下旬頃には、特に泉州問題対策委員会を設置し、その対策委員六名を現地に派遣して争議の指導もしくは支援に当らせていた。原告橋本は、当時川造労組より全造船中央執行委員に選出されて全造船本部組織部長に就任し、東京に常駐していた者で、右対策委員の一人であつたが、全造船本部より同年六月一〇日頃より同月二〇日頃までの間と七月九日頃より同月一五日頃までの間との二回にわたつて泉州工場に派遣せられたが、本部の方針に従い、全造船関西支部傘下の他の造船所労働組合に対して右泉州工場閉鎖反対闘争への支援工作をなすとともに、対策委員の一人として、現地の川造労組ならびに泉州分会の組合役員と歩調を合わせて、泉州分会の争議の指導もしくは支援に当ることが、その任務とされていた。

被告は、泉州工場の従業員は最初閉鎖もやむなしと認めていたのにかかわらず、原告橋本は元原告の国本利男、本清甚助等とともに泉州地方共産党員および泉州工場の他の共産党員を煽動して紛争の長期化に努めたもののごとく主張するけれども、泉州工場の閉鎖問題が会社側より提案された当初、同工場の従業員が閉鎖やむなしと認めていたというがごときは、事実をしいるも甚しいこと、上叙に照して明かであつて、この点に関する当審証人駿河清の証言および前掲乙第一一二号証の二(仮処分事件における証人戸田一雄の証言調書)ならびに成立に争のない乙第一一二号証の一(同事件における証人今井栄泰の証言調書)の各記載中被告の右主張に副う部分は到底信用できない。一、一〇〇名という大量の人員整理をともなう泉州工場閉鎖問題は川造労組、ことに泉州分会にとつて、極めて深刻かつ重大なものであつて、必死に闘つたことも上叙のとおりであるから、右閉鎖に関する争議は、起るべくして起り、続くべくして続いたとみるのが至当であり、かかる重大な争議を全造船本部の原告橋本らの力だけによつて、到底指導し得るものでないことは、当審における同原告の供述に照し、又当時会社の人事部長であつた坂口干雄が当審において「原告橋本らだけの策動だけで生じたわけではないということは、わかつている」と証言しているところからしても、明かである。

(二)  しかしながら、前掲証人駿河清の証言(一部)、乙第一一二号証の二(仮処分事件における証人戸田一雄の証言調書。ただし、その一部)、当審における証人杉本登の証言と、前掲甲第一三号証、当審における原告橋本本人の供述(一部)ならびに前記(一)認定の事実を考え合わせると、次の事実を認定することができる。

泉州工場閉鎖に関する同工場の争議行為は、全造船本部の対策委員が直接同分会の組合員に対して指令するものでなく、すべて泉州分会執行部の指令によつて行われ、しかも、全造船の指導は、同分会の態度決定に至る以前の段階における指導にとどまり、同分会執行部と連絡なしに直接同分会の組合員に争議行為を指令することは、対策委員の権限外であつたが、右閉鎖問題に対して神戸本社関係の川造分会がこれを承認する態度に出て次第に大詰めに近づいた段階においても、原告橋本は、同問題についてはもはや会社側と話し合う余地はなく、実力行使によつてこれを阻止する以外に道はないとの考えから、二度目に泉州工場に来た前記七月九日頃から同月一五日頃にかけての間、同工場において、就業時間中しばしば組合員を集めて閉鎖反対のアジ演説を行い、ことに団体交渉の場所が現地の泉州工場に移された同月十四、五日頃には、泉州分会の執行部となんら連絡することなく、したがつて、同分会の指令にもとづかずに、正午前の就業時間中、作業に従事していた職場の組合員に対し、デモをあじる演説を行い、ただでさえ解雇反対、閉鎖反対を叫んで昂奮に駆られ易い組合員の心理状態につけこんで、三、四百名の組合員をしてデモを起さしめ、みずからも右デモ隊の集団の先頭に立つて綜合事務所に向けてデモをかけ、これを制止しようとした同工場総務部労務掛の駿河清を突きとばして綜合事務所内になだれこみ、その際同事務所の入口の窓ガラス十数枚が破壊された。右デモは泉州分会の副執行委員長菅原正美、書記長伊藤佐太郎の説得により約三〇分の後解散するに至つた。原告橋本は右デモの煽動によつて右のごとき多数の組合員の集団的職場離脱を生ぜしめたものであり、また、右窓ガラスの破損が直接同人の教唆煽動によるものではないとしても、かかるデモを挑発煽動して混乱を生ぜしめた者としてその責任の一半を負わなければならない。原告橋本は、当審において、右デモは、全造船本部の大宮宗三郎が泉州工場にやつて来たのに、会社側が同人を当日の団体交渉に参加せしめなかつたことが原因であると供述しているが、仮りにそのとおりだとしても、原告橋本が右就業時間中のデモを煽動し、これによつて暴力行為を生ぜしめた違法性までも阻却するものではない。

さらに、原告橋本は、泉州工場に滞在していた間、泉州分会の組合執行部と同工場の管理者側との間の事務接衝を再三にわたつて妨害したほか、その頃、泉州工場の前記労務掛駿河清を泉州分会の組合事務所に呼びつけ、同分会の組織部長をしていた元原告本清甚助らのいる前で、組合員であつた右駿河清に対し、「会社の工場閉鎖業務(閉鎖にともなう名簿の作成、本社との事務連絡)をするのをやめろ、そういうことをすると、ためにならんぞ」とおどし、そういう仕事はしない旨の一札を書かせて、同人を吊し上げた。当審における証人塚本碩春(第二回)、斎藤清照の各証言によれば、かかる労務掛員は、争議時においても、一斉ストの場合は兎も角その他の場合においては、右のような閉鎖業務にたずさわることは、労使間の慣行として諒解されていたことが認められるので前記駿河清が労務掛として右の閉鎖業務に従事することは、反組合的行為とはいい難い。

前掲の証人駿河清の証言、乙第一一二号証の二の記載ならびに原告橋本本人の供述中、以上の認定に反する部分は、前掲各証拠および前記(一)の争議経過に関する説示に照して信用できないし、他に上記認定を動かすに足る証拠はない。

そうすると、原告橋本の右各行為は、争議中とはいえ、職場の秩序と規律をみだし、企業の運営を阻害したものといわなければならない。

しかし、右各行為が川造細胞によつて画策されたとの被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

7  青年部白旗事件(原告田中、仲田、水口、長谷川、上山、西村、角谷の関係)

被告が青年部白旗事件として主張する職場規律違反については、当審における証人中江範親、阿部芳也の各証言ならびに乙第四五号証の一、二(その一は当審証人塚本碩春の第三回証言により、又その二は同寺岡二郎の証言により、それぞれ成立が認められる)によつても、これを確認するに足りないし、他にこれを認めるに足る的確な証拠はない。

もつとも、右証人阿部芳也の証言によれば、昭和二四年夏頃から同年末頃までの間のある日の昼休み中に、造機部工具工場において、組合青年部の部旗のことで職場集会がもたれ、その職場集会が午後の就業時間に約二〇分くいこんだこと、同集会には工具工場の二組に所属していた原告仲田も参加していたことが認められるけれども、同証言によれば、右職場集会が就業時間にくいこんだのは、原告仲田のせいではなく同職場集会で討議しているうちに自然にのびたことが認められる。しかも、同職場集会に参加していた他の人達は、その氏名も明かでなく、右のことでその責任を問われた形跡もない。さらに、右職場集会の就業時間内へのくいこみが、被告主張のごとき党市委員会の指令に基く川造細胞の画策によるものであることを認めるに足る証拠はない。又前記阿部証人は、右の期間において原告仲田ら五、六人がしばしば就業時間中に職場を離れて寄り寄り話をしていたと証言するけれども、その話題や内容については、これを確かめる資料もないから、原告仲田が青年部旗のことでしばしば無断会合をかさねていたときめつけるわけにはいかない。したがつて、原告仲田に対し、前記認定の職場集会の就業時間内くいこみの責任を負わせることは、相当でないし、右事実を基礎として、他の原告等に何等かの責任を負わせることもできない。

8  電機部における配置転換、組編成替妨害策動事件(原告田中、水口、石田、谷口の関係)

当審における証人中江範親、河辺光明(第二回)、橘年一、名代永一の各証言、右河辺証人の証言により成立の認められる乙第四六号証、当審証人塚本碩春(第三回)の証言により真正に成立したものと推認される乙第四七号証、前掲甲第一三号証と当審における原告田中利治、石田好春、元共同原告石川利次の各供述(いずれも一部)を綜合すれば、次の事実が認められる。

被告会社の本社工場の電機部および岡田浦電機工場では、主として国鉄関係の受注に依存していたが、昭和二四年夏頃以来国鉄からの受注量が激減してきたので、被告会社は、合理化方策として、同年八月頃、これら電機工場から造船部へ七〇名、造機部へ一五〇名を配置転換し、本社工場から岡田浦工場へ二〇名を移すという会社案を立案し、人事部労働課を通じて組合と交渉していたが、組合も同年九月二七日に至つて、会社に対し、「一、電機部門における職場配置転換はやむをえないものと認める、二、ただし、本社工場から岡田浦分工場への配置転換に関しては、強制によらず、本人の意思によるときのみ、これを認める、三、配置転換の具体的実施に当つては、詮衡基準その他について、組合側と協議のうえ行うこと」という趣旨の回答をして、右配置転換を原則的に諒解した。そこで、本社工場の電機部では、配転希望者を募つたり、或は職制を通じて比較的勤続年数の浅い人達に配転を勧誘したりして、配転予定工員について、組合との諒解の線に沿い、ほぼその人選を完了し、配転を予定された従業員も収入関係から配転を了承していたところ、電機部所属の原告田中、水口、石田、元原告の吉田登、石川利次、窪園賢一、松本昇は、「配置転換は首切りの前提だ」などと事実を歪曲して宣伝し、配転予定者に対して、配転を集団的に拒否するよう、働きかけた。さらに、電機部では、右配置転換にともない、作業能率の向上を期する措置として、昭和二四年一二月中旬頃、電機部の機械掛の高見組(一四組ともいう)と浜吉組(五一組ともいう)との間に、機械の配置替に応じて組の編成替を行うことになり、組合もこれを諒承していたにかかわらず、浜吉組所属の原告水口、元原告の藤瀬勇、小黒栄一、高見組所属の原告田中、梶組所属の前記窪園賢一、電装の吉田登らは、「組の編成替は労働強化を強いる」ものとして、職制に執拗に抗議したり、編成替予定者に対して、その編成替に反対するよう働きかけたりした。組合の方針に反するこれらの妨害工作のため、被告会社の前記配置転換および組編成替は著しく遅延し、同年一二月中旬頃まで延引するのやむなきに至つた。(ちなみに、右配転では、岡田浦工場で約一〇〇名の希望退職が出たので、実際に配転を行つた者は、全部で百数十名にとどまつていた。)

当審における原告田中、石田、水口、元原告石川の各供述中右認定に反する供述部分は信用し難く、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

そうすると、右原告らの妨害工作は、会社の業務運営を不当に阻害したものといわなければならない。

被告の側では、原告谷口も右妨害策動に関与したと主張するけれども、これを認めるに足る証拠はないし、又右妨害工作の行動は川造細胞が主体となつて画策したと主張するけれども、これを認めるに足る証拠はない。

9  電機部掛員吊し上げ事件(原告田中、水口の関係)

前記8事件に掲げた各証拠(ただし、当審における元共同原告石川利次の供述をのぞく)、当審における証人中江範親の証言と当審証人橘年一の証言により成立の認められる乙第四七号証、当審証人坂口干雄、中江範親の各証言により成立の認められる乙第一〇一号証の一ならびに前記8事件で認定したところを綜合すれば、「原告田中、水口らが電機部における配置転換および組編成替に対して妨害策動をしていたことは、上叙のとおりであるが、昭和二四年一二月二〇日頃、電機工場中央の梶組の材料置場の上にあつた会社の掲示板に、浜吉組一同の名義で、「会社は組の編成替をしよとしているが、これは一切の責任を組合員に転嫁するものであり、かかる措置は労働強化、賃下げ、首切りに通ずるものだ。資本家の餌食になるようなことには反対せよ」という趣旨の、ことさら事実をまげたポスターが貼られていた。従業員の掲示について、部課内にとどまるものは、所属課長の許可を要し、しかも、この点については組合も諒解していたにかかわらず、右ポスターは無断で貼られていたので、電機部第一工作課の機械掛員の橘年一が同工作課長河辺光明の指示を受けてその頃右ポスターを撤去した。すると、同日午前一一時頃、原告水口を先頭に原告田中、前記の藤瀬、小黒、吉田、窪園らが就業時間中にもかかわらず、作業を放棄して電機部第一工作課の事務所に押しかけ、すごい権幕で、橘掛員に対し、「無断ではがすのは怪しからん、あやまれ」と迫まり、同掛員が「課長の命令ではがした」と答えるや、「貴様は課長の命令をきき、われわれのいうことをきけぬのか、きかぬとどうなるか、わからんぞ、それでも組合員か」「二度とはがさぬと誓へ」などと、約三〇分間にわたつて同掛員を吊し上げ、同人を威圧して謝罪文をかかせた、という事実を認定することができる。当審における原告水口、田中の各供述中右認定に反する部分は前掲各証拠と対比して信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

右のごとき吊し上げの違法であることは明かであるから、前記の者らは、著しく職場の秩序をみだしたものといわなければならない。

しかし、右の吊し上げが川造細胞自体が主体となつて画策したことを確認するに足る証拠はない。

10から15までの事件の背景をなす、いわゆる「越年闘争」について、

左記の10から15までの事件は、被告が「越年資金要求に際しての不法諸事件」として列記するものであるので、考察の便宜上、これらの事件の背景としての越年資金要求の経過をまず概観しておこう。

前掲甲第一三号証、当審証人寺岡二郎の証言により成立の認められる乙第五七号証の二および五、当審証人中江範親の証言により成立の推認される乙第五九号証の一、当審における証人中江範親、仙波佐市、古田槌生、村上保男、藤本寿雄、佐伯辰一、名川純平の各証言ならびに原告矢田正男、元共同原告宮崎伍郎(第一回)の各供述(いずれも一部)と成立に争のない乙第三四号証の一、第四一号証の一および四、当審における原告矢田、中村、久保、元共同原告宮崎伍郎の各供述により成立の認められる乙第八二号証の四の一、成立に争のない乙第八三号証の一〇ならびに前記の6、8各事件に説示したところを綜合すれば、本件にいう越年闘争の経過は、次のとおり認められる。すなわち、

前記泉州工場閉鎖、これにつづく電機部門における配置転換問題等で、約千数百名の従業員が泉州工場および岡田浦分工場から神戸の本社工場に配置転換されたのに加えて、川造労組の神戸分会の組合員中より同分会執行部(委員長は古田槌生)に対する批判がなされたのを機に、同分会(以下、単に組合ともいう)の組合役員の総改選が行われ、昭和二四年一〇月二一日、組合の新執行部が生れた。その顔ぶれは、執行委員長仙波佐市(泉州工場からかわつてきた人)、副執行委員長小川貞義、書記長中村隆三(原告)、組織部長宮崎伍郎(元原告)、情報宣伝部長久保春雄(原告)、文化部長山内政司、調査部長村上文男(元原告)、労働対策部長本清甚助(元原告)、生産対策部長藤本寿雄、生活部長村上保男、教育出版部長矢野笹雄(元原告)、渉外部長矢田正男(原告)、財政部長福田太一等で、川造細胞の構成員であつた右の中村、宮崎、久保、村上(文男)、本清、矢田の七名は組合執行部の中で「組合グループ」を形成し、その勢力は、日常および緊急の組合業務を処理する専門部長会議(組合の常任執行部)の約半数を占めていた。

組合の右新執行部は、同年一一月一九日、会社に対し、越年資金として基準賃金の一カ月分(八、〇〇〇円)の要求を提出した。ところで、組合は、会社が昭和二四年一月戦後はじめて外国からオイルタンカー二隻を受注し同年四月にその輸出第一船フアンマノー号を起工した当時から、外国船受注の祝金として手取り一、五〇〇円を会社に要求していたのに対し、会社側が経済九原則(ドツジライン)の早急実施を強く要請されていることおよび金ぐりの困難などを理由としてその回答をのばしていた関係があつたので、組合の右執行部は、早速右受注祝金の交渉を続行していたところ、会社は、組合の要求にかかる右祝金を同年一二月上旬のフアンマノー号進水当日に支給することを発表するに至つた。そこで、組合は、右祝金が越年資金にすりかえられることを警戒し、右祝金の支給期日の繰り上げを要求するとともに、前記のとおり越年資金の要求を提出して、同年一二月はじめに回答されたい旨を会社に要望した。

組合執行部は、右越年資金要求につき、年末を控えて余すところの期間も少ないので、団体交渉一本でこれをかち取る方針をとり、実力行使の手段を採用しなかつた。したがつて、全組合員の直接無記名投票によつて決定すべきスト権の確立は行われなかつた。ただ、組合の右執行部においては、越年資金要求をかち取るため、各職場に対し、休けい時間を利用して職場大会を開くことを指示し、これによつて下部組合員の自覚と盛り上がりを期していた(職場闘争に関しては、後に一括して判断する)。

会社は、組合の右要求に対し、同年一二月六日、臨時給与として生産報奨金一人平均三、五〇〇円および外国船受注祝金一、五〇〇円を一二月、一月の両月にわたつて分割支給する旨を組合に回答し、その後数回にわたつて組合との間に団体交渉が続けられた。その間、組合は、同年一二月九日に委員総会(大会に次ぐ決議機関)を開いて討議した結果、越年資金総額を一人当り平均手取り五、〇〇〇円とすることに決して会社側回答に歩み寄りをみせつつ、そのかわり右手取り五、〇〇〇円を年内に獲得するという基本方針を決定し、さらに組合規約にもとづくスト権をふくめた一切の指示権を組合執行部に一任することを決議した(したがつて、組合執行部はスト権を確立するについては、委員総会の議決を要しないで、直ちに組合員の全体投票にかけることができることになつただけで、右決議によりスト権が確立されたわけではない)。会社側は、その後の団体交渉においても、一二月一五日に越年資金の一部二、〇〇〇円、同月一九日に前記祝金一、五〇〇円、翌昭和二五年一月に越年資金の残り一、五〇〇円を支給する案(ただし、その合計五、〇〇〇円が手取りか、税込みかは、証拠上は明確でない)を固執した。組合側においては、右一二月一五日支給の二、〇〇〇円および同月一九日支給の一、五〇〇円の条件には異議はなかつたが、会社の主張する一月廻しの一、五〇〇円を年内に獲得すべく、同年一二月一六日の第六回団体交渉においても強力に主張したけれども、会社側もゆずらなかつた。そして結局、右越年資金要求については、組合側は右一二月一五日および一九日に一人当り平均前記合計三、五〇〇円を会社より受領することに決したものの、年内に最終的解決をみるに至らないで、年を越し、前記の最終払いの一、五〇〇円については、会社は翌昭和二五年一月一四日に支給し、この分の税金相当額を右一月一六日に貸付けるという条件で、妥結をみるに至つたのである。

当審における原告矢田、元共同原告宮崎伍郎の各供述中、以上の認定に反する部分は前掲各証拠と対比して信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

10  電機部工作課長吊し上げ事件

(原告田中、水口、露本、長谷川の関係)

当審における証人河辺光明(第一回)、馬川時夫の各証言とこれらの証言により成立の認められる乙第五八号証、検乙第一号証の一、二(いずれも図面)、当審における現場検証の結果を綜合すると、次の事実を認定することができる。

昭和二四年一二月一日、電機部所属の原告田中、水口、元原告の吉田登、石川利次、奥田昭六、岡山昭ら数名の者は、同日午後〇時四〇分頃から電機部第一兼第二工作課長の河辺光明をむりやりに誘導して、電機部工場の直ぐ南側にある材木置場に集めていた電機部の従業員等四、五十人の前に連れ出し、半円を描くように人垣を作つて同課長を取り巻き、田中と吉田は同課長の左右に構え、吉田が司会して、「部長がいないから代りに河辺課長を連れてきたが、皆いろいろ不満に思つていることがあるだろうから、次ぎ次ぎ質問してくれ」と切り出し、水口、石川、奥田、元原告の松本昇らが相次いで「越年資金を全額六日に出すことを確約せよ」とか、「汚れ作業手当として石けん、作業服を配給せよ」などと発言し、同課長が返答に窮していると、「それくらいのことは課長として確約できないのか」「課長はわれわれの切実な越年資金要求をどう思うか」などと質問をあびせ、田中、吉田は、発言のたびに、「課長一体どう思うか」と詰め寄り、原告守谷、谷口も右集会に加わり、守谷は、「経営者は国内の計画造船の受注に大童になつているが、ソ連と国交回復すれば、注文は山ほどくるではないか、早くソ連と国交回復するよう交渉したらよいではないか、一体課長どう思うか」と発言し、谷口は電機部所属の右奥田、平田平らとともに野次をとばした。このようにして、同人らは、同日午後の始業(午後〇時五〇分)後も右集会を解散させることなく、同課長に対して権限外の事項に関する質問をあびせて詰め寄り、結局同日午後〇時四〇分頃から約一時間にわたつて同課長を吊し上げた。この集会には、原告露本、長谷川、元原告の長谷川義雄、高橋敏雄も参加していた。

而して、当審証人村上保男の証言により成立の認められる乙第四一号証の三、前掲乙第三四号証の一、第四一号証の四をも合わせ考えると、吉田が当時の非専従の執行委員(職場の組合員一五〇名につき一人の割合で選出される)、田中、水口、石川、奥田、長谷川義雄、高橋が電機部の職場委員(職場の組合員三五名につき一人の割合で選出される)、谷口が造機部製罐の職場委員であること、当時電機部の従業員は全部で約一、三〇〇名であるのに、右集会に参加していた者が僅か四、五十名程度であつて、右集会につき、あらかじめ組合からも、職場委員からも正規の連絡がなく行われ、造機部所属の者も右のごとく加わつていること、右に氏名をかかげた者で原告長谷川、元原告の高橋敏雄をのぞけば、すべて川造細胞の構成員であることが認められ、以上の諸点からすれば、右集会は、川造細胞所属の前記の者達が執行委員又は職場委員の地位において画策し、一部従業員を集めた会合であると認められる。

当審における原告田中、水口、露本、長谷川、元原告石川利次の各供述中、右認定に反する部分は、前掲証拠に照して信用し難く、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

ところで、右のごとく、職制を集団的に吊し上げる行為が違法行為として許されないことは、明かであるから、前記の者らは、著しく職場秩序をみだしたものといわなければならない。

しかし、右集会について、川造細胞そのものが主体となつてこれを企画したことを認めるに足る証拠はない。また、原告長谷川が右集会に参加していたことは、上叙のとおりであるが、同原告が、右集会において、発言したり野次をとばしたりしたものか、それとも、その場で、前記の者達の発言などをきいていただけであるのか等、その演じた役割につき、右会合に参加していたという点をのぞいて、何等確認するに足る資料はない。ことに、同原告と、右会合に参集していた前記の者達以外の三、四十名の者達との言動を対比して、その演じた役割の軽重を較量するに足る資料は何もない。

なお、被告は、原告守谷、谷口については、当裁判所の右認定にかかる参加行為を解雇理由としてあげていないので(被告提出の当審第八準備書面添付の別冊一の二九頁一一行目の「谷口」は「石川」の誤記であることが明かである)、当裁判所は右認定にかかる事実を同原告らの行動全体を綜合評価する際の情状として斟酌するにとどめるものであることを、ここにつけ加えておく。

11  電機部および造機工作部不法デモ事件(原告田中の関係)

当審証人塚本碩春(第五回)の証言により成立の認められる乙第四九号証の一、当審証人寺岡二郎の証言により成立の認められる乙第四九号証の二、三、当審における原告田中(一部)元共同原告石川利次の各供述に前掲乙第八号証の一、第四一証の三、甲第一三号証(三〇頁の写真参照)、前掲証人馬川時夫の証言を綜合すれば、「電機部所属の原告田中、元原告の前記吉田登、石川利次らの職場委員は造機部の職場委員の元原告庭田一雄らと連絡のうえ、越年資金に対する会社回答を要求する趣旨のもとに昭和二四年一二月二日の昼休み時間を利用して右各部所属の組合員約七〇〇名を動員して会社構内をデモ行進し、同日午後〇時四〇分頃から綜合事務所前において約三〇分にわたつてデモを行つて気勢をあげたが、原告田中らは右デモを主導する地位にありながら、午後〇時五〇分の始業時刻がきても右デモを解散させることなく、同日午後一時一〇分頃まで約二〇分間にわたつて就業時間にくいこんだ右デモを指導し、その間多数の従業員をして無断で職場を放棄させた」という事実が認められる。以上の認定を動かすに足る証拠はない。

ところで、当時、労使間は争議態勢になく、組合執行部は休けい時間中の職場大会の開催による組合活動を指示していたことは、上叙のとおりであり、右乙第八号証の一、前掲乙第九号証の一、二ならびに原審における証人古田槌生の証言、当審における証人坂口干雄、中江範親、仙波佐市の各証言を綜合すれば、昭和二四年一〇月末日をもつて失効した労働協約の存続していた当時においても、組合員の就業時間中の組合活動については事前に組合より会社側に申し出てその許可を得ることを建前とし、それが慣行化していたのであつて、右協約の失効後における組合員の就業時間中の組合活動に関しても、右協約の存続中に成立した右慣行によるべきであり、そのように解することが就業規則の規整(就業時間中に職場を離れて構内デモなどの組合活動に従事するには、所属長に申し出てその許可を得なければならないことになつている。就業規則四一条参照)にも合致することをも合わせ考えると、前記デモは、組合の指示に基づかず、かつ、会社の許可を得ていないところの、就業時間内の無断デモといわざるをえない。当審における原告田中本人の供述中右認定に反する部分は前掲各証拠ならびに説示に照して信用できない。

そうすると、前記の者らが就業時間内のデモを主導した行為は、戦場の規律と秩序をみだし、企業の運営を阻害したものといわなければならない。

なお、前記無断デモは川造細胞自体が主体的に画策したとの被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

12  造機工作部不法デモ事件(原告仲田、西村、守谷、中村、久保、矢田の関係)

当審証人佐伯辰一、名川純平、畠山七郎(第一回)、竹森正雄、阿部芳也の各証言、当審証人塚本碩春(第一、三回)の証言により成立の認められる乙第五〇号証の一、四、当審証人寺岡二郎の証言により成立の認められる乙第五〇号証の二、三、右証人竹森正雄の証言により成立の認められる乙第五二号証の一、前掲乙第四一号証の三と当審における原告仲田、西村、元共同原告浅田義美(いずれも一部)、矢野笹雄の各供述を綜合すると、次の事実を認定することができる。

昭和二四年一二月三日午後〇時半頃から造機部工具工場で職場大会が開かれたが、午後〇時五〇分の始業サイレンが鳴つたので、参集者が散会しかけようとしたとき、右大会を司会していた原告仲田はデモの決行を提案し、非専従執行委員の元原告浅田義美、職場委員の原告西村、元原告船橋政雄らがこれに同調してデモの決議を行い、同人ら指導のもとに、約四、五十名の組合員が綜合事務所に向かつてデモ行進に移り、これに、造機部組立工場からは職場委員の元原告庭田一雄、元原告の川崎豊、日名克巳、松尾正男が、造機部製罐工場からは職場委員の元原告元矢清作や原告守谷が、造機部機械工場からは職場委員の元原告小林時則が、それぞれ呼応して一部組合員を煽動してこれに合流せしめ、総数約一〇〇名の組合員が綜合事務所前を経て組合事務所前に至り、組合執行部を激励し、組合執行部の原告中村、久保、元原告の矢野笹雄、宮崎伍郎は、右デモに呼応して気勢をそえた。そのため、これらの職場においては、午後の作業開始は約三〇分おくれた。

当審における原告仲田、西村、守谷、久保、元共同原告小林時則、宮崎伍郎の各供述中右認定に反する部分は、前掲証拠に対比して信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

原告矢田が右デモに参加したことを認めるに足る証拠はない。

右就業時間内のデモは会社の許可がないのになされたものであつて、これを主導した原告仲田、西村、守谷の行為およびこれを助勢した原告中村、久保の行為は、前記11事件に説示したと同じ理由により、職場の秩序と規律をみだし、企業の運営を阻害したものといわなければならない。もつとも、前掲証人佐伯辰一、阿部芳也の各証言によれば、右デモが就業時間にくいこんだ分につき、賃金カットをしていないことが認められるけれども、当審証人坂口干雄の証言により成立の認められる乙第四八号証、乙第一〇一号証の四、五、当審証人塚本碩春(第一回)の証言により成立の認められる乙第五四号証と対比すれば、右賃金カットをしない一事をもつて、会社が右無断デモを全面的に事後承諾したものとみることはできないから、右賃金カットのなかつた事実は、上叙の認定を妨げるものではない。

なお、右無断デモは川造細胞自体が主体となつて画策したという被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

13  造機工作部不法デモ事件(原告仲田、西村、神岡、角谷、谷口、守谷、久保の関係)

前記12事件掲記の各証人の証言、当審における証人塚本碩春(第一回)、仙波佐市の各証言、ならびに前掲乙第五二号証の一、当審証人寺岡二郎の証言により成立の認められる乙第五二号証の二、三、五、六、当審証人塚本碩春(第一、三回)の証言により成立の認められる乙第五二号証の四、第五四号証、前掲乙第四一号証の三と当審における原告仲田、西村(一部)、神岡、角谷、守谷、元原告浅田義美、小林時則、船橋政雄の各供述を綜合すると、次の事実を認定することができる。

昭和二四年一二月六日午前一〇時に越年資金要求に対する会社側の回答がなされることになつていたが、同時刻を過ぎても会社側の回答がなされなかつたことから、造機部工具工場では、就業時間中、組合の指令もなく会社の許可もないのにかかわらず、同日午前一〇時過ぎ頃、原告仲田、西村は、前記の浅田、高橋、船橋や乾善吉らとともに、会社側に圧力をかけるため、職場の組合員を煽動して綜合事務所に向かつてデモを決行し、造機部機械工場からは原告神岡、角谷、元原告の日名克巳、小林時則らが職場会合をかけていた組合員を煽動してそのまま右デモ隊に合流させ、さらに造機部組立工場からは元原告庭田一雄、造機部製罐工場からは原告谷口、守谷、元原告元矢清作がリーダー格となつて、職場の一部組合員とともに右デモに参加し、これら総勢約二〇〇名のデモ隊は、同日午前一〇時三〇分頃綜合事務所前に至り、気勢をあげた。その際、非専従執行委員の原告神岡より「諸君の熱誠なる活動を謝す」旨の挨拶があつたのにつづいて、組合執行委員長仙波佐市より経過報告をなし「会社回答は午後一時三〇分にのばされたが、執行部において目下交渉中であるから、この事情を諒とされて一応解散されたい」旨を発言し、デモ大衆の解散を促したが、大衆側はこれに応ぜず、臨時交渉委員を大衆の決議によつて選出してその状況報告を徴したりして、結局同日午前一一時三〇分頃解散した。

当審における原告西村本人の供述中右認定に反する部分は前掲証拠に対比して信用できない。

かかる就業時間中の無断デモが職場の秩序をみだし、企業の運営を阻害するものであることは、すでに述べたところからして明かである。

原告久保が右デモを煽動ないし主導したり、助勢した点については、これを確認するに足る証拠はない。もつとも、前掲乙第五二号証の三によれば、右デモが解散する前頃に原告久保が組合執行部の教育宣伝部長として今後の行動説明をなしたことが認められるけれども、その行動説明の内容を確知する資料はないのであつて、同原告が右説明によつて右デモを助勢したとみることは、証拠上薄弱である。

なお、就業時間中の右職場放棄、無断デモならびにその煽動は川造細胞自体が主体となつて画策したとの被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

14  造機工作部職場会合引き延ばし事件(原告矢田、久保、谷口の関係)

当審証人寺岡二郎の証言により成立の認められる乙第五六号証、当審における原告谷口、久保の各供述(いずれも一部)ならびに上叙認定事実を考え合わせると、「造機工作部では昭和二四年一二月一四日午後〇時二〇分頃から機械工場中央入口附近で約三〇〇名の組合員が参加して職場大会が行われ、造機部出身の組合執行部の専門部長である原告矢田、久保、元原告の宮崎伍郎および村上文男が越年資金要求の経過報告をなし、製罐工場の職場委員である原告谷口が発言して、「一二月一五日に二、〇〇〇円獲得後、年内に残額を獲得せよ」と常任執行委員らを鞭撻激励し、同人らも「組合執行部においても闘う」旨答え、これらの発言のため、右職場大会は午後の始業時刻を約三〇分過ぎた午後一時二〇分頃、ようやく解散するに至つた」という事実を認定することができる。

ところで、就業時間中の右職場集会は、前記11事件において説示したと同じ理由により、組合の指示もなく会社の許可もない無断の集会であつて、原告矢田、久保は組合執行部の専門部長として、原告谷口は職場委員として、右職場集会を主宰指導すべき立場にあつたのであるから、右職場集会が就業時間内にくいこむことを防止するため、これを解散せしめるよう働きかけるべきであつたにかかわらず、かかる言動に出た形跡が認められないばかりでなく、かえつて、同人らの発言が右職場集会の就業時間内にくいこみの原因を与えているのである。

当審における原告谷口、久保の各供述中右認定に反する部分は上叙説示に照して信用しない。

そうすると、原告谷口、矢田、久保は、前記宮崎、村上とともに右職場集会を午後の就業時間にくいこませ、約三〇分間組合員の職場離脱を招来せしめたことに対して責任を分担すべきであつて、この点において同人らは、企業の運営を阻害したものといわなければならない。

なお、右職場集会が就業時間内へくいこんだ事実が川造細胞自体が主体となつて画策したとの被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

15  所長室前坐りこみ、暴行、集団職場離脱事件(原告矢田、久保、仲田、谷口、角谷、篠原、神岡、西村、守谷、石田、上山、水口、露本、長谷川、田中の関係)

当審における証人宮本芳晴(第一回)、塚本碩春(第一回)、真部治義、名川純平、畠山七郎(第一回)、中江範親、仙波佐市、藤本寿雄の各証言、ならびに右証人塚本碩春の証言(第一、三回)により成立の認められる乙第五七号証の一(ただし一部)、四および七の一ないし三、右証人真部治義および当審証人寺岡二郎の各証言により成立の認められる同号証の二、五、六、原審および当審(第一回)証人古河幸雄の証言により成立の認められる乙第一〇二号証の一(従前の書証番号が乙第九号証の一であつたもの)と当審における原告田中(一部)、石田、水口、露本、上山、長谷川、神岡、角谷、谷口(一部)、守谷(一部)、仲田、西村、矢田(一部)、久保(一部)、篠原(一部)、元共同原告石川利次、小林時則、池崎種松、平松一生、船橋政雄、宮崎伍郎(第二回の一部)、矢野笹雄(第二回の一部)ならびに上叙の越年闘争の経過の概観において説示したところと弁論の全趣旨を綜合すると、次の事実を認定することができる。

被告会社は昭和二四年一二月一五日従業員に対し、組合の要求にかかる越年資金の一部として、取り敢えず一人当り平均二、〇〇〇円を支給したが、当時における越年資金をめぐる労使間の争点は、上敍のとおり、「会社側においては、税込み総額一人当り平均五、〇〇〇円とし、その残額三、〇〇〇円について一二月一九日に外国船受注祝金の名目で一、五〇〇円、残りの一、五〇〇円を翌年廻しとして分割支給することを主張していたのに対し、組合側は、手取り総額一人当り平均五、〇〇〇円として、その残額三、〇〇〇円の年内支給を要求していた」点にあつて、この点をめぐつて同月一六日の午後会社側と団体交渉をもつことになつており、組合執行部は同日闘争指示第二号を発して、全組合員に対し、定時(午後四時)総退場を指令していた(当時組合はスト権を確立しておらず、したがつて組合執行部にスト権の委譲もなされていなかつたから、かかる職場放棄の指示は、残業のある職場に関しては、違法な争議行為の指令であるといわざるをえない)。しかし、被告会社の各職場では、もはや組合執行部の幹部交渉だけに任せられないとして、越年資金の年内獲得を期し、各職場の組合員を動員して会社側に圧力をかけるべく、同日午後〇時二〇分頃、会社構内のグラウンドにおいて、電機部、造機工作部、造船部などの各部の職場大会を開催したうえ、これら組合員約一、〇〇〇名は綜合事務所に向かつてデモを行い、同日午後〇時四〇分頃、同事務所前に集結し、気勢をあげた。そのうち、午後〇時五〇分の始業のサイレンが鳴つたので、約半数の組合員は職場に帰つたが、組合執行部の原告矢田、元原告の庭田一雄ら四、五人が、帰りかけようとする組合員を呼びとめたりして、結局四、五百名の組合員がそのまま綜合事務所前に坐り込んだ。その間、主として造機部所属の原告神岡、谷口、元原告の矢野笹雄、松尾正男、庭田一雄らが「越年闘争の敗北はわれわれの死を意味する」「会社はでたらめばかりいつている」「会社の幹部はわれわれの血をすすつている」「組合の執行部だけに任しては絶対に勝てぬ。団結の力で圧力をかけよう」などと発言して気勢を煽る一方、造船部所属の元原告青野日出男が「組合の執行部だけに任しておけない。われわれの代表を出そう」と提案し、造船部所属の元原告須藤実がこれに同調する発言をなし、造機部所属の原告仲田が右青野、谷口、電機部所属の原告田中、水口、元原告石川利次らを交渉委員に指名したのを、組合員大衆は異議なく承認した。組合の仙波委員長、小川副委員長らは、右坐り込みについて会社側の要請もあつたので、組合員大衆に対し解散するよう要請したが、大衆側はこれを受けつけず、組合執行部の原告矢田、久保、元原告の村上文男、宮崎伍郎は右組合員大衆の行動を放任し、かえつてこれに相呼応するような行動をとつていた。右のような有様であつたので、組合の仙波執行委員長は会社側に早速団体交渉をもつよう申し入れたが、会社側より、かかる無秩序無統制な状態の中での団体交渉には応じられないとして拒否され、他方前記大衆討議による交渉委員からは「何をボヤボヤしているか、早く団交やれ」とハツパをかけられる始末であつた。

かくして、綜合事務所前で約一時間坐り込んでいた組合員大衆は、同日午後二時頃、このような事態に業を煮やし、「これ以上組合執行部に任しておけない。われわれで直接集団交渉をもとうではないか」と誰かが発言したのをきつかけに組合員大衆は、造機部所属の原告谷口、神岡、仲田、角谷、西村、守谷、前記松尾正男、庭田、電機部所属の原告田中、石田、水口、元原告石川利次、造船部所属の前記青野、須藤、組合執行部の原告矢田、久保、元原告村上文男らが先頭に立つてスクラムを組みながら綜合事務所の玄関に押し入り、これを阻止しようとする保安課警備掛員らともみ合いながら、二階の所長室前に押し寄せ、そこで、三、四十名の者が再び坐り込んでしまつた。造機部関係では、日名克巳、小林時則、上野山光三、塚本武夫、平松一生、衣川忠一、乾善吉、船橋政雄、池崎種松、室谷治、電機部関係では、原告露本、上山のほか、岡山昭、窪園賢一、田中敏行、奥田昭六、戎光男、河上清春、平田平、造船部関係では、沖合善一、石野市太郎、小田正雄、笠原順吉、庁泰助、国本利男、仲野新一、松本小十郎、組合執行部関係では、造機部出身の組合専従書記の原告篠原も、これに加わり、概ね先頭集団を形成していた。組合の仙波執行委員長は、右坐り込み中の組合員大衆に解散するよう説得したが、その効なく、会社に駐在する米軍代表部ランドペツクより退去解散命令が発せられるに及んで、ようやく組合員大衆はグラウンドに引き返えし、同日午後二時三〇分頃解散したが、その間約一時間四〇分有余にわたる職場離脱、職場放棄が行われ、右集団行動に際して、綜合事務所の玄関の名札掛、タイムレコーダー、玄関洗面所附近の窓ガラスがこわされた。

原告上山は、綜合事務所前で坐り込んでいるとき組合員大衆の前の方にいたので、前記のごとく大衆が綜合事務所内になだれこんだ際、うしろから押されて先頭集団の中に入つたものであり、また、原告長谷川は右集団行動に参加していたが、組合員大衆が綜合事務所内に押し寄せた際も終始同事務所の外にいた。

当審における前記原告田中、谷口、守谷、矢田、久保、篠原、元共同原告小林時則、宮崎伍郎、矢野笹雄の各供述中前記認定に反する部分は、前掲各証拠と対比してにわかに信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

そして、右に氏名をかかげた参加者中、原告西村、上山、守谷ならびに、前記衣川、乾、船橋、池崎、平松、室谷、笠原、庁、国本、仲野、松本をのぞくその他の者が川造細胞所属の共産党員であることは、成立に争のない乙第三四号証の一によつて認められ、さらに原告守谷が共産党員であることは、同原告本人の供述により、前記室谷が共産党員であることは、弁論の全趣旨に徴し、又前記庁が共産党員であることは、成立に争のない甲第五号証の二に徴し、それぞれ認められるから、上叙説示にこれらの点を考え合わせると、前記職場離脱は、川造細胞所属の共産党員を中心とした急進分子の前記原告らが組合員大衆を煽動して惹起したものということができる。

右行動は著しく職場秩序をみだす企業阻害行為であつて、集団行動を煽動した前記の原告らは、これによつて生じた器物破壊についても、その責任の一半を負わなければならない。

しかし、右集団行動が川造細胞自体によつて画策されたとの被告の主張については、当審証人塚本碩春(第一回)の証言によつても確認するに足りないし、他にこれを認めるに足る的確な証拠はない。

16から24までの事件と関係のある昭和二五年春の賃上げ闘争について

これらの事件は、被告は昭和二五年春季賃上げ闘争に際し、又はこれと関連して起つたものであると主張するので、まず春季闘争の経過を概観しておこう。

当審における証人坂口干雄、中江範親、仙波佐市、藤本寿雄、村上保男、杉本登、山本登、三木秀太郎の各証言、原告矢田正男、元共同原告宮崎伍郎(第一回)、矢野笹雄(第一回)の各供述(各一部)と前掲甲第一三号証、右証人坂口干雄の証言により成立の認められる乙第六五号証の一ないし三、右証人藤本寿雄の証言により成立の認められる乙第一〇三号証の一、二、当審証人塚本碩春(第三回)の証言および右原告矢田本人の供述により成立の認められる乙第一〇三号証の三、右証人仙波佐市の証言ならびに弁論の全趣旨に徴し成立の認められる乙第六九号証の一、当審証人加藤誠治の証言および前記宮崎伍郎の供述により成立の認められる乙第六九号証の二、右証人藤本寿雄、村上保男の各証言に徴して成立の認められる乙第六七号証の二の一、二、当審証人小沢憲治(第一回)の証言により成立の認められる乙第六七号証の三、当審における右証人小沢憲治、久保倉良雄の各証言により成立の認められる乙第六六号証の四ならびに弁論の全趣旨を綜合すると、右賃上げ闘争の経過は次のとおり認められる。

組合は、昭和二三年一一月、平均賃金八、〇〇〇円ベースを獲得したが、その後の諸物価の全面的な値上がりを理由に、昭和二五年三月三日会社に対し、平均賃金を五割ベースアツプして一二、〇〇〇円にすること等の要求を提出した。

会社は、これに対し、同年三月一〇日経営難を理由に組合の右要求を全面的に拒否した。その後双方の間に団体交渉がもたれたものの、交渉は一向進展しなかつたので、組合は実力行使による要求貫徹を期し、同年四月一四日頃組合員の全体投票を行つて、スト権を確立し、スト権行使の指示権が組合執行部に委譲された。当時は、既述のとおり、労働協約は失効していたけれども、争議行為をなすについて事前に会社側に通知する慣行が労使間に成立していたが、会社側は念のため、その頃組合に対し、争議行為の事前通知方を申し入れるとともに、従業員に対し、就業時間中における無断職場離脱等の行為のないよう、職制を通じて注意を喚起し、組合より事前通知のない争議行為に対しては、就業規則によつて処置する旨を警告していたが、組合も争議行為の事前通知については、会社の右申入れを諒承していた。ところで、組合は団体交渉の進展しないのに鑑み、同年四月二一日頃より、昼休み時間を利用した職場大会の開催を指示して下部からの盛り上がりと闘争意欲の昂揚に努める一方、実力行使の手段を採用するに至つた。しかし、組合執行部の指令した実力行使は、当初は、重点的に職場を指定しての定時退社と二時間以上の残業放棄に限られていたが、同年五月六日以降は、二時間以上の残業放棄を進駐軍関係の工事等の一部をのぞいて本社工場の全職場に拡大した。その間、会社側の態度は依然強硬で、ゼロ回答をゆずらず、団体交渉は対立したまま平行状態をつづけていた半面、造機部、電機部等の各職場では、後記のごとく、組合の指令に基づかない職場放棄等の行為が会社にも無断で相次いで発生したので、各部の職員層より闘争批判の声があらわれ、戦術転換が要請されるに至つた。かくして、同年五月二〇日の組合員の全体投票の結果、組合は、実力行使をやめて平和交渉方式に移行することになり、当時の組合執行部は責を負つて総辞職した。組合の新執行部は、同年六月一日頃成立し、じらい十数回にわたる団体交渉を経、同年六月末頃に至つて、結局一人当り平均二、五〇〇円の一時金を獲得することによつて、会社側と妥結するに至つた。(職場闘争については後述する。)

当審における前記原告矢田、元共同原告宮崎伍郎、矢野笹雄の各供述中右認定に反する部分は前掲の各証拠に照して信用し難く、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

16  造船工作部集団職場放棄総退社事件

(本件に対する判断は、訴却下にかかる原告遠藤、尾崎、村上と同調者とされる原告赤田、西村、長谷川、上山とをのぞいた他の原告との関係でなすものであることをことわつておく)。

前掲乙第六九号証の一、二と当審における証人加藤誠治の証言によると、「組合は昭和二五年四月二五日造船工作部の組合員に対し、二時間以上の残業放棄を指令していたが、同日昼休みに行われた造船工作部仕上旋盤職場における職場会合において、元原告の青野、石野は定時の午後四時一斉退社の提案を行い、組合の組織部長の元原告宮崎伍郎もこれに同調する態度を示して、参集者をしてその旨の決議を行わしめた。当時、右仕上旋盤職場では、フアンマノー号などのドツク入りを控えて仕事が錯綜していたし、右職場決議は組合指令に違反するところから、現場掛長は二時間の残業命令を発し、さらに、組合の小川副執行委員長も組合の指令に従うよう説得したにかかわらず、前記青野、石野はこれらを無視して同職場の組合員を煽動し、定時一斉総退社を行わしめた」という事実を認定することができる。

しかし、右一斉退社は川造細胞自体が主体となつて画策したという被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

17  フアンマノー号事件(原告矢田、久保の関係)

当審における証人吉田俊夫、煎本博章、中江範親の各証言、前掲乙第一〇三号証の三に当審における原告矢田、久保の各供述(いずれも一部)を綜合すると、次の事実を認定することができる。

被告会社では、戦後最初の輸出船として建造していたフアンマノー号(一八、三〇〇トン)を昭和二五年五月八日より大阪の日立造船築港工場に入渠させ、造機、電機、造船各部より計約一五〇名の従業員を派遣して、同月一一日夕刻出渠の予定のもとに、船底の清掃、塗装(ただし、塗装工事は日立造船に頼んでいた)、プロペラ、吸水パルプその他の諸機械の清掃点検等の艤装作業に当らせていたところ、組合執行部の専門部長であつた原告矢田および久保の両名は、同年五月一〇日午後一時頃就業時間中にもかかわらず、無断で同船の船尾甲板において、職場集会をかけ、集まつてきた五、六十人の組合員を前にして、「会社は日立とぐるになつてわたし達をひきはなそうとしている。わたし達は君達のことを心配してやつてきた。不平があるか」、「皆さん腹が減らんか、食事は十分か、日当は十分か」などとあじり、組合員の中から「腹が減るぞ」、「日当倍額にせよ」などという発言があつたのをとらえて、右原告両名は、「皆さんの要求はわかつた」として、同日午後一時三〇分頃集会中の組合員大衆に集団交渉を煽動し、みずから先頭に立つて、同船中央の船橋にある事務所に押しかけ、同船の艤装工事を統括する地位にあつた被告会社の外業長吉田俊夫を集団の威圧によつて同船中央甲板に連行した。同甲板において、矢田と久保は外業長の左右に構え、これを取り巻く組合員の数は次第に増して、約一〇〇人に達した。かような緊迫した雰囲気の中で、矢田は同外業長に対し、「日当倍額支給を直ちに認めてくれ」「作業員が大阪に来るのに四時間かかる。四時間の割増賃金を即時支払え」、「腹が減つて仕事ができん。山盛り飯を食わせ」などと次々に要求し、組合員大衆の「そうだそうだ」という野次声援をバツクにして詰め寄り、同外業長が「そういうことについては権限がない。組合を通じて社長か所長に申し出てくれ」と答えると、矢田は、「誠意がない」「こんな外業長のもとで仕事できるか」などとなじり、組合員大衆の中からも「やつつけろ」というような物騒な野次も出る有様であつた。このようにして矢田および久保は、組合員大衆を煽動しながら、その圧力を背景として、同日午後一時半過ぎから同日午後三時半頃まで、約二時間にわたつて吉田外業長を集団的に吊し上げた。かかる集団的行動のため、フアンマノー号の出渠は予定が狂い、同月一二日早朝にのびるに至つた。

当審における原告矢田、久保の各供述中右認定に反する部分は前掲証拠に照して信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。(なお、被告主張の同月一一日における原告矢田、久保の行為については、前記証人吉田俊夫の証言によつてはこれを確認するに足りないし、他にこれを認めるに足る証拠もない。)

ところで、当審証人仙波佐市の証言によれば、矢田、久保がフアンマノー号に赴いたのは、同船の作業員の要望をきいて、これに対する対策をたてるための実情調査にあつたことがうかがわれるけれども、右証言、当審証人村上保男の証言、および前掲乙第一〇三号証の三によれば、就業時間中の職場集会のごときは明かに実力行使に属するところ、原告等の右使命には実力行使はふくまれていないのであり(当審における原告矢田の供述中右認定に反する部分は信用しない。)又前記のごとき要求について、即座に職場の職制と交渉させるような組合指令は出ていなかつたことが認められるばかりでなく、職場の要求について職制を集団的に吊し上げることの許されないことは、当然である。

そうだとすると、原告矢田および久保が組合の指令もないのにフアンマノー号上の作業員を煽動して就業時間中会社に無断で職場集会を強行し、しかも、原告らの煽動によつて出てきた要求を職場の要求として直ちに取りあげたうえ、処理権限のない職場の職制に対してその承認を迫り、約二時間にわたつて職制を吊し上げた行動は、著しく職場の秩序と規律をみだし、会社の業務を違法に阻害したものといわなければならない。

前記証人吉田俊夫の証言と前記原告矢田の供述ならびに同供述により成立の認められる甲第一一号証の一、二によれば、吉田外業長は、右吊し上げにより、組合員大衆ならびに原告矢田らの前記要求につき、外業長自身としては実現に努力する旨の答弁を余儀なくせられ、同外業長より報告を受けた会社首脳部も社運をかけたフアンマノー号の作業遂行のため、やむなく右要求を受諾したこと、その結果が同年五月一一日附組合速報に「みんなで闘えば必ずとれる、会社側無条件降伏、正しい要求遂に獲得」なる見出しをつけて掲載されたことが認められる。しかしながら、組合の速報に右のごとく掲載発表したことが、組合の指示又は事後承認を意味するものでないことは、前掲証人村上保男の証言に徴して認められるし、会社側の右要求受諾のために原告矢田、久保の行動の違法性を阻却するものではない。したがつて、これらの受諾、速報掲載発表の事実はなんら上叙認定の妨げとはならない。

なお、右フアンマノー号事件は川造細胞自体が企画したとの被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

18  造機工作部工務課長面会強要ならびに集団総退社事件(原告谷口、神岡、角谷、仲田、守谷、西村の関係)

当審における証人古河幸雄(第一回)、下内剛、久保倉良雄、小沢憲治(第一回)、杉本登、仙波佐市の各証言および右証人古河幸雄の証言により成立の認められる乙第六六号証の一ないし三、前提乙第六六号証の四、第六七号証の二の一、二、第四一号証の三と当審における原告谷口、神岡(一部)、角谷(一部)、守谷、仲田、西村、元共同原告小林時則(一部)浅田義美、平松一生の各供述ならびに弁論の全趣旨を綜合すると、次の事実を認定することができる。

昭和二五年五月の賃上闘争当時、造機工作部の従業員は総数約一、九〇〇名、そのうち機械関係は約四〇〇名、組立関係は約三五〇名であつて、元原告村上文男は右機械出身の組合執行部の専門部長、原告神岡は同機械の非専従の執行委員、原告角谷、元原告の小林時則、大西恵はいずれも同機械の職場委員、元原告池崎種松、平松一生は同機械の平組合員、元原告松尾正男は同部第一組立所属の非専従の執行委員、元原告庭田一雄は同組立(内火工場)の職場委員、元原告梅野浩司は同工場の平組合員、原告谷口は製罐工場の職場委員、原告守谷は同工場の平組合員、元原告浅田義美は工具工場所属の非専従の執行委員、原告西村は同工場の職場委員、原告仲田は同工場の平組合員であつたが、

(イ)  同年五月一二日午前九時頃、前記村上、神岡、小林、池崎、松尾、原告谷口、仲田、西村は、造機部の職場委員および平組合員をあわせた約四〇名の先頭に立ち、原告角谷、守谷、前記大西、平松、庭田、梅野、浅田もこれに加わりながら、就業時間中にもかかわらず、造機部長室に至り、同部長に面会を求めたが、同部長不在のため、工務課長古河幸雄が代つて面会したところ、前記先頭に立つていた者達がこもごも発言して「昨日の職場大会で決議したが、ホツピング(大歯車の歯切りをする機械で、舶用タービンの精度を保つため、仕上げするまで昼夜兼行で作業を継続する)の夜勤者に夜勤手当を出してくれ」と要求した。右夜勤者には当時労働基準法所定の割増賃金以上のものが支給されていたので、同課長は、「そういうことは賃金規則に関することで、課長にいうのは筋道が違う。組合から労働課を通じて要求すべきことではないか」と答えたが、同人らは執拗に要求して押問答を重ね、結局、同課長より「右要求のあつたことを部長につたえる」旨の答えをえて、同日午前一〇時頃ようやく同部長室を退出し、その間約一時間にわたつて職場を離脱した(元原告村上文男は専従者として、職場の者に職場離脱を煽動した関係にある)。

右交渉に際しては、機械の職場委員の鳥居豊(社会党系)、杉本登も発言していたが、主たる発言は、前記の者達が占めていた。

またその際、食事をする場所、脱衣場の設備に関する要求もあつて、これについては、同課長が善処する旨を回答したことが認められる。しかし、かかる要求が職場に固有のもので、同課長が取りはからい得る事項であつたにしても、そのことのゆえに、右集団交渉による職場離脱を正当化するものではないことは、後述する。

(ロ)  右退出後、同人ら約四〇名は、依然職場に復帰せず、そのまま全員組合事務所に赴いたが、同日午前一一時四五分頃造機工作部長室に再び古河工務課長をたずね、さきに主として発言した連中が同課長に対し、前記ホツピング以外の一般従業員に対する残業手当、徹夜手当の支給をあらたに要求し、午後二時頃に回答されたいと要望して、正午前退出した。このときには、本件の会社側の証人となつている機械の職場委員下内剛も前記神岡、小林に参加するよう勧められて右一団のうしろの方に控えていた。

(ハ)  同日午後二時二〇分頃、同人ら(ただし工具工場関係の浅田、西村、仲田と機械の平松一生、下内剛をのぞく。前記鳥居豊がこのときもいたかどうかは判らない。)は、三度造機部長室に前記古河課長をたずね、池崎が発言して前記要求に対する回答を求めたのに対し、同課長が「部長が不在であるし、わたしの権限外の要求でもあるので、回答はできない」旨回答したところ、同人等は、「わかつた。会社には誠意がない。引き揚げろ」といつて退出し、その直後、機械工場、第一組立工場および第二、第三組立工場(内火工場)の組合員に対し、即時総退社するよう煽動し、その結果遂にこれら工場の従業員は同日午後二時半頃から午後三時にかけて一斉に退社するに至つた。

当審における原告、神岡、角谷、元共同原告小林時則の各供述中右認定に反する部分は前掲証拠に照して信用しないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

ところで、就業時間中における右のごとき集団交渉による職場離脱について、組合執行部の指令はなかつたし、右五月一二日当日は、造機部の銅工および製罐工場に対して定時退場の指令が出ていただけで、造機部の機械、組立工場には、かかる指令はなく、五月六日の指令により、二時間以上の残業拒否の指示があるのみであつた。

上叙認定の事実に、前記村上、神岡、角谷、小林、大西、松尾、庭田、谷口、仲田が川造細胞の構成員であることや守谷が共産党員であること(この点はすでに認定したところである)を合わせ考えると、前記職場離脱、集団交渉、および一斉総退社は、共産党系のこれらの分子が主導して起こした違法な実力行使であつて、上叙関係者の行為は、職場の秩序と規律をみだし、企業の運営を著しく阻害するものといわなければならない。前記原谷口、守谷の供述するごとく、前記のごとき用件で造機工作部長に会いに行くことが造機工作部の職場委員の合同会議にかけて決められたことであるとしても、以上の認定を左右するものでないのであつて、その理由は、後に職場闘争を検討する段階で明かにする。

なお、右一連の行為は川造細胞自体が画策したとの被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

19  造機工作部機械工場一斉総退社事件(原告神岡、角谷の関係)

造機工作部機械工場の従業員が昭和二五年五月一三日午後一時半頃一斉総退社したことは、原告の認めるところであり、当審における証人久保倉良雄の証言、前掲乙第六七号証の二の一、二、第六三号証の三、当審証人寺岡二郎の証言により成立の認められる乙第六七号証の一、原審および当審証人中田俊一の証言により成立の認められる乙第四二号証の一、成立に争のない甲第五号証の三ならびに上叙の賃上闘争の概観においてなした説示と当審における原告神岡(一部)、角谷、元共同原告小林時則(一部)、平松一生(一部)の各供述を綜合すると、次の事実を認定することができる。

組合執行部は、上叙のごとく、同年五月六日以降二時間以上の残業放棄を指令し、かつ情勢に応じて重点的定時退場を指令していたもので、組合執行部の実力行使の手段としては、右の二つがその限界をなしていたもので、組合執行部は右五月一三日には、造機工作部の機械工場所属の組合員に対して定時退場を指令したが、同日昼休み中に開かれた機械工場の職場大会において、午後より総退場する提案が行われたが、大会の議長をしていた非専従執行委員の原告神岡はじめ、職場委員の原告角谷、元原告小林時則、平組合員の訴外石見幸正、前記池崎種松は、そこに集まつている機械工場のほとんど全部の組合員約四〇〇名を前にして、「会社は職制を通じて圧迫を加えてきた。これに対して組合執行部は甚だ弱腰で任しておけない。よつてわれわれはあくまで団結してこれらの圧迫に屈することなく粉砕せねばならない」「組合の指令は生ぬるい。組合の指令を返上して一斉退場しよう」などと煽動的な発言をして一斉退場の機運を醸成する一方、職場委員の下内剛や杉本登らが「組合の定時退場の指令を守ろう。組合の指令を無視し、組合の統制を無視すれば、組合の破滅になる」として、一斉退場に対する反論を述べるや、前記の小林、原告角谷がはげしく詰め寄つて反撃を加えるなどの応酬があつて、結局即時総退場論が大勢を制し、同日午後一時過ぎ職場大会が終了するとともに、機械工場の全従業員は組合の前記指令を無視して一斉総退場するに至つた。

当審における原告神岡、元共同原告小林時則、平松一生の各供述中右認定に反する部分は前掲各証拠に対比してにわかに信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

そうだとすると、右一斉総退場は、機械工場所属の組合員の職場大会の決議によつて敢行されたものであるけれども、かかる定時前一斉総退場の行動は組合の指令を無視する実力行使であり、しかも個々の職場がめいめい独自にかかる実力行使を決定する権能を、会社との関係においても、組合との関係においても、持ち合わせていないのである(この点は、後に職場闘争を検討するところで詳論する)から、右の総退場は違法を実力行使といわなければならない。そして、職場をしてかかる違法な実力行使に至らしめるよう煽動して職場大衆を風靡した場合においては、かかる煽動者は、違法な実力行使の結果に対して責任を分担しなければならない。このような意味において、前記の原告神岡、角谷は、前記の小林、石見、池崎、平松とともに、職場の秩序をみだし、会社の業務を著しく阻害したものである。

なお、右総退場の行動は川造細胞自体によつて画策されたとの被告の主張については、これを認めるに足る証拠はない。

20  造機工作部製罐工場一斉総退社事件(原告谷口、守谷の関係)

造機工作部製罐工場の従業員が昭和二五年五月一三日午後一時半頃総退社した事実は、原告の認めるところであり、当審における証人塙正二の証言、前提乙第六七号証の一(一部)および三、第六七号証の二の一、二、第六六号の四、第四一号証の三ならびに上叙賃上闘争の概観で説示したところと当審における元共同原告宮崎伍郎の供述(第二回の一部)を綜合すると、次の事実を認定することができる。

造機工作部製罐工場においては、前記五月一三日昼休み中から午後の就業時間にかけて、同工場所属の組合員約三〇〇名のほとんど全員が参加して職場大会が開かれ、電機部から製罐工場への貸渡し問題が討議されたあと、職場委員で同大会を司会していた原告谷口から、同日午後からの総退社が提案せられた。当日は五月六日の組合指令の適用を受けて、二時間以上の残業放棄が指示されていたにとどまるにかかわらず、かかる提案がなされたのであるが、原告守谷、元共同原告三種松一らが「われわれも総退社して団結の力をみせ、会社に圧力をかけよう」と発言して右提案に同調し、製罐出身の組合専従の組織部長である元原告宮崎伍郎も右大会に列席して右総退社案に同調する発言をした。しかし、非専従執行委員の吉川斉、職場委員の来田長利らが組合の指令どおり行動すべき旨を発言して右提案に反対し、組合執行部の小川副執行委員長からも、組合の指令どおり行動されたい旨を説得したので、同職場大会は、前記組合の指令(午後六時以降の残業放棄)に従うことを確認して解散することになつた。しかるに、同大会が解散して参会者が職場に帰ろうとした頃、組合執行部の専門部長村上文男や製罐の衣川忠一が前記19事件に認定した機械工場の一斉総退社の決定を知らせてきた。職場に帰りかけていた組合員達がその知らせをきいて興奮動搖しているさなかに、前記谷口、守谷、宮崎、三種らが「機械が帰るようになつたぞ、おれ達も一緒に帰ろうじやないか」と組合員大衆を煽動したので、製罐工場の組合員達は機械工場の組合員の総退社の動きに合流することになり、結局製罐工場所属の従業員は組合の指令ならびに右職場大会の申し合わせを無視して午後一時半頃から午後三時頃にかけて全員退社するに至つた。

前掲乙第六七号証の一の製罐工場関係の記載ならびに当審における原告谷口、守谷、元共同原告宮崎伍郎(第二回)の各供述中右認定に反する部分は前掲各証拠に対比して信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

そうすると、前記認定にかかる原告谷口、守谷、元原告宮崎らの行為は、違法な実力行使を煽動したものとして著しく職場の秩序をみだし、会社の業務運営を阻害したものといわなければならない。

なお、右一斉退社の行動が、川造細胞自体によつて画策されたとの被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

21  造機工作部機装および内火工場一斉総退社事件(原告矢田、久保の関係)

造機工作部機装および内火工場の従業員が昭和二五年五月一三日午後一時半頃一斉総退社したことは、原告の認めるところである。

(イ)  当審における証人煎本博章の証言、前掲乙第六七号証の一、三、同号証の二の一、二、第六六号証の四と当審における原告矢田、久保の各供述(いずれも一部)ならびに上叙賃上闘争の概観および17事件において認定した事実を綜合すれば、「前記五月一三日昼休み中から午後の就業時間にかけて行われた機装工場の職場大会において、組合執行部の専門部長である原告矢田および久保の両名は、「フアンマノー号作業員の要求を獲得したのは、団結の力だ。われわれは闘争に勝つためには団結しなければならない。これから団結して総退社しよう」と煽動的発言を行つた。当日、機装工場は、五月六日附の組合指令により、午後六時以降の残業拒否が指示されていたにとどまるにかかわらず、右組合指令を無視した同原告らの煽動により、機装工場の従業員約二〇〇名は、同日午後一時半頃一斉総退社するに至つた」という事実を認定することができる。当審における原告矢田、久保の各供述中右認定に反する部分は前掲各証拠と対比して信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

ところで、右一斉総退社が、原告矢田、久保の供述するごとく、機装工場の右職場大会の決議によつて行われたものであるとしても、右に認定した同原告らの煽動行為は、前記19事件に述べたと同じ理由により、違法な実力行使を煽動したものであつて、会社の業務を著しく阻害したものといわなければならない。

しかし、右一斉総退社の行動が川造細胞自体によつて画策されたとの被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

(ロ)  当審における証人小沢憲治(第一回)の証言、前記(イ)掲記の各書証ならびに上叙賃上闘争の概観において説示したところを綜合すると、「前記五月一三日の昼休み中から午後の就業時間にかけて開かれた内火工場の職場大会において、同工場所属の元原告庭田一雄、梅野浩司は、第一組立工場所属の非専従執行委員である元原告松尾正男とともに、二時間以上の残業放棄の組合指令を無視して、「会社にはもつと圧力をかけないといけない。今の組合執行部は弱腰だ。今日も総退社しよう」と発言し、前述の機械、製罐、機装各工場の一斉総退社の動きに呼応して組合員を煽動したので、内火工場所属の従業員約一三〇名は、前記組合指令を無視し、同日午後一時半頃から一斉総退社するに至つた」という事実を認定することができる。前掲乙第六七号証の一の内火工場関係の記載中右認定に反する部分は、前掲各証拠に対比して信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

ところで、右総退社の行動が右職場大会の決議によるものであるにしても、右庭田、梅野、松尾の行為が違法な実力行使の煽動として職場秩序をみだし、企業の運営を著しく阻害するものであることは、前記19事件に述べたと同じ理由により明かであるが、原告矢田、久保の両名が右内火工場の一斉総退社につき関与したことを認めるに足る証拠はないし、川造細胞自体が主体となつて右一斉総退社を画策したとの被告の主張についても、これを確認するに足る証拠はない。

22  電機部貸渡し拒否煽動事件(原告田中、水口の関係)

昭和二五年五月、電機部から造機工作部製罐工場へ従業員を貸渡すについて、原告田中、水口、元原告の石川利次、吉田登、松本昇が反対したことは、原告側の明かに争わないところであり、当審における証人河辺光明(第二回)、橘年一、塙正二の各証言と当審証人塚本碩春(第三回)、中田俊一の各証言により成立の認められる乙第七一号証、原審証人河辺光明の証言により成立の認められる乙第一〇二号証の二(旧書証番号は乙第九号証の二一)、前掲乙第六七号証の一を綜合すると、次の事実を認定することができる。

被告会社では、昭和二五年五月頃、電機部の受注がまたまた減少し、同部組立関係の工員に余剰を生ずる一方、造機工作部製罐工場では、大阪瓦斯、東洋高圧等からの受注工事により残業に次ぐ残業を重ね仕事に追いまくられる状態であつたので、電機部組立の従業員約二五〇人の中から造機工作部製罐工場へ約五〇人を貸し渡すことを内定し、組合に対しては、労働課を通じてこれを申し入れ、組合の了解を得た。そこで、電機部では、希望者および勤続三年未満の者から選考して貸渡しの人事をすすめ、第一次として、貸渡し希望の工員の中から約二〇名を決定し、同年五月一一日午前、電機部事務所において、工作課長河辺光明より右該当者に対して貸渡し人事を申し渡した。右該当者は、貸渡しを希望していた者であつたから、右申し渡しに勿論異議はなかつた。しかるに、右申し渡しを受けた約二〇名の工員が、電機部の事務所を退出するや、待ち構えていた原告田中、水口、元原告の石川利次、吉田登、松本昇は、同人らを電機部運輸の職場に連行し、貸渡しを集団的に拒否するよう煽動し、「おれ達のいうことをきかないと承知しない」旨申し向けたので、一旦貸渡しを承諾していた右約二〇名の従業員は、前記製罐工場へ応援に行くことを渋り出し、このため、右貸渡人事の実施は同年六月はじめの頃まで遅延せしめられた。

当審における原告田中、水口、元共同原告の石川利次、宮崎伍郎の各供述中右認定に反する部分は前出の各証拠に照して信用し難く、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

もつとも、右貸渡しを申し渡した当時は春季賃上闘争中であつたことは、上叙説示に照して明かであるけれども、組合の闘争手段は、前記のごとく、二時間以上の残業放棄と重点的工場の定時退場を限度としていたのであり、しかも、右貸渡しは、従業員の配置転換とは異なり、作業の繁閑に処する一時的対策であつて、組合もこれを了解し、貸渡しされる当該従業員も希望するところであつたのである。そうだとすると、右貸渡しが組合の闘争中に実施されるからといつて、これをもつて会社が職制を通じて組合の闘争に圧迫を加えるとか、スト破りを目的とした不当措置ということはできないのであつて、原告田中、水口らの右煽動行為は、会社の企業運営を不当に阻害したものといわなければならない。

しかし、右原告らの煽動が川造細胞自体によつて画策されたとの被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

23  電機部長ならびに工作課長吊し上げ事件(原告田中、水口、谷口、角谷の関係)

昭和二五年五月一二日、電機部所属の原告田中、水口、元原告石川利次らが造機工作部所属の原告谷口、角谷、元原告松尾正男らとともに、就業時間中電機部長室において同部長および工作課長に面談し、電機部より造機工作部への貸渡し問題について、これに反対する発言をしたことは、原告側の明かに争わないところであり、右事実に、当審における証人河辺光明(第二回)、塙正二の各証言、右証人河辺光明の証言により成立の認められる乙第七二号証、前掲乙第六七号証の一と当審における原告田中、水口、谷口、元共同原告石川利次の各供述(いずれも一部)ならびに前記22事件に説示したところを綜合すれば、次の事実を認定することができる。

前記五月一二日午後三時過ぎ頃、前記の電機部、造機工作部所属の者達は、就業時間中にもかかわらず、無断職場を離脱して、組合執行部の組織部長宮崎伍郎ほか数名とともに、電機部長室に行き、要談中の矢野正已部長および河辺光明工作課長を取り巻きながら、宮崎、田中、石川がこもごも発言して、「貸渡しは無茶苦茶だ」「電機部に仕事がないのは、幹部がボヤボヤしているからだ」「即時貸渡し撤回を誓約してくれ」などと発言し、他の者がこれに同調して、右部課長に詰め寄り、その間、谷口は石油罐を叩いて右部課長の背後を去来し、「勝手なことをすると承知せんぞ。今日はこの位にしておく」と捨台詞を残して午後四時半頃退出するまで、約一時間余にわたつて、同部課長を吊し上げた。

当審における原告田中、水口、谷口、元共同原告石川利次、宮崎伍郎の各供述中右認定に反する部分は前掲各証拠に照して信用し難く、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

被告は、元原告の矢野笹雄が右吊し上げに参加したと主張するけれども、これを認める何等の証拠はなく、かえつて当審における原告田中、元共同原告矢野笹雄の各供述および前掲甲第一三号証(八七頁最下段参照)によれば、右矢野笹雄は当時全造船本部の教育宣伝部長として東京に駐在していたことがうかがわれるから、同人は本件には関係がないといわなければならない。さらに、右吊し上げが川造細胞自体によつて画策されたとの被告の主張についても、これを確認するに足る証拠はない。

ところで、右貸渡しは、すでに組合執行部も了解していたところであつて、スト破り等組合の闘争に圧迫を加えるためになされた不当措置ではないことは、前記22事件で述べたとおりであるばかりでなく、職制を集団の威力を背景として吊し上げることは、許されるところではない。したがつて、前記原告田中、水口、谷口、角谷らの職場離脱ならびに吊し上げ行為は職場秩序を著しくみだす企業阻害行為といわなければならない。

24  電機部長吊し上げ、ならびに集団総退社事件(原告田中、水口、石田、露本、上山の関係)

当審における証人大樫恭助、河辺光明(第二回)の各証言、前掲乙第六七号証の一、同号証の二の一、二、第六七号証の三、第七一、七二号証、当審証人中田俊一の証言により成立の認められる乙第七三号証と当審における原告田中、水口、石田、露本、上山、元共同原告石川利次の各供述(いずれも一部)ならびに上叙賃上闘争の概観および22・23各事件において説示したところを綜合すると、次の事実を認定することができる。

(イ)  昭和二五年五月一三日昼休み中から、電機部所属の約千二、三百名の組合員がほとんど全員出席して職場大会が開かれ、電機部における前記貸渡し問題(22事件参照)を討議したが、電機部第一工作課所属の職場委員であつた原告田中がリーダーとなり、同人はじめ、職場委員の原告水口、露本、元原告石川利次、平組合員の元原告奥田昭六、平田平らの共産党員が主になつて貸渡しに反対の発言をなし、ことに原告田中は、「貸渡しに反対しないと首切りがくる」、「外濠が埋められると内濠も埋められる。ここで闘わぬと労働強化がくる」と発言して、右貸渡しに反対の機運を醸成したうえ、右田中、石川らが「電機部長から貸渡しを強行する理由をきこう」と提案し、組合員大衆の賛成を得た。そこで、右田中、水口、奥田、平田らは、同日午後一時過ぎ頃矢野電機部長を右職場大会の席へ呼び出し、田中は同部長に対して貸渡しの理由をただした。同部長は貸渡しのやむをえない理由を述べて従業員の協力を要請したところ、同部長の近くにいた田中、水口、石川、露木、平田、奥田、石田らが主になつて質問をあびせかけ、同部長が答えると、「うそをいうな」「会社の犬」「資本家の手先」などとののしり、同部長が黙つていると、「貸渡しに理由がないから返事できぬのだろう」などとやじり、「部長は工場の責任者ではないか、この場で貸渡しを撤回せよ」と詰め寄るなどして、結局二、三十分間にわたり組合員大衆の威圧を背景にして同部長を吊し上げた。

いかに職場大会とはいえ、職制を集団的に吊し上げることの許されないことは明かであつて、前記の田中、水口、石川、奥田、平田は著しく職場秩序をみだしたものといわなければならない。

(ロ)  矢野電機部長が右のような問答無用のような状態に見限りをつけて右職場大会の席を退出しかけたところ、原告田中は、同部長のうしろから「おい、こら、矢野、待て」と追いかけて同部長の上着をつかんだが、同部長はこれを振り切つてその場を退出した。

(ハ)  原告上山は、右職場大会に参加していたが、矢野部長に対する前記吊し上げに際して、いかなる言動をなしたかは、証拠上明かでない。しかし、同原告は、退席する矢野部長のうしろから、「おい、待て、馬鹿野郎」と雑言をあびせかけたことが認められる。当審における原告上山の供述中右認定に反する部分は、前掲証人大樫恭助の証言に照して信用しない。

(ニ)  矢野部長が退出したあと、原告田中は、組合員大衆の興奮しているのに乗じ、右職場大会において、「会社には誠意がないから実力行使だ」と発言し、原告水口や前記石川らも「今日は実力行使の総退場だ」とこれに同調した。当日は造機部機械工場所属の組合員に対して定時退場の指令が組合執行部より出されていただけで、電機部の各職場には五月六日附の組合指令により二時間以上の残業拒否が指示されていたにとどまつていたので、一部組合員より、原告田中らの右定時総退場の発言に対して反対を唱えたが、かかる反対の発言は、右田中、水口、石川、奥田、平田、露本、石田をふくむ組合員大衆の「お前黙つとれ」というような、はげしい弥次に封殺されて沈黙するほかはなくなり、右田中、水口らの前記煽動的発言が、これに対する反論の封殺と相いまつて、組合員大衆の大勢を即時総退社へと誘導していつた。組合の小川副執行委員長も右職場大会に列席していたが、右の大勢を阻止する術もなく、組合執行部として総退社に責任を持つと言明するのやむなき有様であつた。かくして、電機部の全組合員は、組合の指令を無視し、会社の許可もないにかかわらず、同日午後二時四〇分頃から午後三時頃までの間に総退社するに至つた。

原告上山は、小川副執行委員長の右言明を信頼して、右総退場の行動に加わつたものである。

ところで、右の定時前総退場の行動が右職場大会の決議に基いて行われたとしても、それが違法な実力行使であることは、前記19事件に述べたと同じ理由によつて明かなところである。小川副執行委員長の「組合執行部として責任を持つ」との言明があつたにしても、事後において組合執行部より指令の出なかつたことが前掲証人大樫恭助の証言に徴して認められるし、さらに、仮りに、右言明の線に沿つて組合執行部が総退場の事後においてこれを黙認する態度に出たとしても、かかる言明ならびに黙認は、すでに対会社関係において発生した違法な実力行使の「違法性」を阻却するものではない。争議行為もその拠るべき準則に従つてなされなければならない(これらの点は、後に職場闘争を検討する個所で詳論する)。したがつて、かかる違法な実力行使を煽動した前記の原告田中、水口、石田、露本、元原告石川利次らの行為は、企業の運営を不法に阻害したものといわなければならない。

(ホ)  当審における原告田中、水口、石田、露本、元共同原告石川利次の各供述中以上(イ)ないし(ニ)の認定に反する部分は前掲の証拠に比して信用できないし、他に以上の認定を動かすに足る証拠はない。

(ヘ)  前記吊し上げ、ならびに一斉総退社は川造細胞自体が画策したとの被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

25  造船工作部次長ならびに工務課長吊し上げ事件(元原告西岡の関係)

当審における証人長谷川健二、松永和介、中江範親の各証言、当審証人中田俊一の証言により成立の認められる乙第七〇号証、前掲乙第四一号証の三と当審における元原告西岡の供述(一部)を綜合すると、次の事実を認定することができる。

造船工作部においては、昭和二五年五月一二日昼休み中から同部所属の組合員中約七〇〇名が第三現図工場で職場大会を開いていたが、同日午後一時半頃、元原告の西岡は元原告の青野日出男、職場委員の沖合善一、須藤実、非専従執行委員の庁泰助、笠原禎吉、訴外野田昂らとともに、造船工作部長の出席を求めるため、同部長室に行つた。しかし、同部長不在のため、同人らは、職場大会の代表と称して、同部次長長谷川健二に対し、右職場大会に出席するよう執拗に要求し、約一時間半にわたつて、同次長と押問答を重ねていた。その間、同次長は、就業時間中の右職場大会を解散するよう要求したが、同人らはこれを取り合わず造船工作部出身の組合の小川副執行委員長および専門部長の村上保男は右職場大会を解散させようと努めたが、その効はなかつた。そこで、長谷川次長はやむなく同日午後三時頃右職場大会に出席することに決した。その際、前記青野、西岡は、「えらいひまかけやがつた。おれ達は下で待つているから、出てこい」とくちぎたなく催促した。同次長は、約七〇〇名の組合員の坐つている正面に立たせられ、前記西岡らは、同次長に近い前面にいて、青野が「次長が代りにきた。どんどん質問してくれ」と皮切りに発言したのに続いて、青野、西岡らが主になつて、当時の賃上闘争につき、「次長、お前は一二、〇〇〇円の賃上をどう思う。八、〇〇〇円で食えると思つているのか」、「能率能率というが、賃上をどうしてくれるか」とまた、熔接工の貸渡し問題については、「おれ達を犬猫のように使うのか」などと発言し、組合員大衆の圧力を背景にして約三、四十分にわたつて、同次長を吊し上げた。以上の事態によつて、同日午後は完全に作業ができなかつた。

当審における元原告西岡の供述中右認定に反する部分は前掲各証拠と対比して信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

そうすると、前記の西岡らは、就業時間にくいこんだ職場大会を以後長時間にわたつて継続し、かつ、職制を集団的に吊し上げたことによつて、職場の秩序と規律をみだし、企業の運営を著しく阻害したものといわなければならない。

被告は、西岡らが右の際、造船工作部の島本工務課長をも吊し上げたと主張するけれども、これを認めるに足る的確な証拠はない。

しかしながら、前記造船工作部次長に対する吊し上げ行為が川造細胞自体によつて画策されたとの被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

26  ホツピングおよびプラノミラ機械作業妨害事件(原告神岡、角谷の関係)

当審証人田中俊一の証言により真正に成立したと認められる乙第七六号証、前掲乙第六七号証の一に当審における証人古河幸雄(第一回)の証言ならびに前記19事件に説示したところと当審における元共同原告小林時則の供述の一部ならびに弁論の全趣旨を考え合わせると、「ホツピング機械(前記18事件の機械説明参照)は、据付場所は電機部の工場の中の特別室にあつたが、造機工作部機械工場の関係の設備機械であつたから、同機械工場の作業員が操作し、同機械による歯切り作業に着手した以上は、その作業の性質上その運転を中止することができない関係から、労使間の慣行として、作業中の同機械はスト中でもこれを争議の対象から除外することになつていたものであつたが、昭和二五年五月一三日、原告神岡、角谷、元原告の小林時則、大西恵は前記19事件に説示した機械工場の定時前一斉総退社に際して、同機械の据付室に赴き、作業中の工員に対し退社するよう強要して、作業を妨害した」という事実を認めることができる。前掲原告神岡、元共同原告小林時則の各供述中右認定に反する部分は前掲各証拠に対比してにわかに信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

しかし、その他の日時における右原告らのホツピング機械作業妨害の事実については、これを認める証拠はなく、プラノミラ機械の作業妨害については、これを認める証拠は全然ない。

さらに、右認定のホツピング機械の作業妨害が川造細胞自体によつて画策されたとの被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

27  職員代表吊し上げ事件(原告谷口、矢田、角谷の関係)

当審における証人三木秀太郎、山本登、小沢憲治(第一回)の各証言、元共同原告宮崎伍郎の供述(一部)ならびに前記16事件以降の上叙説示を綜合すると、次の事実を認定することができる。

昭和二五年春の賃上闘争において、組合は、上叙のごとく、五月六日以降はほとんど全部の職場に対して定時後二時間以上の残業放棄を指令するとともに、重点的に個々の職場に対して定時退場を指令してきたが、造機工作部、電機部、造船工作部の各職場においては、組合の指令に基かない職場離脱、職場放棄、就業時間にくいこむ職場集会、職制の吊し上げ等の行為がひんぴんと行われ、組合執行部の無統制を暴露したばかりでなく、職場の現場は、一部過激分子に支配せられて無秩序にひとしい混乱に陥り、仕事が手につかない騒然たる空気がみなぎつてきた。特にその傾向は、五月一〇日頃から熾烈化してきた。これにつれて、造機工作部、造船工作部所属の組合員で直接現場に関係する職員層の間に、このような状態がつづけば、組合員の生活を破綻に導くのみならず、組合自体の分裂を来たす恐れもあることを憂慮して、次第に組合執行部の闘争方針に対する批判の声があらわれるに至り、この際思い切つた方法で現状を打開しようという機運が盛り上がつてきた。かくして、造機工作部においては、職員層の間でそれぞれ討議した結果、同部の職員の総意として、組合の実力行使の停止、平和的交渉の促進ならびに組合執行部の退陣を申し入れることを決し、同年五月一三日午後一時半過ぎ、三木秀太郎(工務課工務掛員)、高井、村側、名川、加福、竹森の五人が代表となつて、右の趣旨を記載した決議文を携行して組合事務所に行き、仙波執行委員長、小川副執行委員長らに対し、右決議文を朗読して手渡した。造船工作部所属の組合員である職員層の間でも、造機工作部の右動きに呼応して、組合執行部に対し、右同様の申入れを行うことを決し、同日午後二時頃、山本登(工務課工程掛員で当時非専従の執行委員であつた)、松永、山田の三人が同部の職員を代表して、右趣旨の決議文を携行して組合事務所に行き、仙波執行委員長らに対し、決議文を読みあげて手渡した。

これを知つた組合執行部の専門部長の原告矢田、元原告の村上文男、宮崎伍郎をはじめ、造船工作部所属の元原告西岡元原告の青野日出男、須藤実、庁泰助、造機工作部所属の原告谷口、角谷、元原告の小林時則、松尾正男ら川造細胞員が大勢を占める約二、三十人が組合事務所に殺倒し、「こいつらは会社の犬だ」「水さしにきた」「勝手な行動するな」「殴つてしまえ」「殺してしまえ」など、くちぐちにののしり、前記職員らの胸ぐらをつかんだり、蹴つたり、額をつついたりし、右九名の職員を三階の組合事務所の窓際に押しつけ、「こんな裏切り者は窓から突きおとしてしまえ」などという暴言を吐いた。仙波、小川正副委員長は「この人達も同じ組合員だ。この人達のいうことをよく聞こうじやないか。静かにしてくれ」と右連中の言動を制しようとしたが、その効なく、右の連中は約三、四十分間にわたつて右職員を吊し上げた。さらに、右の者らは、「この連中をさらし首にする」「裏切り者はみせしめにする」などいつて、右職員九名を取り巻きながら階段を降り、同建物一階入口附近の石だたみに三列に並ばせ、折柄総退場の途中で待機していた電機部所属の組合員約二、三百人の面前で、右の者らは、大衆に向かつて、「こいつが裏切り者だ。二度とこういうことのないように、皆さんの前で決議文を読ませて、謝まらせるから、皆さんきいておつてくれ」といつて、造機の高井、造船の松永に各決議文を読ませて、大衆の前で謝まらせ、「二度とこういうことは致しません」と誓わしめ、さらに強要して右決議文を大衆の面前で焼却せしめた。

当審における原告矢田、谷口、角谷、元共同原告小林時則、宮崎伍郎(第二回)の各供述中右認定に反する部分は前掲各証拠に照して信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

原告は前記職員は職制に連なる人々であり、闘争中における前記の行動が、組織上の手続を経ないところの、組合民主主義を裏切る行動として強く批判されるのは当然であると主張する。しかしながら、原告の右所論は、上叙の16以降の各事件にあらわれた原告の行動が組合の方針とする職場闘争として正当な組合活動の領域に属することを根底とするものであるが、かかる職場闘争戦術は組合の採用していたものでないこと後記認定のとおりであつて、上叙の事件にみられる原告の行動が組合民主主義を守つた行動とは認め難いのである。のみならず、成立に争のない乙第四一号証の四(川崎造船分会規約)によれば、分会所属の組合員は、分会の各機関について自由に批判し(七条二号)、分会の各機関に意見を具申する(七条四号)権利を有するものとされている。したがつて、たとえ争議態勢下の、普通ならば組合員の一層の団結が必要とされる時期にあつても、前記のように組合の指令を無視した職場闘争がひん発して職場の混乱を招き、組合執行部の無統制が暴露される状況のもとにおいて、同じく組合員である職員が事態を憂慮して分会の執行委員長に対し、組合執行部の闘争方針を批判し、かつ、組合活動としてとるべき方法を具申することは、むしろ当然の成り行きであり、分会の規約上も許されるところといわなければならない。もつとも、当審における証人塙正二、久保倉良雄、小沢憲治(第一回)の各証言および前掲乙第九号証の一、二に徴すれば、造機、造船各部の部課長をのぞいた各職員が職場の工員と同様組合員である半面、掛長又は掛員として、職場の工員に対して職制の地位に立つことがうかがわれるにしても、会社側が職制を利用して上叙の行動をとらしめたことを認める証拠はなく、前掲証人山本登、三木秀太郎の各証言によつても、右証人らをふくむ前記職員がかかる職制的意識のみによつて行動したものとは認め難いのである。むしろ、右各証言に徴してうかがい知られるように、前記各部の組合員である職員層においては、社運をかけたフアンマノー号の竣工等を近く控えて、上叙のごとき組合指令違反の無統制な混乱状態が継続すれば、会社も組合員自身の生活も破綻にひんするという心理に駆られていたのであつて、その心理の裡には、一面、企業内組合(分会自体は一つの企業内組合である)の宿命ともいうべき、会社あつての組合という意識が働いていることを否定し難いにしても、それは必ずしも企業内組合における組合員としての立場を否定するものではないし、他面、上叙のごとく、組合の指令さえ守られないような混乱状態を脱却して組合自体の分裂の危機を回避するという組合員意識の強く働いていることも見逃しえない。以上の次第で、前記職員の決議文提出を反民主的、反組合的行動として論難し排撃し去ることはできないといわなければならないから、この点に関する原告の右主張は理由がない。

したがつて、前記の原告矢田、谷口、角谷らが主導して前記職員に対し、裏切り者よばわりして上叙のごとく暴行し、大衆の面前で謝罪させ決議文の焼却を強要するなどのリンチを加えたのは、違法不当の行為というほかないのであつて、かかる集団的リンチは、単に組合の内部問題にとどまらず、従業員としての社内秩序をみだすものといわなければならない。

しかし、右行為が川造細胞自体によつて画策されたとの被告の主張については、これを認めるに足る証拠はない。

28  証拠写真破棄強要事件(原告矢田、谷口の関係)

当審における証人宮本芳晴(第三回)、寺岡二郎の各証言、右証人寺岡二郎の証言により成立の認められる乙第七五号証と当審における原告矢田、谷口の各供述ならびに前記19、20、21、24の各事件で説示したところを綜合すると、「昭和二五年五月一三日午後は、造機工作部の機械、製罐、機装および内火工場所属の組合員ならびに電機部所属の組合員が相次いで総退場したのであるが、同日午後二時二〇分頃、右内火工場の組合員らがデモ行進して正門を出たところを、保安課員が撮影したところ、これを知つた原告谷口、矢田ほか一名は、同日午後三時二〇分頃保安課において保安課長寺岡二郎と面談し、折柄同課事務室の外に待機する総退場の組合員約三五〇人の大衆の圧力を背景にして、「写真を撮つた保安課員を大衆の前に出せ」「写真機を渡せ」「フイルムを出せ」と強硬に談判した。組合員大衆の間には、前記27事件の職員代表に対する吊し上げの行われた直後でもあつたから、一層険悪な空気がただようていた。かくして、右矢田、谷口らは同課長をして組合員大衆の前で右フイルムを焼却するのやむなきに至らしめた」という事実を認めることができる。

ところで、右総退場が違法な企業阻害行為であることは、上叙のとおりであるから、保安課員が右総退場の一場面を撮影して証拠取材しておくことは、正当な職務執行であり、したがつて、原告矢田、谷口が保安課長にフイルムの焼却を強要した行為は、会社の業務運営を阻害したものといわなければならない。

29  造機工作部長室坐り込み、面会強要事件(原告久保、神岡、角谷、仲田、谷口、守谷の関係)

当審における証人古河幸雄(第二回)、辻井誉、中江範親の各証言、右古河証人の証言により成立の認められる乙第六八号証の一、二に当審における原告久保の供述(一部)ならびに弁論の全趣旨を綜合すると、次の事実を認定することができる。

昭和二五年五月一五日当時、造機工作部機装工場においては、フアンマノー号等の機装工事のため作業が繁忙を極めていたが、同工場出身の組合専従執行委員の原告久保および造機出身の組合専従執行委員の元原告村上文男が主導して、同日午前九時頃、就業時間中にもかかわらず、職場集会を開き、第一機装掛長の辻井誉に出席を求めたうえ、久保が組合員を誘導して同掛長に対し、汚れ作業手当、危険作業手当の増額を要求し、次いで久保が部長に交渉しようと提案して、同日午前九時半頃、久保、村上が右集会参加者七、八十名の先頭に立ち(久保、村上が本件において先頭に立つて行動したことは、原告久保の認めるところである)、造機工作部工具工場の原告仲田もこれに加わり、右辻井掛長を擁して喚声をあげながら造機部長室に至り、組合員をして同部長室に坐り込ませ、久保が主に発言して、同日午前一〇時一〇分頃まで約四〇分間にわたつて、同部工務課長古河幸雄に対し、前記各手当の増額即時実施について集団的に交渉した。このようにして、久保、村上は、組合の指令に基くことなく、就業時間中約一時間一〇分の間機装工場の全組合員をして無断で職場を離脱させ、原告仲田もその間無断職場離脱をしたものである。(職場闘争の点については、後に認定する。)

当審における原告久保、仲田の各供述中右認定に反する部分は前掲各証拠に照して信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

そうすると、前記久保、村上、仲田は、職場の秩序と規律をみだし、企業の運営を阻害したものといわなければならない。

被告は、原告谷口、神岡、角谷、守谷も右職場集会および集団交渉に参加したと主張する。しかし、原告谷口についていえば、同原告は、当審において、右集団交渉に参加したことを自供するけれども、右供述は、前掲証人辻井誉の証言および当審における原告久保の供述に照すと、記憶違いであることがうかがわれるから、右供述を被告主張事実の認定資料に供しえないし、右供述をのぞいて他に原告谷口の右参加を認めるに足る証拠はなく、また、谷口以外の原告に関しては、同人らの右参加を認めるに足る証拠は全然ない。

なお、前記認定の行動が川造細胞によつて画策されたとの被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

30  修繕部長吊し上げ事件

当審証人奥野正三の証言と当審証人中田俊一の証言により成立の認められる乙第七四号証を綜合すれば、「被告会社は船主川崎汽船より受注にかかる雪川丸の修繕工事が遅延したため、船主の要請により昭和二五年五月一四日同船を船主に引渡したこと、右工事遅延が組合の指令にもとづく二時間以上の残業拒否によるものであるにかかわらず、元原告の佐藤満、本清甚助、小山竹二が同月一六日午後の就業時間内に修繕部長室に行き、同部長に対し、「雪川丸を出して修繕工事をなくしたのは、会社の責任だ。残業できなくなつた分を補償せよ」などと約三〇分間にわたつて、理不尽な抗議をした」という事実が認められるけれども(当審における元共同原告小山竹二の供述中右認定に反する部分は信用しない)、右行為が川造細胞自体によつて画策されたとの被告の主張については、これを確認するに足る証拠はない。

31  大金属オルグ侵入事件(原告矢田の関係)

当審における証人宮本芳晴(第二回)、小谷政一、山本登、三木秀太郎の各証言、原告矢田本人の供述(一部)と当審証人塚本碩春(第三回)の証言により成立の認められる乙第七八号証の一、二、当審証人中江範親の証言により成立の認められる乙第一七号証の一と七、原告矢田のバツジであつたことについて争のない甲第二〇号証を綜合すると、次の事実を認定することができる。

前記28の職員代表吊し上げ事件後の同年五月一五日頃には、春季賃上闘争に対する戦術転換を行つて平和交渉方式への移行を要請する機運が被告会社の全職員層の間に高まり、この戦術転換問題が組合の機関に正式に取り上げられる情勢に立ち至つた。そこで、原告矢田および元原告村上文男は同月一六日正午頃大金属から来たオルグ三名を被告会社の工場に誘導して組合員に賃上闘争の継続を訴えようとした。ところで、当時被告会社は賠償工場に指定せられ、占領軍関係の船舶の修理工場もあつた関係から、米軍代表部の要請に基き、作業に関係のない者がみだりに作業現場に立ち入らないようにするため、会社構内に封鎖線を設け、そこに保安課所属の警備員を配置し、特別に許可した者のほか、外来者の工場内立入りを禁止していた。したがつて、外来者が工場現場に行くときは、右警備員に行先、来意を告げ、宛先の許可を得たうえ、警備員から通門証(外来者が正門を入る際、交付を受けているもの)と引換えに、外来者用のバツジの交付を受けなければならなかつた。組合関係の外来者の場合でも、組合から労働課に申し入れてその許可を得るほかは、前同様の手続をふむことが必要であつた。また、一般従業員は、会社構内においては、一連番号の従業員バツジを着用することになつており、他人にこれを貸与することは勿論禁止されていた。しかるに、矢田および村上は、前記オルグ三名を工場内へ誘導するにつき、前記封鎖線通過の正規の許可手続をふましめなかつたばかりでなく、会社従業員専用のバツジを貸与して不法に右オルグ三名を封鎖線内に立入らせた。

当審における原告矢田の供述中右認定に反する部分は前掲各証拠に照して信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

そうすると、右矢田、村上の行為が社内規律をみだすものであることは、明かである。

しかし、右行為が川造細胞自体によつて画策されたとの被告の主張については、これを認むべき証拠はない。

32  電機部職場会合引き延ばし事件(原告田中、水口、石田、上山の関係)

当審における証人大樫恭助(一部)、馬川時夫、塚本碩春(第三回)、山本登、三木秀太郎の各証言、前掲乙第四一号証の三、第六七号証の二の二(指令一四号)、第七一号証(一部)、第七八号証の二、当審証人中田俊一の証言により成立の認められる乙第七七号証の一、右大樫証人の証言および弁論の全趣旨に徴して真正に成立したものと認められる乙第七九号証と当審における原告田中、石田、水口、上山、元共同原告石川利次の各供述を綜合すると、次の事実を認定することができる。

昭和二五年五月一七日、電機部においては、組合執行部の指示に基いて、昼休みの午後〇時二〇分頃から同部所属の組合員のほとんど全員約八〇〇名が集合し、非専従執行委員の二木勝正議長が司会して、職場大会が開かれ、午後の就業時間に約三〇分くいこんだ同日午後一時二〇分頃同大会は解散した。ところで、同月一三日造機、造船各部の職員層より組合執行部に対して、春季賃上闘争における実力行使を撤回して平和交渉方式に転換すべきことを要請したのを契機として、同月一五日頃には、会社の全職員層による職場大会においても、右戦術転換が要望されるに至り、次いで、組合の執行委員会においても、同月一六日および一七日午前の二回にわたつてこの問題が取り上げられ、右戦術転換の方針が採択され、同月一七日午後一時に予定される組合の委員会において、右戦術転換に関する組合の基本方針を討議決定することになつていた。したがつて、右一七日の昼休みに開かれた電機部の職場大会においては、二木議長より戦術転換に関する以上のごとき経過説明がなされた後、所属組合員のこの問題に対する意見の開陳と討論が求められたのであつた。そこで、原告田中、水口、元原告の石川利次、平田平、奥田昭六の川造細胞員が相次いで右戦術転換に反対の意見を述べた。これに対し、当時電機部の事務掛長をしていた馬川時夫が組合員として午後〇時五〇分(午後の始業時刻)頃よりマイクの前に立つて、組合執行部のとつてきた措置行動を批判し、職員層が組合および会社に対して要求書ならびに意見書を提出した経過を報告し、戦術転換に賛成の意見を述べた。馬川掛長の意見開陳に対する前記田中らの再反論がなされたが、それは、問題と段階の重要性ならびに討論の性質に照せば、自然の成り行きといわなければならず、しかも、馬川掛長の意見開陳当時すでに就業時間にくいこんでいたから、田中らの再反論が就業時間内であつたのも致し方のないところであつた。原告上山がどんな発言をしたかは、証拠上明かでない。前記田中らは、右職場大会において、戦術転換の賛否に関する採決を迫つたが、二木議長にしりぞけられ、同議長は午後一時二〇分頃職場大会の解散を宣し、同大会はこれによつて終了した。

前掲証人大樫恭助の証言、乙第七一号証の記載中、右認定に反する部分は前掲各証拠と対比して信用し難く、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

被告は、右職場大会が就業時間にくいこんだのは、前記田中らの策動によるものであると主張するけれども、右に認定した事実関係に徴すれば、田中らが特に策動して職場大会を午後の就業時間にくいこませたものとみることは相当でなく、結局被告の右主張を認めるに由ないといわなければならない。右職場大会の就業時間内くいこみが川造細胞自体によつて画策されたとの被告の主張に至つては、さらさらこれを認めるに由ないところである。

33  外部団体歓迎集団職場離脱事件(原告中村、矢田、西村、守谷、仲田の関係)

当審における証人宮本芳晴(第三回)、岡田繞夫、水沢憲治(第二回)、塚本碩春(第二、三回)、仙波佐市の各証言、原告中村、矢田各本人の供述(いずれも一部)と右宮本証人の証言により成立の認められる乙第八二号証の一、右塚本証人(第三回)の証言により成立の認められる乙第八二号証の二、第八二号証の四の二ないし五、当審証人坂口干雄の証言により成立の認められる乙第八二号証の三、前掲乙第七八号証の二、第八二号証の四の一、第六七号証の二の二(指令一四号)、甲第一三号証ならびに弁論の全趣旨を綜合すると、次の事実を認定することができる。

組合は前記五月一七日午後の委員会において、戦術転換に関して討議した結果、同月六日以降発していた二時間以上の残業放棄の指令第一四号を撤回してあらたに団体交渉をもつこと、および、組合が闘争態勢を解いて平和的交渉に移行すべきか否かという組合の基本方針については同月二〇日の組合員の全体投票によつて決することを、圧倒的多数をもつて可決した。

かかる川造分会の情勢に対して呼びかけを行うべく、同月二〇日、日共兵庫県委員会、大谷重工、全神戸自由労組などの共産系外部団体の人達約一〇〇名は朝八時前から会社正門前に集結し、通勤してくる川造分会の組合員に闘争継続を呼びかけていたが、午前八時の被告会社の始業サイレンが鳴つた後、川造分会書記長の原告中村もこれらの連中に加わつて、正門の警備員との間に、正門内に入れろ、入れないの押し問答をくりかえしているうち、その中の約五〇名は午前八時一五分頃警備員の制止を排除して構内に押し入つた。右の中村や川造分会の専従執行委員の原告矢田は、右外部団体の動きに呼応して、川造分会の現場組合員をして歓迎デモを行わせた。すなわち、造機工作部においては、原告矢田をはじめ原告仲田、守谷、西村、元原告村上文男らが主になつて現場組合員に働きかけ、約百数十名の組合員を動員して外部団体を出迎えるため正門前に向かつてデモを行わしめ、又造船工作部においても、元原告の西岡良太郎、石野市太郎、青野日出男、沖合善一、須藤実が組合員に働きかけ、数十名の組合員をして右同様正門に向かつて歓迎デモを行わしめた。正門附近で合流したこれら約二〇〇名の組合員は、外部団体から断乎闘争を継続するよう激励演説を受けたあと、再びデモを行い、気勢をあげた。組合の仙波執行委員長はこれに対しデモをやめるよう説いたが、原告中村は「おれが責任をもつから大いにやれ」とデモの大衆を鼓舞する有様であつた。かくして、前記組合員達は就業時間中にもかかわらず、職場を放棄して午前九時頃まで組合の指令に基かないデモを敢行し、右の中村、矢田らは右デモを指揮して参加組合員の職場放棄を主導した。

当審における原告中村、仲田、守谷、西村、元共同原告西岡の各供述中右認定に反する部分は信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

そうすると、原告矢田、中村をはじめ原告仲田、西村、守谷の行為は、職場の秩序と規律をみだしたことが、明かである。

しかし、右行為は川造細胞自体が画策したとの被告の主張については、これを認めるに足る証拠はない。

34  造機工作部職場会合引き延ばし事件(原告谷口、神岡、守谷の関係)

当審証人下堂園辰雄の証言により成立の認められる乙第八六号証によれば、造機工作部においては、昭和二五年七月二九日午後〇時三〇分頃から職場大会が開かれ、同大会が午後の始業時間に約一時間くいこんだことが認められる。ところで、右乙第八六号証に、右証人下堂園辰雄、当審証人中田俊一の各証言により成立の認められる乙第八五号証、前掲乙第四一号証の三、甲第一三号証ならびに上叙説示の賃上闘争の経過と当審における原告谷口、神岡、守谷、元共同原告宮崎伍郎の各供述を考え合わせると、「組合は同年五月二〇日の全員投票の結果、春季賃上闘争に対する闘争態勢を解いて平和交渉に戦術転換することになり、仙波執行委員長ら組合三役および組合専従の各専門部長は責を負つて総辞職したが、その後、古田槌生を執行委員長とする新執行部により、会社との間に、前記賃上要求について団体交渉を重ねた結果、祝金をふくむ一時金二、五〇〇円(支給日、六月二四日に手取り一、〇〇〇円、七月二〇日に税込み一、〇〇〇円、八月五日に手取り五〇〇円の三回払い)を獲得したにとどまり、組合の要求にかかる一二、〇〇〇円の賃上要求は終に会社に容れられなかつた。そこで、右七月二九日の職場大会は、一二、〇〇〇円の賃上要求について「今後如何に闘いをおしすすめるべきか」を討議するために、組合執行部の指示に基いて開かれたものであつて、春季賃上に関する一般情勢および右のごとき経過報告ならびに組合執行部の今後の闘争方針についての説明がなされ、これらの諸問題をめぐつて討論がなされたものである。組合の前記賃上要求が平和交渉方式によつても、組合の敗北に帰したと同様であつたから、右職場大会においては、組合の賃上要求に対する今後の闘いのすすめ方について大いに論議が交わされるのも、当然の成り行きであつた。右職場大会は、製罐工場から出ている非専従執行委員の吉川斉が議長として司会し、組合執行部からは副執行委員長の鳥井豊(前記18事件の(イ)参照)、文化部長の門野一男(以上三名は本件整理を受けていない人)、組織部長の元原告宮崎伍郎も列席し、造機工作部所属の組合員約四〇〇名が出席して行われ、原告谷口、神岡、守谷、元原告松尾正男も組合員として参加していた」という事実を認めることができる。

しかしながら、右職場大会における討論の経過内容を詳かにする資料は皆無に均しく、右職場大会がいかなる事情経過によつて約一時間も就業時間にくいこんだのか、この点に対して前記吉川議長がいかに司会し、列席の鳥井副執行委員長らがいかなる措置に出たかについては、これを明かにする資料は何もない。もつとも、右乙第八六号証には、前記谷口、神岡、守谷、松尾、宮崎の発言内容として「職場大会は労働者の権利であるから就業時間と否とを考える必要はない」旨の記載があるけれども、仮りにかかる発言がなされたとしても、かかる発言自体からして直ちに右の者らが策動して前記職場大会を就業時間内にくいこませたとするには足りない。むしろ、右職場大会が午後〇時五〇分の午後の始業時刻にくいこむ当時における大会司会者の議事進行に対する態度こそが重要というべきであるが、大会司会者たる吉川議長がかかる発言に対していかに対処したか、さらに、前記谷口らが司会者の方針を押し切つてまで大会を続行させる行動に出たかについては、これを確認するに足る何等の証拠もない。

したがつて、前記谷口、神岡、守谷らが煽動して、右職場大会を午後の就業時間にくいこませ、約一時間にわたつて従業員に職場放棄をなさしめたという被告の主張については、結局これを認めるに由ないといわなければならない。川造細胞自体が右事態を惹起せしめたとの被告の主張に至つては、さらさらこれを認めるに由ないといわなければならない。

(以上の認定の要約)

以上1から34までの被告主張の各事件(ただし、4をのぞく)につき逐一認定してきたところを総括し、かつ、これを本件解雇扱いを受ける原告と辞職願を提出した原告、共産党員とされる原告と同調者とされる原告の区分に従つて摘録すれば、次のとおりである。

(1) 被告主張の右不法集団事件中、1事件、2事件中の原告水口に関する部分、3事件、5事件、7事件、8事件中の原告谷口に関する部分、12事件中の原告矢田に関する部分、13事件中の原告久保に関する部分、16事件、17事件中の五月一一日に関する部分、18事件中の原告仲田、西村に関する午後二時二〇分頃からの面会強要ならびに集団総退社の煽動の部分、21事件のうち内火工場の一斉総退社に関する部分、25事件中の工務課長吊し上げに関する部分、26事件中のプラノミラ機械作業妨害事件および五月一三日以外の日時におけるホツピング機械作業妨害に関する部分、29事件中の原告谷口、神岡、角谷、守谷に関する部分、30、32、34各事件については、いずれも被告の主張を認めるに由ない。

(2) 解雇扱いを受ける共産党員である原告の関与事件を原告別に摘録すれば、次のとおりである。

橋本広彦

6事件

中村隆三

12事件における就業時間内デモの助勢、33事件

谷口清治

13、14、15、18、20、23、27、28各事件

仲田俊明

12、13、15各事件、18事件の午前中の集団交渉とその間における職場離脱、29、33各事件

田中利治

2、8、9、10、11、15、22、23、24各事件

(3) 辞職願を提出した共産党員である原告の関与事件を原告別に摘録すれば、次のとおりである。

角谷一雄

13、15、18、19、23各事件、26事件の五月一三日におけるホツピング機械作業妨害に関する部分、27事件

矢田正男

14、15、17各事件、21事件中機装工場の総退社に関する部分、27、28、31、33各事件

守谷米松

12、13、15、18、20、33各事件

久保春雄

12、14、15、17各事件、21事件中機装工場の総退社に関する部分、29事件

水口保

8、9、10、15、22、23、24各事件

石田好春

2、8、15、24各事件

神岡三男

13、15、18、19各事件、26事件中五月一三日におけるホツピング機械作業妨害に関する部分

露本忠一

10、15、24各事件

篠原正一

15事件

(4) 辞職願を提出し、被告から同調者といわれる原告の関与した事件を原告別に摘録すれば、次のとおりである。

西村忠

12、13、15各事件、18事件中午前中の集団交渉とその間における職場離脱に関する部分、33事件

長谷川正道

10、15各事件の関係集団に加わつていた部分

上山喬一

15、24各事件の関係集団に加わつていた部分

(5) 当裁判所の認定にかかる右(2)ないし(4)掲記の各原告の関与各事件について、それらの事件が川造細胞自体によつて主体的に画策されたことの認められないことは、すでに認定したとおりであり、右各事件(上叙1ないし34の事件から4および28の事件ならびに前記(1)記載の事件をのぞいたもの)ごとに認定されていない他の原告(ただし、同調者といわれる赤田、西村、長谷川、上山をのぞく)がそれらの事件の背後にあつて陰に陽に直接間接これに関与したことを確認するに足る証拠もないから、当裁判所が右各事件に関与したと認定した原告以外の原告(右四名をのぞく)は、直接関与したものと認定された事件以外の事件につき、なんらの責をも負う関係にないといわなければならない。

七、右六、に認定した各集団的行動は、日本共産党の党活動としての政治的活動そのものであつて、労働組合活動ではないとの被告の主張について。

本件原告中、赤田、西村、長谷川、上山、橋本、守谷をのぞく他の原告が川造細胞の構成員として登録せられた共産党員であることは、成立に争のない乙第三四号証の一により、(ただし、その大部分についてはすでに認定したところである。前記15事件参照)、原告橋本が全造船書記局細胞の構成員として登録せられた共産党員であることは、成立に争のない乙第三四号証の三によりそれぞれ明かであり、原告守谷が共産党員であることは、すでに(前記15事件参照)認定したところである。この点に前記六、認定の各事実関係ならびに当審における原告谷口、元共同原告宮崎伍郎(第一回)の各供述と当審証人塚本碩春(第三回)の証言により真正に成立したものと推認される乙第二三号証、第二四号証の二、三、当審証人中江範親の証言により真正に成立したものと推認される乙第二六号証の一、二、五、第九〇、九七号証、弁論の全趣旨により当裁判所が真正に成立したものと認める乙第二七号証の一ないし三、成立に争のない乙第八七号証の一、二、前掲乙第八二号証の四の一、第八三号証の一〇、当審における証人中江範親、三木秀太郎の各証言(ことに右三木証言にみられる元原告村上文男の発言内容)を綜合すれば、日本共産党が川造細胞のごとき経営細胞において、経済闘争を政治闘争へ発展せしめることを基本的な行動綱領とし、その実践過程においては、企業における「労働組合運動」「職場闘争」を拠点としながらその企業の背後に控えている独占資本等の諸権力に対する広汎な人民闘争を志向していたこと、被告会社が日共経営細胞の拠点工場と目され、川造細胞が被告会社における経営細胞であること、前記六、に認定した集団的行動は、その認定のごとく、ほとんど川造細胞員が推進力となり、組合員の先頭に立つて行われ、ことに昭和二五年の春季賃上闘争当時においては当時の集団的行動に関与した川造細胞員の中に該賃上闘争を通じて政治的権力闘争への発展を志向する趣旨の発言をなすものがあつたことが認められる。しかしながら、前記六に認定した各集団的行動を目して、「労働組合運動」「職場闘争」としての経済闘争たる性格を全く否定して政治的活動につきるとの被告の主張については、本件にあらわれた全証拠をもつてしても、これを認めるに足りない。したがつて、被告のこの点に関する主張は理由がない。

八、前記六に認定した集団的行動は、職場活動ないし職場闘争として、適法な組合活動であるとの原告の主張について。

原告は、前記六認定の集団的行動は、組合が運動方針として採用していた職場活動ないし職場闘争であつて、適法な組合活動の範疇に属すると主張する。ところで、右認定にかかる集団的行動は、職制又は組合員に対する吊し上げないしリンチ、就業時間内の職場集会、就業時間中の職場離脱又は集団的な職場放棄、集団的大衆交渉に類型化されるのであるが、職制等に対する吊し上げないしリンチ(前記六、の2、6、9、10、17、23、24、27、28事件の認定参照)のごときは、基本的人権に対する侵害として、職場闘争たると否とにかかわりなく、違法というべきであるから、その他の行動の面について、以下判断する。

当審における証人大宮宗三郎、仙波佐市、古田槌生、藤本寿雄、杉本登、山本登、下内剛、佐伯辰一の各証言に前掲甲第一三号証、乙第四一号証の三、四、第九号証の一、二、第六五号証の二、第六六号証の四、第六七号証の二の一、二、同号証の三、第一〇三号証の一ないし三ならびに前記七、に認定した各事実関係を考え合わせると、次の事実を認定することができる。全造船川崎造船分会(以前は川崎支部と称していた)は被告会社の本社工場(旧名称、艦船工場)の従業員約七、〇〇〇名を構成員として固有の規約をもつ独立の組合であつて、規約上の機関として大会、委員会、執行委員会および部長会議を設けていた。大会は組合員全体で構成する最高決議機関で、基本方針の決定等をその決議事項とし、大会の手続をふむことができないときは、委員会の承認を経て全組合員の無記名投票をもつて大会の決議にかえることができるものとされ、同盟罷業を開始するときは、全組合員の直接無記名投票によつて決定するものとされていた。委員会は、工場等の職場ごとに組合員三五名に一名の割合で選出される委員(職場委員又は工場委員といわれていた)と役員で構成し、大会に次ぐ決議機関として、大会の決議に従い、大会から次の大会までの間の活動方針を決定するものとし、組合の全体に関係のある基本的労働条件の変更、労働協約ならびに就業規則に関する事項等は、委員会の決議を必要としていた。役員には、全組合員によつて選出される組合三役(正、副執行委員長、書記長)および会計監査と職場ごとに組合員一五〇名に一名の割合で選出される執行委員とがあり、執行委員会は、組合三役と執行委員により構成せられ、大会と委員会の決定に従つて組合の業務を執行する機関であつた。委員会は執行委員の中から専門部(組織部、情報宣伝部、教育出版部、渉外部など合計一〇部あつた)の部長を選出し、組合の日常業務中簡易なもの又は極めて緊急を要するものは、組合三役と専門部長をもつて構成する部長会議によつて決定処理することができるものとされ、各専門部の活動は、執行委員会の方針に従つて部長が指導することが定められていた。組合三役、専門部長は、組合業務に専従することが労使間で認められ、部長以外の執行委員は非専従であつた。前記越年闘争および賃上闘争当時、委員は総数約二〇〇名、執行委員は総数約五〇名であり、委員会は月に一回程度、執行委員会は月に二、三回程度開かれていたにすぎなかつた。したがつて、組合三役および専門部長によつて構成される部長会議(これをいわゆる組合執行部という)がもつぱら会社側との団体交渉を担当し、又闘争時においては、組合員の全体投票による決定に基いてスト権行使の委譲を受け、組合員に対する争議行為の指令を発するのが、常態であつた。部長会議の事務処理が委員会、執行委員会の決定に反し得ないことは勿論である。

さらに、分会の規約に明文はないが、組合員の所属部門には、造船、造機、電機、修繕等の現場部門と管理部門があり、各部門には各種の工場および事務部門がふくまれていたので、部委員会又は工場委員会といわれるものが慣行として存在し、これらの委員会はその部又は工場の職場委員と非専従の執行委員によつて構成され、それぞれ議長を設け、職場大会の開催、下部組合員の要望の執行部への伝達、執行部の決定の下部組合員への連絡に当つていた。したがつて、職場大会や部委員会又は工場委員会は、通常、独自の決議執行機関ではなかつたのであつて、組合の闘争時において仮りにこれらの委員会が職場闘争委員会又は部闘争委員会と呼ばれることがあつたとしても、その構成、任務に変りはなかつた。

ところで、従来の組合活動が闘争時においても兎角幹部任せに陥つたり、下部組合員より遊離した幹部独走の弊があつたので、昭和二四年の越年闘争の頃から次第に反省が加えられ、組合の右越年資金要求、昭和二五年の春季賃上要求に際しては、組合の要求が組合員の自分自身の要求であることを自覚して団結を強化し、各職場から盛り上がる力をもつて組合執行部による団体交渉を支援するとともに、会社側に圧力をかけることが、組合の活動方針として取り上げられた。しかし、そのために組合執行部がとつた手段としては、前記越年資金闘争にあつては、昼休みの休憩時間を利用しての職場大会が限度であつて、スト権さえ確立されていなかつたし、また、前記賃上闘争にあつては、スト権が確立されてその指示権が執行部に委譲されたとはいえ、昼休みの休憩時間を利用しての職場大会、重点的工場を指定しての定時退場、二時間以上の残業放棄(これは五月六日以降はほとんど全工場に指示された)が限度であつた。これらの組合活動の中、争議行為に関するものについては、組合執行部より各職場の職場委員を経て下部組合員にその都度伝達される一方、会社側には組合執行部より事前連絡の措置がとられていた。

したがつて、前記越年資金闘争および春季賃上闘争を通じて、造機、電機、造船その他の各部および各部所属の職場は、組合規約上は勿論、大会の決議もしくは組合員の全体投票によつても、はたまた、組合執行部の決定によつても、会社側と団体交渉すべき交渉権限を委譲されてはいなかつたし、争議行為の行使権限が包括的にも個別的にも委譲されたことはなかつたのである。この点に関し、当審証人仙波佐市の証言および元共同原告矢野笹雄(第一回)の供述により成立の認められる甲第八号証、第九号証の一と成立に争のない甲第二八号証(昭和二五年三月一三日付分会機関紙の「舵」)とを比較検討し、前掲各証拠ならびに前記六に認定した事実関係、ことに昭和二五年春季賃上闘争の経過の概観および同闘争においてスト権が組合員の全体投票によつて確立されたのが同年四月一四日頃である事実を綜合すれば、次のとおり認定することができる。

甲第八号証は組合書記局が印刷した「昭和二四年越年闘争を如何に闘うか」と題する書面であつて、それは、その書面の中にも書かれているように、右越年資金要求に際していかに闘うかについての組合の部長会議の討論内容を記載したものと認められるが、右越年資金要求に際しては終始スト権の確立はなく、組合においては、時間の関係から団体交渉一本ですすむ基本方針をたてていたので、右甲第八号証に記載されているような職場闘争を組合の方針として打ち出すには至つていなかつたことがうかがわれる。

また、昭和二五年春の賃上闘争当時においては、その闘いのすすめ方について、甲第九号証の一(分会発行名義の「賃上闘争は如何に闘うか」と題する書面)が組合の部長会議や委員会において論議され、甲第九号証の一の内容の一部が甲第二八号証の昭和二五年三月一三日付組合機関紙「舵」に掲載せられて、全組合員に配付された。ところで、右甲第二八号証には、「われわれはどうして一万二千円を闘いとるか」について、組合員自身の自覚を促したうえ、「工場で常に委員会を開きましよう。この基本的な組合員の闘い方の態度の上にたつて各工場の委員と執行委員は常に工場の委員会を開き、組合員の意見をとりまとめて工場毎の決議と執行をして行かなければならない。特に一、歩増しが下つていないか、査定が民主的に行われているか、二、外註に不正はないか、三、工場設備の悪いところはないか(機械工具など、設備とストーヴ、水道、洗面所、窓ガラス、雨もりなど)、四、危険なところはないか、基準法は守られているか(安全と衛生)五、職制より弾圧的な指示が出されていないか、又誰が出したか、等の不平不満は必ずこれをとり上げ、直ちに掛長、課長に対して交渉を進め、一つ一つ解決をつけて行かなければならない」との記載がある。しかし、ここに特記されている事項は主として組合員のいわゆる権利紛争に関するものであつて、それらの事項について工場委員会なり、職場所属の組合員が当該職場の職制と交渉し得ることは、事柄の性質上当然であつて、組合が闘争態勢にあるか否かにかかわらない。闘争時において、かかる権利紛争に関する職場闘争が特に強調されるのは、これによつて職制の分裂策動を排し、職場における組合員の自覚と団結強化に役立たしめる点にあることは、甲第二八号証に徴しても明かである。そして、甲第九号証の一には、甲第二八号証の右文言とほぼ同一の文言につづいて、「特に職場闘争を進めるときは常に職制を捲き込むことに注意を払わなければならない」とあるのに対して、甲第二八号証では、かかる誤解を生み易い刺戟的な文言を避け、「特にこの様な職場闘争を進めるときに注意を払わなければならないのは、この場合職制に属している組合員が上からの圧迫で組合側と対立するようなことが起きてくるが、このときにいたずらに叩く許りでなく組合の方針や組合員の生活の苦しさを理解させると共に相手の苦しい立場を全体で解決するようにして行く中から職制の民主化の方に進めなければならない」との文言を用いて表現を和げている。こうした点からみても、甲第九号証の一が最初委員会に資料として提出された当時、右の「職制を捲き込む」等の文言が物議を生じたので、その表現を和げたものが甲第二八号証の右文言であることがうかがわれる。しかも、右甲第二八号証の機関紙「舵」が昭和二五年三月一三日頃配付された後に開かれた委員会において、賃上要求に対する組合の基本方針や闘いのすすめ方が討議された際、右機関紙の内容について、現場部門に所属する職員から質疑が出されたが、組合執行部は、右機関紙にいう「職場闘争」には、就業時間内の職場集会の開催、職場の集団的な職場放棄、職場における集団的交渉等はふくまれないことを特に説明した。これらの諸点をも考え合わせると、甲第九号証の一は勿論、甲第二八号証も、組合の基本方針として正式に委員会において採択せられたものではないのであつて、甲第二八号証の右機関紙は、賃上要求に関する闘いのすすめ方について組合の基本方針が未だ確立されない昭和二五年三月一三日当時に、組合の教育出版部が組合員を啓蒙する趣旨のもとに発行配付したものに過ぎない。組合が同年四月一四日頃賃上要求についてのスト権を確立して打ち出した基本方針は、上叙のごとく、組合執行部が団体交渉権および争議行為指示権を掌握し、組合員の自覚を促しながら統一的闘争を推進することにあつたのである。

したがつて、甲第八号証、第九号証の一、第二八号証はいずれも上叙認定を動かす資料とするに足りない。当審における原告矢田、久保、元共同原告矢野笹雄(第一回)、宮崎伍郎(第一回)の各供述中上記認定に反する部分は前掲の各証拠ならびに説示に照して信用できないし、他に上記認定を左右するに足る的確な証拠はない。

ところで、統一的な労働組合において、個々の組合員はそれぞれ固有の団体交渉権、団体行動権を有するとはいえ、それは組合員がめいめい自由勝手にそれらの権利を行使することが許容されるという性質のものではなく、他の組合員との団結による組合組織を通じ、かつ、その組合組織の力によつて、これを行使するものにほかならない。組合員ならびに職場ごとの組合員集団がすでに統一組合の構成部分になつている以上、組合員に固有な団体交渉権、団体行動権が当該組合の規約ならびに大会の決議(全員投票による決定をふくむ)等によつて決定された組合の基本方針によつて拘束を受けることは、当然である。

したがつて、本件のごとく、組合が規約上、団体交渉をなすべき事項について所定の各機関を通じて組合員の要求を集約決定し、その集約決定された事項についての団体交渉権限を組合執行部に委譲している場合においては、組合の構成部分にしか過ぎない各職場ごとの組合員から成る職場大会は、かかる団体交渉事項に関する独自の決議と執行の能力を有しないのであつて、本件における前記の部委員会、工場委員会等がかかる職場大会の決議に基いて組合執行部による団体交渉とは別個の径路により当該職場の職制と交渉をもつことは、組合規約に反するばかりでなく、組合自体の団体交渉権の侵害を意味する。それは、単に組合内部の統制違反たるにとどまらないのであつて、会社側がそのような者を相手方として交渉をもつこと自体が、組合の団体交渉権を侵害するものとして許されないのである。したがつて、本件において、職場委員等が職場大会の決議その他の集団的行動により職場の職制に対し、団体交渉事項(組の統合、編成替、配置転換、貸渡し、汚れ作業手当、作業服等の支給要求、越年資金の確約、日当倍額・割増賃金の増額要求、夜勤手当・残業手当・徹夜手当の支給要求、賃上要求に対する職制の意見の要求、汚れ作業手当・危険作業手当の増額要求)に関して集団交渉した行為(前記六の2、8、10、15、17、18、22、24、29各事件の認定参照)は対会社の関係においても許されないところといわなければならない。

さらにまた、組合規約に定められた組合員の全体投票によるスト権の確立されていない場合は勿論、該投票による決定によつて争議行為の指示権が組合執行部に委譲されている場合には、組合内部の構成部分にしか過ぎない各職場の組合員は争議権の行使につきおのずから制限を受けるのであり、各職場の職場大会と雖も争議権の行使に関する独自の決議と執行の能力を有しないことは、団体交渉の場合と同様であつて、各職場ごとの組合員が組合執行部の指示をはなれて独自に争議行為を実施することは、組合規約に反し、組合自体の統一的意思に対する侵害として許されないところである。しかも、かかる組合執行部の指示によらない職場ごとの争議行為は、単に組合内部における統制違反の問題たるにとどまらず、争議権を行使し得ない集団による企業阻害行為として使用者に対する違法な争議行為となるものといわなければならない。したがつて、本件において、組合執行部の指示を無視した職場大会の決議等によつてなされた定時前の一斉総退社の行動(前記六の18、19、20、21、24各事件の認定参照)が違法な争議行為であることは明かである。さらに、就業時間内における会社の許可のない職場集会の開催(同10、14、17、19、20、21、24各事件の認定参照)および就業時間中会社に無断の集団的職場離脱(右各事件のほか、2、8、9、11、12、13、15、18、22、23、29、33各事件の認定参照。なお、6事件は泉州分会において生じた事件であるが、その性質は、右各事件と同様に評価すべきである。)は、当該就業時間内における故なき労働力の提供拒否として、違法実力行使であることが明かである。また、前記六、認定の26事件は違法な職場闘争の一連の行為として行われたものであつて、そのこと自体違法な企業阻害行為であることは、すでに認定したとおりである。なお、同31事件は元来職場闘争の範疇に属しないものであつて、それが組合活動に関して行われたにしても職場規律に違反する違法な組合活動であることが明かである。

以上、これを要するに、前記六、認定にかかる各原告の行動は違法な組合活動というべきであつて、この点に関する原告側の主張は理由がない。

九、そこで、以上一ないし八において順次認定してきたところにもとづき、本件解雇の意思表示の効力を判断すべき準拠法規範に照して果して本件各原告が解雇に値いするだけの基準該当事由があるかどうかを、被告が別紙(三)および(四)において不法、不当な日常の企業阻害的党活動として主張する事実に検討を加えながら、綜合的に評価判断する。

(一)  綜合的判断の評価基準について、

前記四に認定したごとく、「本件解雇につき連合国最高司令官の指示がなく、いわゆるエーミス談話を示唆と解して、本件解雇が共産党員およびその同調者の企業阻害的事実に着目し、国内法的立場において経営者の自主的措置によりなされた」とする当裁判所の第一次的見解による場合は勿論のこと、「本件解雇につき連合国最高司令官の指示があつたとしても、エーミス談話の解釈指示によつて明かにされた右指示の内容は、『企業破壊的行動を推進する共産党員およびその支持者を国内法的立場において自主的に解雇せよ』という趣旨であつて、単に共産党員又は共産主義を信奉もしくは支持するという理由で解雇できる趣旨までふくむものではない」とする当裁判所の第二次的見解による場合においても、本件解雇の意思表示の効力を判断するについては、わが国の憲法を頂点とする国内法的視点からの批判に堪え得るものでなければならない。しかも、右いずれの見解をとる場合においても、本件解雇が企業を破壊活動から防衛する見地から、就業規則第七七条第一項二号の「やむを得ない業務上の都合による場合」を適用して実施されたものであることは、すでに認定したとおりである。この点に関し、被告は、本件整理の実施基準として(1)会社再建に対し、公然であると潜在的であるとを問わず、直接間接に会社運営に支障を与え又は与えようとする危険性のある者、(2)他よりの指示を受けて煽動的言動をなし、他の従業員に悪影響を与え又はそのおそれのある者、(3)事業の経営に協力しない者等、要するに会社再建のため支障となるような一部従業員を整理の対象としたと主張するのであつて、この点は成立に争のない乙第一、三号証に照して明かである。しかし、被告の右整理基準中企業阻害に対する潜在的ないし間接的危険性をとり上げて問題とする部分は、極めて抽象的で、基準適用の乱用されるおそれなしとしないばかりでなく、被告の本件弁論の全趣旨に徴しても、歯に衣を着せた点の存することも覆い難い。そこで、当裁判所としては、以上に認定してきた事実および前記四、の認定に徴して認められる本件解雇の前記特殊的性格ならびに本件解雇が国内法的視点からの批判に堪えることを要することを省察したうえ、前記就業規則条項に照して本件解雇の意思表示の効力を判断する場合の評価基準として、次の諸点に留意すべきものと認定する。すなわち、

1  本件解雇は、単に共産党員又は共産主義を信奉もしくは支持するという理由でなされてはならない。

2  共産党員であつても、企業阻害行為をなし、その阻害行為が就業規則に照して解雇に値いすると認められるものでなければ、解雇基準に該当しない。

3  共産党員であつても、その言動から推して、企業に対して阻害行為をなしもしくはなさしめる危険性又は他の従業員に企業阻害的悪影響を与える危険性が客観的に明白に差迫つたと認められ、しかもその予測される阻害行為又は企業阻害的悪影響そのものが就業規則に照して解雇に値いする程度のものでなければ、解雇基準に該当しない。この点に関して、被告の前記整理基準にふくまれている潜在的危険性又は間接的危険性の観念を適用するに当つては、特に慎重を期しなければならない。けだし、かかる観念は、使用者の主観的恣意的認識のみによつて基準に該当するか否かが左右されるに至り、危険性に対する客観的判断が不能となるばかりでなく、その極限においては、川造細胞員とか、共産党員又は共産主義の信奉者という理由だけで解雇するのとほとんど径庭がなくなり、結社の自由、思想良心の自由、企業阻害に該当しない党活動の自由を侵すおそれが極めて濃厚となるからである。

4  非党員で解雇基準に該当するというには、本人が共産主義を支持し、かつ、日頃共産党員と行動をともにする者であつても、右2、3記載の企業阻害行為又はその危険性の要件を充たすものでなければならない。これらの要件は厳密に解釈されることを要する。けだし、もしそうしなければ、本件において、共産党員の主導する違法な集団的行動に同じく参加しながら、しかも本件整理を受けなかつた他の多数の非党員の存在する事実と対比し、本件整理を受けた非党員が何故に整理されたかの指標が見失われてしまうからである。

5  被告の前記整理基準にいう非協力性は、企業に対する阻害行為又はその危険性と表裏する意味において理解されなければならない。けだし、資本主義社会においては、一般に、労働者階級と資本家階級との利害対立の存在することは、極めて明かな事実に属し、労働者の労働組合活動そのものが経営者に対する非協力性の一面をもつていることは否まれない。しかし、正常な労働組合活動が排除されてはならないことはいうまでもない。

6  本件解雇は、その経過、実態に照して、破壊活動に対する企業防衛上の措置としてなされたものであり、また、その限度にとどめるべき性格をもつものである。したがつて、本件解雇基準に企業合理化的要素を混入させてはならない。前掲乙第一、三号証中に「企業合理化」なる文言が散見されるけれども、企業合理化の線に沿つた整理基準の詳細は示されていないばかりでなく、前記六、認定の集団的行動の中には多数の非党員が参加しておりながら、同調者と目されなかつた者が一人も解雇措置を受けていない事実と矛盾する。したがつて、従業員の成績の良否、伎倆の優劣等は本来、企業合理化の要請に基づく整理の場合に適用されるべき基準であるから、本件において被告がこの点に関して主張する部分は、本人の企業阻害行為又はその危険性との表裏的関連においてのみ判断すれば足りるといわなければならない。それゆえ、本人の伎倆程度自体は問題としない。

(二)  以上のごとき評価基準にもとづいて、本件各原告が前記就業規則該当者として本件解雇に値いする事由があるかどうかを順次判断する。

(本件解雇扱いを受ける原告)

1 橋本広彦

(1) 橋本は全造船書記局細胞の構成員として登録せられた共産党員である。

(2) 前記六、七、八に認定した事実に、当審における証人友広英弥、斎藤清照、宮本芳晴(第五回)、大宮宗三郎の各証言、原告橋本本人の供述(一部)ならびに前掲甲第一三号証を綜合すると、次の事実が認められる。

橋本は、昭和一四年五月会社に入社し、戦時中は労務課に所属し、昭和二一年一月から組合業務に専従し、同年九月頃から同二五年四月末頃まで引き続き全造船の中央執行委員を歴任し、その後会社の東京支店(昭和二五年八月までは東京事務所と称していた)に復帰し、右復帰後は同支店に組合が結成されていなかつた関係もあつて、川造分会との関係を断つていた者であるが、

(イ) 前記六の6の二の各事件に積極的に関与して指導的役割を果し、

(ロ) 川造分会の前記越年闘争および賃上闘争の当時、全造船から応援に来て、人事部の職場大会において、「手塚の野郎が」「こういう奴を叩き出さなきや。叩き出したら、われわれの天下になる」とか、細田人事部次長に言及して「こんなのを叩き出さなきや給料も何も上がらん」というような極めて激越な口調で会社の首脳部に対する人身攻撃的あじ演説をし、

(ハ) 東京支店に復帰後、庶務課株式掛として、株式の名義書替に関する顧客との応待、株券の授受等の事務を担当していたが、就業時間中しばしば無断外出し、或は無断欠勤して、その間全造船書記局細胞員の関係から、全造船本部、石川島重工、東日本重工等に出入りし、また、同支店内にあつては、就業時間中他の従業員に党関係の印刷物を示して推奨したり、話しこんだりして党活動を行つた。さらに、橋本の支店在勤中は、会社が企業再建整備法にもとづく新会社発足の時期に当つていて、株式書替事務は極めて忙がしく、同支店の職員間では、工場と異なり、定時後も残業するのが慣例となつていたが、橋本は、上司から指示されても残業をことわり、支店在勤中一度も残業をしなかつた。橋本のこのような勤務態度は同人の党活動と表裏するものと推認される。

前掲原告橋本本人の供述中以上の認定に反する部分は、前掲各証拠に対比して信用し難く、他に右認定を動かすに足る証拠はない。なお、橋本は、全造船当時、昭和二四年頃一月に一回位、神戸の会社本社工場に来て、工場の現場に出向き、東京の新しいニュースなどを伝えていたことがうかがわれるけれども、この程度のことは、全造船本部の中央執行委員として当然のことであつて、あえて問題とするに足りないし、その際橋本が就業時間中にアカハタを配布したり入党を勧誘したとの被告の主張については、これを認めるに足る証拠はない。

(3) 以上をまとめて結論すると、橋本には、企業防衛上解雇されてもやむをえない程度の企業阻害的言動があつたものといわざるをえない。

2 中村隆三

(1) 中村は川造細胞員であり、昭和二四年一〇月頃より同二五年五月頃に至る間の組合書記長当時、執行部内に「組合グループ」という細胞組織を結成し、活発に党活動を推進していたことは、上述のとおりである。

(2) 前記六、七、八、に認定した事実に、当審における証人塚本碩春(第二回)、斎藤清照の各証言および原告中村本人の供述(一部)と右塚本証人の証言により成立の認められる乙第一〇六号証、前掲甲第一三号証、乙第九号証の一、二を綜合すると、次の事実が認められる。

中村は昭和一九年九月会社に入社して労務関係を担当し、戦後労働課調査掛となり、昭和二四年六月頃同課雇傭掛に転じ、同年七月組合の文化部長となつたのにつづいて書記長に就任して組合業務に専従し、昭和二五年五月頃再び労働課雇傭掛に復帰したものであるが、

(イ) 前記六、認定の12事件(就業時間内のデモの助勢)に関与したほか、33事件には、積極的に画策して指導的役割を果し、

(ロ) 労働協約の改訂を控えた昭和二三年八月頃、労働課調査掛として労働課長より会社の基本方針を明示して労働協約案の起草を命ぜられたにかかわらず、中村は、右指示に反して、当時存続していた労働協約の線(従業員の雇入、解雇について組合の同意を要することになつていた)に沿つた草案を作成し、それが労働課内で容れられなかつたことに対して露骨に反対の態度を表わした。もつとも、当時の労働協約が昭和二四年一〇月末日まで有効に継続した事実に徴すれば、会社は組合との協約改訂の交渉において結局現状維持の線に譲歩せざるをえなかつたことが認められるにしても、中村の右指示違反はやはり職場の秩序にもとるものといわざるをえない。さらに、中村が組合員であつたから、右起案に際して、組合員としての立場と調査掛員としての職責との間の矛盾に悩まされたことも察せられないではないが、人事課・労働課所属の組合員である職員が争議時においてもこれらの課に固有の職制的仕事に従事することは、労使間に諒解が成立していたのであるから、中村の右指示違反が労働者としての組合意識に発するとしても、その指示違反の行為自体は許されないといわざるをえない。

(ハ) 前記越年資金要求当時、人事部の職場集会において、組合の方針に反して、職制の麻痺、職制の指示に対する拒否を煽動する発言をした。

(ニ) 昭和二五年七月頃に行われた労働課の職場大会において「朝鮮内乱は米国の挑発によるものだ、米軍の仕事をすることは、労働者の利益に反する」という趣旨の反米的、反占領軍的発言をなして、組合員大衆を煽動した。しかし前掲各証言、当審における証人坂口干雄、中江範親の各証言、右中江証人の証言により成立の認められる乙第一七号証の三、五、六、前掲塚本証人の証言により成立の認められる乙第一八号証ならびに上記認定のエーミス談話を綜合して認められるように、当時会社は賠償工場に指定されて米陸軍の管理下におかれ、占領軍の艦艇修理工事を行つていて、米軍代表部が会社構内に常駐し職場秩序の維持についてしばしば警告を受けていたし、一〇〇トン以上の鋼鉄船の建造については一々占領軍当局の許可を要し、さらに、エーミス談話が上叙のごとく企業破壊的共産分子を排除しなければ船舶の建造は許可されないであろうと明言したのであつて、これらの点からすれば、中村の右のごとき反米的、反占領軍的言動は、職場大会における自由なる言論として看過しうる性質のものではなく、当時のわが国内外の諸情勢ならびに会社のおかれた前記環境に照し、会社の企業に対する明白に差迫つた危険性のある破壊的煽動的言動といわなければならない。

(ホ) 昭和二五年八月二日付の全造船の機関紙「ゼンセン」に、「人民の血で肥つた川崎資本の実態」と題して、戦時にかけて発展して来た過去の川崎造船につき、「川造資本家の手は、戦争犠牲の人民の血にまみれ、その血をすつて肥え太つたとさえいえる」と評し、川崎造船が軍事産業化を目指しているとしたうえ、やがておそわれるであろう恐慌からの「抜道を戦争準備に求めるであろう。戦争事業こそ資本の最後のボロもうけの道である」趣旨の煽動的記事を投稿して、会社を公然中傷誹謗し、

(ヘ) 書記長を辞任して前記雇傭掛に復帰後は、就業時間中、職務と関係のない読書に時間を費すことが、しばしばであつた。

当審における原告中村の供述中右認定に反する部分は前掲各証拠と対比して信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

なお、被告は、泉州工場閉鎖問題(前記六の6事件参照)に関して、中村が調査掛としての作業を命ぜられたにもかかわらず、これに従わなかつたと主張するけれども、前掲証人斎藤清照の証言によれば、中村は右閉鎖問題に関係することを最初から辞退する旨上司に申し出て、その許しを得、したがつて最初から右閉鎖に関する作業を命ぜられたことがなかつた事実が認められるから、被告の右主張は理由がない。さらに、前掲各証拠によれば、中村が雇傭掛に転じた昭和二四年六月頃、アカハタを配布していたことが認められないではないが、それが就業時間中であるか否か、これを確認するに足る証拠はなく、また、就業時間中の入党勧誘その他の被告の主張事実については、これを確認するに足る証拠がない。

3 谷口清治

(1) 谷口は川造細胞員である。

(2) 前記六、七、八、認定の事実に、当審における証人畠山七郎(第二回)の証言および原告谷口本人の供述(一部)と当審における証人古河幸雄(第一回)の証言より成立の認められる乙第一〇二号証の一を綜合すれば、次の事実が認められる。

谷口は昭和二三年四月入社し、造機工作部製罐工場所属のガス熔接工であつたが、

(イ) 前記六、の13、14、15、18、20、23、27、28各事件に積極的に関与して指導的役割を果し、

(ロ) 前記六、の10事件にも直接参加し、

(ハ) 前記六、の28事件と関連し、昭和二五年五月一三日午後二時二〇分頃、約二、三十名の一斉退場中の組合員が証拠写真の破棄を要求して保安課事務室に押しかけた際、谷口は、組合専従書記の原告篠原および訴外野村某らとともに、代表と称して、大衆の圧力を背景として、保安課の警備掛長宮本芳晴に対し、「写真をとつた保安課員を出せ」、「写真を出せ」と執拗に要求して同掛長を吊し上げ、同掛長をして保安課長寺岡二郎に取次ぐのやむなきに至らしめた。これらの吊し上げの許されないことは、すでに述べたところに照して明かである。

(ニ) 就業時間中しばしば職場を離脱したり、アカハタの配布および入党勧誘を行い、

(ホ) 昭和二五年七月頃に「朝鮮事変は、アメリカの侵略戦争だから、米軍の工事に協力をするな」という趣旨の掲示などを製罐工場の会社掲示板に無断掲示した。かかる反米的反占領軍的な掲示に対する企業破壊の危険性の評価は、中村の場合の説示と同様である。

前掲原告谷口本人の供述中以上の認定に反する部分は前掲の証拠に比して信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

(3) 以上をまとめて結論すると、谷口には、企業防衛上解雇されてもやむをえない企業阻害的行動ならびに企業阻害の危険性があるものといわなければならない。

4 仲田俊明

(1) 仲田は川造細胞員である。

(2) 前記六、七、八、認定の事実に、当審における証人阿部芳也、宮本芳晴(第三回)の各証言および原告仲田本人の供述(一部)と前掲乙第一〇二号証の一ならびに乙第九四号証の一三の存在を綜合すれば、次の事実が認められる。

仲田は、昭和二三年七月入社し、造機工作部工具工場所属の鍛造工であつたが、

(イ) 前記六、の12、13各事件、18事件の午前中の集団交渉とその間における職場離脱、29、33各事件に積極的に関与して指導的役割を果し、

(ロ) 前記越年資金要求当時の昭和二四年一二月上旬、工具工場所属の組合員のデモが就業時間にくいこんだことに関して、職制の側で賃金カツトをしようとしたとき、仲田は、同工場事務所において、原告西村らとともに、就業時間中、佐伯掛員に対し、賃金カツトの取消を要求して同掛員を吊し上げ、その翌日頃、右事務所において、右の者らとともに、就業時間中本谷掛長に対しても同様の要求をして同掛長を吊し上げ、

(ハ) 昭和二四年夏頃から就業時間中しばしば職場を離脱したり(アカハタを読む点は、それが作業の合間の一服のときかどうか、必ずしも明かでないから、この点を除外する。就業時間中の入党勧誘については、これを確認するに足る証拠がない)、工具工場の掲示板に「会社はわれわれを奴隷扱いしている」という趣旨の会社を中傷する趣旨の壁新聞を無断掲示し、

(ニ) 昭和二五年七月頃、右掲示板に「北鮮こそ人民の利益のため統一を叫んで戦つている人民の政府である、南鮮は、小数の資本家と大地主をレイゾク化せしめた外国資本家等の利益を守る政府である」旨の反米的、反占領軍的壁新聞を無断掲示した。かかる掲示のもつ企業阻害の危険性の評価は、中村の場合の説示と同様である。

当審における原告仲田本人の供述中、右認定に反する部分は、前掲証拠に照して信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

(3) 以上をまとめて結論すると、仲田には、企業防衛上解雇されてもやむをえない事由があるものといわなければならない。

5 田中利治

(1) 田中は川造細胞員である。

(2) 前記六、七、八、に認定した事実に、当審における証人名代永一、山田重康の各証言および原告田中本人の供述、ならびに当審証人中田俊一の証言により成立の認められる乙第一〇二号証の二を綜合すると、次の事実が認められる。

田中は、昭和二〇年一〇月入社し、電機部第一工作課所属の工員であつて、日本民主青年団(青年共産同盟の後身)川崎造船所班の機関紙「スクラム」の責任者をしていたこともあつたが、

(イ) 前記六、の2、8、9、10、11、15、22、23、24各事件を積極的に画策して、指導的役割を果し、

(ロ) 昭和二四年頃から同二五年頃にかけて就業時間中しばしば職場を離脱して、電機工場の工具庫、電池場などで、原告水口その他の細胞員らと談合していた。(就業時間中本を読む点は認められるが、作業の合間に読むのかどうか明らかでないから、この点を除外する。就業時間中におけるアカハタ配布、入党勧誘の事実については、これを認めるに足る証拠はない)。

(3) 以上をまとめて結論すると、田中には、企業防衛上解雇されてもやむをえない企業阻害的行動があるものといわなければならない。

6 遠藤忠剛

(1) 遠藤が川造細胞員として登録せられた共産党員であることは、成立に争のない乙第三四号証の一に照して明かである。

(2) 上記の六、七、八、に認定した事実に当審における証人武安幸雄、宮本芳晴(第四回)、石原健造(一部)、塚本碩春(第二回)、加藤利一、玉木政利、齊藤清照、中江範親の各証言ならびに原告遠藤、尾崎の各供述(いずれも一部)と成立に争のない乙第一〇五号証、第一一二号証の一、三、第九号証の一、二、第三七号証(一部)、右遠藤の供述により成立の認められる乙第九一号証の四、右中江証人の証言により成立の認められる乙第一七号証の二、四、第八三号証の九、一五、成立に争のない甲第一三号証、第二五号証(一部)第二六号証(一部)、第三二号証の一、二を綜合すると、次の事実を認定することができる。

遠藤は、昭和三年東大法学部を卒業し、昭和一八年九月会社に入社し、艦船工場の庶務課財産管理掛、同課文書掛主任、勤労部統計掛主任を経て、昭和二〇年一〇月頃電機部の事務掛長となり、同二一年一一月一日より総務部付、同二二年八月二五日より艦船工場付、同二五年八月七日より再び総務部付となつて、掛長待遇を受けていたものであり、その間昭和二一年三月日本共産党に再入党し、同二一年中には会社内に川造細胞を組織し、同細胞のキヤツプとして活動し、同二三年一〇月五日に行われた神戸市教育委員選挙に立候補する等の閲歴を有するものである。

(イ) 被告が不法集団事件としてあげる1、電機部不法デモ事件(別紙(三)の1事件参照)の認定は上叙のとおりであり、さらに、前記六、認定のその他の不法集団事件について、遠藤が関与したことが認められないから、それらの事件に関して遠藤に何等かの責を負わせることのできないことも、すでに認定したところである。

(ロ) 被告主張の4、石原選挙長吊し上げ事件(別紙(三)の4事件)被告会社には、健康保険法にもとづき、事業主たる会社と会社に使用される従業員をもつて組織する川崎健康保険組合が存在し、会社の各部門を選挙区として所属従業員数に応じて一定数の議員を選挙することが規約で定められており、その選挙に当つては、右組合の理事長(会社の取締役が当時就任していたが)川崎造船所、川崎製鉄などの傘下の事業所ごとに選挙長を任命し、各選挙長はその事業所における議員立候補者に関する選挙公報を配布したり、立侯補者の提出する一定枚数の選挙ポスターに検印を押して会社構内に掲示することも規約上定められていた。ところで、昭和二三年八月三〇日頃を選挙期日とする同健康保険組合の議員選挙に際し、造機部所属の従業員の川崎和靖が立候補し、同月二五日頃同侯補者の選挙ポスター数枚が川崎造船所の選挙長石原健造(同人は当時、同造船所の人事部長であつた)のもとに提出されたが、同ポスターには「働く者の働く諸条件が決定的に改革され、働く者の健康が決定的に社会に保障され、増進されるために言葉でなく、行動で、私は日本共産党員として断乎闘う事を誓う。保険金全額国庫負担」と記載され、右文言中日本共産党員以下の部分が朱書されていた。当時、会社側は、会社に駐在する総司令部の出先機関である米陸軍代表部のハンダートマークから、社内において政治的活動を行わしめないよう要請されていたので、石原選挙長は、右選挙ポスターの「私は日本共産党員として断乎闘う事を誓う」の文言から推して、同ポスターが政治的活動の範疇に属するものと判断し、これを理由として立侯補者の前記川崎和靖側に対し、同ポスターを掲示することができない旨を連絡したところ、原告遠藤、同尾崎は、総勢約一〇名で同月二五日頃人事部長室に押しかけ、石原選挙長に対し、「川崎のポスターをどうして掲示しないのか」「右記載文言がなぜいけないか」「選挙干渉だ」などと烈しく難詰して同選挙長を吊し上げた。その後、同月二八日、前記ハンダートマークより「(一)ポスターは種類の如何を問わず、社報および娯楽用の掲示をのぞき、本造船所内にては禁止されている。(二)掲示およびポスターは川崎造船所駐在の米陸軍代理事務所の検閲を経なければならぬ」との指示があつて、右選挙に関するポスターは直ちに一切撤収されるに至つたが、それまでの間において、原告遠藤、尾崎ら約一〇名は、さらに所長室に押しかけ、要談中の前記石原選挙長に対し、川崎和靖の選挙ポスターを掲示しないことを前よりも一層烈しく難詰し、「労働者の敵」「資本家の狗」などと口汚くののしり、同選挙長を吊し上げた。

右は、川崎健康保険組合における議員立侯補者を推せんする保険組合員と選挙長との間に起きた事件ではあるが、右保険組合が会社の従業員の業務外の事由による疾病、負傷もしくは死亡又は分娩ならびにその被扶養者の同様の事故に関して保険給付をなすことを目的として設立され、会社も事業主として相当巨額の費用を分担していることは、健康保険法に徴して明かであり、要するに、従業員の福利厚生ないし社会保障を目的とする社内的制度の一つにほかならないから、前記石原選挙長を集団的に吊し上げる行為は、やはり社内秩序をみだすものといわなければならないのみならず、選挙ポスターの公示が健康保険組合の規約で定められていたにせよ、石原選挙長ならびに保険組合関係者は、すべて、ハンダートマークが連合国官憲として発する指示に対してこれを遵守すべき義務を負う関係にあつた以上(昭和二〇年九月二日連合国最高司令官指令一号、一二項参照)、石原選挙長がその指示に拘束されることはやむをえないところであるにもかかわらず、原告遠藤、同尾崎らがこれを石原選挙長の選挙干渉として、国内法的立場から批難攻撃し、同人を吊し上げることは、不法不当のそしりをまぬがれない。

(ハ) 遠藤が勤労部の統計掛主任をしていた昭和二〇年三月頃より同年一〇月頃に至る間の勤務態度が誠実を欠いたとの被告の主張事実については、これに沿う趣旨の当審証人玉木政利の証言部分は、当審における証人石原健造の証言および原告遠藤の供述ならびにこれらの証拠によつて認められるところの遠藤が昭和二〇年一〇月頃電機部事務掛長に転出し、同年一二月に断行された戦後の大量人員整理に際して整理の対象とならずに残留している事実に照して、そのままに措信し難く、他に被告の右主張を認めるに足る証拠はない。しかしながら、電機部事務掛長に転出後の昭和二一年三月頃からは、遠藤は前記のごとく日本共産党に再入党し、川造細胞を結成する関係もあつてか、就業時間中アカハタを配布したり、他の従業員に入党勧誘を行うなど、掛長としての職務を離れて職場の従業員に対し活発な党活動を推進するようになつた。そのため、遠藤は、同年一一月一日付で総務部付に配置替えとなつたが、特定の仕事を与えられなかつたことも手伝つて、遅刻することも多く、また、就業時間中外出して党機関に出入りしたり、自席で細胞関係者と談合したり、他の職場に赴いては党活動を活発に行つて党勢力の拡大に努め、昭和二二年八月工場付となるまでの間、綜合事務所関係のアカハタ配布の責任者として、就業時間中アカハタを配布することもしばしばであつた。(アカハタの配布自体は遠藤の認めるところである。このアカハタの配布先には、坂口人事部長、細田人事課長、中江労働課長などの人事労働関係の職制への配布もふくまれているので、この点に関しては情状を斟酌する)。さらに、昭和二二年八月二五日付で工場付となつてからも、遠藤は遅刻が多く、就業時間中自席を離れて入党勧誘を行つたり、党関係者と談合したりすることがしばしばであつた。(その間、昭和二三年三月頃から所長の指示を受けて川崎艦船工場史の下準備を担当し、同年九月頃からは会社の営業用カタログの編集に従事していたことに関して、被告は右仕事に対する執務態度も誠実を欠いて成果らしい成果をあげなかつたと主張するのであるが、右工場史の編さん準備の作業は一人では到底かなわない仕事量であることが認められるし、また、営業用カタログは一応編集をつづけていた事実がうかがわれるから、右仕事の成果について追及するには、証拠も足りないし、さらにその追及が酷と思われる一面もあるのでこの点は評価事由から除外する。)

(ニ) 昭和二五年春の賃上闘争において、組合員である職員層から組合の闘争方針等に対する批判が起り、同年五月二〇日組合員の全体投票の結果、戦術転換を決定し、平和交渉方式へ移行することとなつたが、同月二六日頃乙第八三号証の九の「労働者はバカだよ」「資本家の番頭の本音はこれだ」との見出しをつけた川造細胞職員班名義のビラが会社の従業員にまかれた。遠藤は、同細胞職員班として右ビラの作成に関与し、その中で造機部所属の職員加福との問答体の形式をとりながら、遠藤の問として「会社のためと云うなら会社首脳部の不正の数々を何故なくすために闘はないのか」と記載して、会社首脳部を中傷し、さらに、現場の労働者に向かつて「諸君は諸君らのやり方で、職場において、断乎、その仮面をはぎとり、イカリと抗議をたたきつけよう、団結して闘いに立て」と呼びかけ、組合の決定した平和的交渉の方針に反する違法な職場闘争を激発煽動した。

前掲甲第二五、二六号証、乙第三七号証の各記載ならびに当審における原告遠藤、尾崎各本人の供述中以上の各認定に反する部分は前掲各証拠に照して信用できないし、他に上記認定を動かすに足る証拠はない。

(3) 以上をまとめて結論すると、遠藤は、その学歴、年令、地位からすれば、あえて上司の注意をまつまでもなく、従業員としての職責を自覚して企業の再建に貢献すべき立場にあつたにもかかわらず、川造細胞の有力党員として昭和二一年三月頃以降四年有余の長期にわたつて就業時間中積極的に党活動を推進していたものであつて、上叙説示のごとき言動と相まつて綜合的に判断するときは、遠藤には企業防衛上解雇されてもやむをえない程度の企業阻害的言動があつたものと認めるのを相当とする。

7 尾崎辰之助

(1) 尾崎が川造細胞員として登録せられた共産党員であることは、成立に争のない乙第三四号証の一に照して明かである。

(2) 上叙認定事実に当審における証人林貞助、二瓶豊、宮本芳晴(第四、五回)の各証言および原告尾崎本人の供述(一部)と成立に争のない甲第二六号証(一部)を綜合すると、次の事実を認めることができる。

尾崎は東大工学部を卒業して昭和四年二月会社に入社し、造船設計課長を経て昭和二二年三月二〇日頃艦船工場の調査室次長、同二三年九月頃技術研究室次長に就任していたものでその間昭和二二年二月頃には兵庫県の県会議員選挙に共産党の推せん侯補として立侯補したこともあつたが、

(イ) 被告主張の4、石原選挙長吊し上げ事件に原告遠藤とともに積極的に関与して社内秩序をみだしたことは、上記認定のとおりである。

(ロ) 被告主張の5、公安条例反対被検挙者釈放要求デモ事件に尾崎が関与していないことは、すでに認定したとおりである。さらに、前記認定のその他の不法集団事件には何等関与せず、したがつてそれらの事件について何等かの責を負わせることのできないことも、すでに述べたとおりである。

(ハ) 就業時間中自席で川造細胞員の原告遠藤らと談合したり、同人と連れ立つて外出したりなどして、就業時間の相当部分を党活動に費し、

(ニ) 会社が賠償指定工場として米陸軍の管理下におかれ、米軍の艦艇修理を担当し、又一〇〇トン以上の鋼鉄船の建造には一々総司令部の許可を要し、さらに会社には総司令部の出先機関たる米陸軍代表部が常駐して社内秩序の維持についてもしばしば警告や指令を受ける有様で、米軍に協力しなければ到底事業の円滑な遂行を期しえない条件下におかれていたにもかかわらず、尾崎は、昭和二五年六、七月の朝鮮動乱の勃発した当時、技術研究室等において、技術研究室長二瓶豊およびその他の職員に対し、「米軍に協力して米軍の艦艇修理をすることは、アメリカの帝国主義、侵略主義に協力する以外の何物でもない。川重の技術をもつて中共に造船所でも建設して中共の再建をはかるのが川崎を救う道である。これができないのは、会社幹部に無能なものが揃つているからだ」という趣旨の反会社的経営批判を行つて会社幹部を誹謗した。

(ホ) 成立に争のない甲第一三号証によれば、尾崎が昭和二一年三月二七日頃川崎造船職員組合の組合長に選ばれ、工員から成る川崎造船労働組合と提携して全川崎労職協議会の名をもつて会社側と労働協約の締結交渉に努力したことがうかがわれるけれども、前掲証人二瓶豊の証言によれば、尾崎が昭和二二年三月頃調査室次長に転出したのは、そのことが決定的な原因をなしているものではないことがうかがわれるのみならず、尾崎を調査室次長に転出して造船工作部長にしなかつた会社人事に対して、尾崎がいかに不平不満を抱いたとしても、そのことは決して前記(イ)(ハ)(ニ)の言動を酌量する理由にはなりえない。

前掲甲第二六号証の記載ならびに当審における原告尾崎本人の供述中以上の各認定に反する趣旨の部分は前掲各証拠に対比して信用できないし、他に上記認定を動かすに足る証拠はない。

(3) 以上をまとめて結論すると、尾崎は造船技術者として極めて優れた能力を有するにしても、上叙説示の言動をその社内的地位に照して勘案すれば、尾崎は、企業防衛上解雇されてもやむをえない程度の企業阻害的言動をなしたものといわざるをえない。

8 市田謙一

(1) 市田は川造細胞員である。

(2) 当審における証人武内信雄、坂口干雄、中江範親、寺岡二郎の各証言、原告市田本人の供述(一部)と成立に争のない乙第一一二号証の三前掲甲第一三号証に前記六、七、八、に認定した事実を綜合すると、次の事実が認められる。

市田は、昭和一四年三月京都大学を卒業すると同時に会社に入社し、本件整理当時、資材部購買第一課の燃料木材掛長に在職していた者であるが、

(イ) 就業時間中アカハタ約一〇部を配布したことがある(原告市田の供述中、右認定に反する部分は措信しない)。しかし、その配布が常時就業時間中に行われていたことを認めるに足る証拠はないのであつて、前掲武内証人の証言に徴すれば、市田が就業時間中アカハタを配布した回数は極めて稀であつたことがうかがわれる。その配布先には、昭和二五年当時の人事部次長細田平吉、人事課長下堂園辰雄その他の人事部の課員がふくまれていた。当審証人下堂園辰雄の証言によつても、同証人は、アカハタを職務上購読していたことを認め、市田に対して、アカハタの配布を注意したことがないと証言している。これらの点からすれば、市田のアカハタ配布行為は、さして非難するに当らない。

(ロ) 昭和二四年の越年資金要求当時の或る日、市田が綜合事務所前を通る現場工員のデモ隊に向かつて、同事務所一階の購買課事務室の窓から「ガンバレ!ガンバレ!」と声援を送つたことが認められる。しかし、それが就業時間中であつたのか、昼休み中であつたのかを確認するに足る証拠はないばかりでなく、仮りにそれが就業時間中であつたとしても、そのデモ隊の行動自体は兎も角、これに対する右程度の声援が企業に破壊的影響をもたらす煽動的言動として評価することは到底できない。

(ハ) 昭和二五年春の賃上闘争当時、昼休みに購買課事務室で開かれた資材部の職場大会において、組合員である職員六、七十名の中で、「賃上貫徹のためには会社がつぶれてもいいじやないか、つぶれても国家が管理してくれる」「すべて闘争するにあたつて、その前に川重という企業の存在を多少でも意識するならば、その闘争はすべて闘わずに敗北したものである」というがごとき趣旨の発言をしたことが認められる。右発言自体は穏当を欠き、経営者側のひんしゆくを買うのは、無理からぬところである。しかし、その発言のなされた前後の事情、他の職員の発言、職場大会の討議事項、雰囲気などについては、明かでなく、右発言部分が浮彫りされた恰好になつている。ところで、右賃上闘争に当つて、組合はスト権を確立して争議態勢を構え、五月六日以降は、占領軍関係の工事など一部をのぞいて全面的な二時間以上の残業放棄と重点的職場に対する断続的な定時退場を指令し、会社側に対して団体交渉中であつたが、会社側も経理上の困難、いわゆる経済九原則などを理由として、組合の要求を全面的に拒否する態度を強硬につづけて、全く対立の状態にあり、組合員である職員層の間には、会社の社運をかけたフアンマノー号等の竣工を控えていることなどを理由として、組合の右闘争方針に対してさえも、批判的空気が強く、同年五月一三日頃には、戦術転換を求める要請が表面化し、同月一五日頃からは、各職場において、闘争の継続か平和交渉への移行かをめぐつて論議が交わされたのであつて、この点は、前記六に説示したところである。かかる背景を考慮に入れると、右発言自体は、穏当を欠くとはいえ、その発言は、賃上貫徹を期するについて、組合の闘争方針の継続実施を強調する一連の主張の一齣として、組合員としての立場からなされた発言であると受け取れると同時に、市田が共産党員としての立場から、労働問題も所詮政治的関連への発展なくしては解決を期しえないとの日本共産党員共通の認識に立つての発言と解されるのである。しかし、市田は後記のごとく、前記六に認定した集団的行動に全然関与していないことからもうかがわれるように、その実践的行動性には乏しいのであつて、右職場大会における右発言は、当面本当に会社をつぶすことを意図してなされたものとは、どうしても受け取れないのである。けだし、会社が、本当につぶれるようなことがあれば、組合員の一二、〇〇〇円の賃上という当面の要求の貫徹を期しえなくなるからである。激越に響く右発言も、それ自体のうちに明かな矛盾を露呈しているのであつて、大方の組合員の共鳴を喚起する言葉とは思われない。事実、右発言はその職場大会において全然賛成をみなかつたものであつて、このことは、前掲証人の証言に照して明かである。したがつて、右発言からは、企業破壊を意図する明白に差迫つた危険性は看取されないし、その発言が他の従業員に悪影響を与える差迫つた明白な危険性を包蔵する煽動的言動と解することもできない。このような意味において、市田の右発言部分は、職場大会における組合員の言論の自由の範囲内にとどまるものと解するを相当とする。

(ニ) 就業時間中の入党勧誘、職場離脱、ビラの掲示に関して、市田に対する被告の主張については、なんらの証拠もない。

(ホ) 市田は川造細胞員ではあるが、前記六に認定した集団的行動には直接参加していないことは勿論(直接参加は、被告の主張しないところである)、その背後にあつて陰に陽にその画策謀議に加わつたという確証もないことは、すでに述べたところである。他の川造細胞員のなした集団的行動を基礎事実とし、これと市田が川造細胞員であることを結びつけ、党員として行動を義務づけられていることを支えとして、市田に企業破壊の危険性があるものと判定することはできない。むしろ、仮りに党員が行動を義務づけられているとしても、その義務づけられている市田が前記集団行動に全然関与していない事実こそは、市田にかかる危険性のないことを実証しているということもできるのである。

また、乙第三六号証の一、二は当審証人中江範親の証言によつて成立を認めうるにしても、その記載内容が果して真実かどうかについて、確たる心証を惹起するまでに至らないが、仮りに市田がその記載内容どおりに、昭和二四年二月当時、川崎艦船細胞の財政を担当し、同年三月頃同細胞の財政組織を担当していたことがあるにしても、同細胞自体は別に違法な団体であるわけでもなく、又当裁判所が真正に成立したと認める乙第二五号証の三によれば、企業の中につくられる経営細胞には、労働組合係、宣伝教育係等各分担の存することが窺知されることと対比しても、市田が右のごとき係を担当したことから推して、市田の企業破壊の危険性を認定することはできない。

(ヘ) 戦後、ことに昭和二四年頃から同二五年頃にかけて、川造細胞名義のビラ(乙第八〇号証の二の一、第八三号証の七、一七、第八四号証の二、三、第八八号証の六、一二、第九〇号証、第九四号証の一ないし四)、川造細胞職員細胞名義のビラ(乙第八三号証の九、第九四号証の九)、川造細胞設計班名義のビラ(乙第八九号証の一)、川造細胞機関紙のガントリ・クレーン(乙第九一号証の一ないし六)、川造細胞委員会名義のビラ(乙第九四号証の一ないし四、一〇)などが会社の構内外、ことに正門附近に集中して、就業時間中にも配布ないし掲示されたことが認められないではないが、右乙号各証のうち、どれが誰によつて、いつどこに配布、掲示されたものか証拠上明かでない。また、それらのうちで、乙第九四号証の四の川造細胞名義のビラ(昭和二四年二月一七日付)は、「工場には人が死初めた」と題して、労働強化による「生命の搾取が始まつている」旨の文言をふくみ、乙第九〇号証の川造細胞名義のビラ(昭和二四年六月一〇日付)は、「川崎艦船革命宣言」と題して、「革命か餓死か、人民政府か破滅か」とか、「人民のために闘う」ことを「肯じない会社幹部とその手先は日本を破滅に導く者であり、われわれは断乎その退陣を要求せねばならぬ」という趣旨の文言をふくみ、いずれも会社を中傷刺戟する点がないではないが、前掲乙第三六号証の二、第二五号証の三、当審における元共同原告小林時則の供述によつて成立の認められる乙第九一号証の一ないし五に徴すれば、市田以外の他の川造細胞員が宣伝係としてこれらの掲示ビラの文筆責任者であつたものと推認できないではない。したがつて、右掲示ビラの名義が川造細胞名義になつていることから、直ちに、その文筆責任を川造細胞員の全員に負わせて、会社を中傷したとすることはできないといわなければならない。

(ト) 市田は入社以来至つて明朗潤達、精励恪勤の熱血漢であつたが、本件証人となつている武内信雄が第一購買課長に就任した昭和二五年三月当時には、共産党に入党していた関係もあつてか、憂愁に閉ざされたような性格変化を来し、そのせいもあつて、党員の少ない事務部門にあつて課内の他の職員からも遊離敬遠される傾向があつたとともに、掛長としての職務の遂行に今少し積極性に欠ける点がないではなかつた。こういうところからして、武内課長も昭和二五年七月頃奥野資材部次長と相談して市田の配置転換を考慮し、同次長も人事部に相談して善処しようという矢先に本件整理となつたものである。そして本件整理の少し前に奥野次長から「市田が整理対象の中に入つているが、君の意見はどうか」ときかれてはじめて市田が本件整理の対象となつていることを知つたが、同課長は、「個人の情として忍び難いが、会社の方針としてやめさせるというなら万やむをえない」と答えたことが認められる。同課長としては、市田の平素の勤務実績の点で同人が解雇に値いする人物とはみていなかつたし、また、市田に掛長としての職務遂行に積極性に稍々欠ける点があつたとはいえ、購買事務に支障を来たすことがなかつたことが認められるのである。したがつて、市田の党活動と表裏した勤務上の不誠実さは、ほとんどなかつたということができる。

(3) 以上の諸点をまとめて結論すると、市田は、川造細胞員として共産党員であつて、その言動に多少矯激なところがあつたとはいえ、企業防衛上本件解雇に値いするほどの、企業破壊に導く差迫つた明白な危険性はなかつたものといわざるをえないのである。したがつて、市田には、前記就業規則条項に該当する事由はなく、市田に対する本件解雇はすでにこの点において無効といわなければならない。

9 赤田義久

(1) 成立に争のない乙第一一〇号証の二によれば、赤田は昭和二四年一二月一三日現在で提出した身上申告書に、支持する政党は日本共産党であることを自書していることが認められる。

(2) 当審における証人斎藤清照、塚本碩春(第二回)の各証言および原告赤田本人の供述(一部)と成立に争のない乙第一一〇号証の一、成立に争のない甲第二七号証、当審証人坂口干雄の証言により成立の認められる乙第四八号証、第一〇一号証の四、当審証人塚本碩春(第一回)の証言により成立の認められる乙第五四号証、前掲乙第九号証の一、二ならびに前記六、七、八に認定した事実を綜合すると、次の事実が認められる。

赤田は、昭和二四年三月東京大学法学部を卒業すると同時に会社に入社し、労働課調査掛として対労働組合関係事務を担当し、昭和二五年二月末頃同課教育掛に転じた者であるが、

(イ) 昭和二四年五月頃泉州工場閉鎖問題に関して、労働課調査掛は、労働課および人事課の他の掛とともに、会社の指示により、同工場閉鎖にともなう人員整理手続の実施準備に忙殺され、解雇者名簿・残留者名簿の各作成、これらに関する発送通知の作成準備、組合内部の情報入手、泉州工場との事務連絡等に当り、その間社外において右準備事務に専念することもあつた。赤田は、その間中江範親労働課長に随伴して泉州工場との事務連絡に当つたほか、社外において解雇通知書の作成等の事務を処理していたが、当初から「閉鎖には反対である旨を他の掛員に洩らして右準備事務の処理に対して極めて消極的態度に終始し、調査掛長塚本碩春より泉州工場との事務連絡を指示されたにもかかわらず、これをことわつた。そのため、赤田は途中で右準備作業の担当から外された。赤田が閉鎖反対の信念をもつこと自体は思想良心の自由に属し、これを問題とすることはできないにしても、また、赤田の入社早々の点を考慮に入れても、調査掛員としての職務放棄の一面があつたことは否定できない。この点に関して、前記原告中村について説示したところと考え合わせると、赤田は調査掛として入社早々、同じ調査掛に属していた先輩格の原告中村と接触していたことがうかがわれ、赤田の泉州工場閉鎖反対の態度には右中村の感化のあつたことが推認される。

(ロ) 昭和二四年の前記越年資金要求当時、前記六に認定したごとく、就業時間中の職場放棄、デモが組合の指令によることもなく、たびたび行われ、職場秩序がみだれていたので、会社はこれに対して警告を発し、現場管理者に調査取締方を指示する一方、労働課調査掛に対しても、現場工場で行われる職場集会、デモ等の時間、状況、従業員の動静に関する情報蒐集が指示されていた。赤田は、同年一二月はじめ頃の昼休み中から造機工作部において行われていた職場集会につき、調査掛員として情報蒐集方を上司より指示されたが、右職場集会は午後の就業時間に約二〇分くいこんでいたにかかわらず、昼休み中に終了した旨報告し、これによつて会社側に支障を与えた。

また、その頃、赤田は、造機工作部において午前の就業時間内に行われたデモの状況につき調査方を命ぜられ、造機工作部の管理関係者からデモの状況、煽動者に関する情報を入手しながら、調査掛の上司に対して、「デモは大したことはない。首謀者は判らない」という不得要領の報告をなした。

赤田のかかる杜撰な報告は、「労働者の権利を守るためには、少々逸脱があつても、構わない。就業時間中にデモをやることも構わない、ある程度はやむをえない」という同人の思想にもとづいて作為的になされたことが認められる。ここにも、前記原告中村との労働問題に対する考え方の共鳴がうかがわれるのである。ところで、赤田の右の思想ないし信念の是非は兎も角として、調査掛が右のような職場集会、デモの時間等について調査方を指示された場合には、事実は事実として、情報は情報として、ありのままを上司に報告することが、調査掛としての職責というべきである。組合側も労働課調査掛が争議時においてもそのような調査に従事することを基本的に諒解していたのであつて、その点は原告中村のところで説示した。したがつて、赤田の右職務執行の態度には、同人の信念と表裏するところの職務の怠慢ないし放棄の一面がうかがわれる。

昭和二五年の春季賃上闘争に際して戦術転換が行われたが、赤田は、その頃行われた職場大会において「就業時間位、少々くいこんでも構わんじやないか」という趣旨の発言をした。これは、赤田が雇傭掛に転じてからの職場委員としての発言であるが、職場集会やデモが少々就業時間内にくいこんでも構わないという赤田の態度が一貫してつづいていることが、これによつて明かである。

(ハ) 前記春季賃上闘争に際して、組合が戦術転換を行い、当時の執行部が総辞職し、新執行部による団体交渉の結果、一時金で一応事態を収拾したが、組合が要求しつづけている一二、〇〇〇円賃上問題をどのように打開していくかに関して、同年七月頃労働課で職場集会が行われたが、赤田は右職場集会において、「朝鮮戦争はアメリカの挑発によるものである。米軍の仕事をすることは、労働者の首を締めることであり、労働者の敵だ」という趣旨の過激な発言をした。赤田の右発言は、原告中村の前記認定の発言要旨と軌を一つにするものであるが、かかる言動は、当時におけるわが国内外の諸情勢ならびに会社のおかれていた環境に照すとき、単に職場集会における自由な言論の領域に属するものとして看過しうる性質のものではなく、企業破壊に導く差し迫つた明白な危険性を有する煽動的発言といわざるをえないのであつて、その根拠は前記原告中村のところで示したとおりである。

(ニ) 赤田は、川造細胞員で組合の書記長もしていた原告中村と密接な接触を保つていたことがうかがわれるほか、労働課の教育掛に転じた昭和二五年二月以降においては、就業時間中、職務とは関係のないエスペラント語の書物などを読んで時間を費すことがしばしばであつた。赤田がアカハタを配布していたことが認められるが、その態度については、証拠上明かでない。

(ホ) なお、被告は、赤田は、昭和二五年五月賃上闘争に際し、上司より調査掛員として現場の調査を命ぜられたのに対し、その指示に従わず、また、指示に服した場合においてもその調査は極めて杜撰であつたと主張するけれども、赤田は右賃上闘争当時はすでに教育掛に転じていて、調査掛ではなかつたばかりでなく、前掲証人塚本碩春の証言によれば当時赤田が職場委員として出席していた委員会等の模様につき、調査掛が赤田の好意に期待して情報の提供を求めていたにとどまるから、被告の右主張は理由がない。

(3) 以上をまとめて結論すると、赤田は共産主義の支持者であつて、前記労働課調査掛としての職務怠慢ないし放棄は、工場における工員の怠業ないし作業放棄と同様、職員の企業阻害行為というべきであり、これをふくめて以上のごとき赤田の言動は、川造細胞員である原告中村との日常の接触にもとづいて現われた言動と推認されるのであつて、企業の運営を現実に阻害したとともに、企業破壊に対する明白にして差迫つた危険性があるものといわなければならない。したがつて、赤田には、企業防衛上本件解雇に値いする理由があるものといわざるをえない。

(辞職願を提出した原告)

10角谷一雄、11矢田正男、12守谷米松、13久保春雄、14水口保、15石田好春、16神岡三男、17露本忠一について、

(1) 右の者らのうち、守谷をのぞいた他の者はいずれも川造細胞員であり、守谷は共産党員である。矢田と久保は前記越年資金要求および春季賃上闘争当時、組合の専門部長として執行部にあつて、原告中村、元原告宮崎伍郎らとともに「組合グループ」なる細胞組織をつくつていた。

(2) 矢田、久保、神岡、角谷、守谷はいづれも造機工作部所属の工員であり、水口、石田、露本はいづれも電機部所属の工員であるが(工員の点は当審における同人ら各本人の供述により認められる)、前記六、七、八、において詳細に認定したとおり同六、の要約(3)に集録した各事件に積極的に関与し、それぞれそれらの各事件において指導的役割を果したものである。なお、当審における証人名代永一、山田重康、斎藤清照の各証言および前掲乙第一〇二号証の二によれば、水口は、前記原告田中とともに、前掲越年資金要求および春季賃上闘争当時、就業時間中しばしば職場を離脱し、電機工場の工具庫、電池場、組合書記局などにおいて他の細胞員らと談合していたことが認められるほかは、右の者らに対する被告のその他の主張事実(就業時間中のアカハタ、ビラ等の配布、掲示、入党勧誘、職場離脱など)については、これを確認するに足る証拠はない。

(3) 以上をまとめて結論すると、右原告らには、いづれも企業防衛上解雇されてもやむをえない企業阻害的行動があるものといわなければならない。

18 篠原正一

(1) 篠原は川造細胞員である。

(2) 前記六、七、八、に認定した事実に、当審における証人塚本碩春(第二回)、宮本芳晴(第三回)、坂口干雄、中江範親、寺岡二郎、杉本登の各証言および原告篠原本人の供述(一部)ならびに前記乙第九四号証の四の存在を綜合すれば、次の事実が認められる。

篠原は、昭和八年四月会社に入社し、造機工作部機械工場、次いで同部内火工場に各所属する工員であつたが、昭和二二年三月執行委員に選出せられてからは随時組合の文化、情報関係の業務を手伝い、同二三年一月頃から引き続き組合専従書記となつていたものであるが、

(イ) 前記六、の15事件に積極的に関与して、他の細胞員らとともに、集団的職場離脱、集団交渉を煽動し、(暴力事故についても責任を分担すべきであることは、右15事件において認定した)

(ロ) 前記六、の28事件の前座的関連において、昭和二五年五月一三日午後二時二〇分過ぎ頃、約二、三十名の組合員大衆が保安課員の撮影した定時前一斉総退社中の従業員の証拠写真の破棄を要求して保安課事務室に押しかけた際、篠原は、原告谷口、同じ組合書記の野村某らとともに、大衆の代表となり、組合員大衆の圧力を背景にして、保安課の警備掛長宮本芳晴に対し、「写真を撮つた保安課員を出せ」「写真を出せ」と執拗に要求して同掛長を吊し上げ、同掛長をして保安課長寺岡二郎に取次ぐのやむなきに至らしめ、(該事実は篠原に関する情状として斟酌するものである)

(ハ) 篠原は細胞関係の文書の印刷、筆記を担当していたものであり、当審における同人の供述によれば、右に関する作業は自宅でしたというのであるが、かかる細胞関係のビラ、壁新聞の配付、掲示というような政治的活動は会社構内において就業時間中はしないこと、およびその掲示については会社の許可を得ることが職場秩序として定められていたにかかわらず、それら細胞関係のビラ、壁新聞がしばしば会社構内で就業時間中に配布ないし掲示されたのであつて、これに関して篠原はその責任の一半を負うべき筋合いである。さらに、乙第九四号証の四の川造細胞名義のビラ(昭和二四年二月一七日付)は、特別の事情の認められない限り、その印刷には篠原が関与したものと推認されるところ同ビラには、上叙のごとく、「工場には人が死初めた」と題して、労働強化による「生命の搾取が始まつている」旨の会社を中傷する文言がふくまれている。したがつて、かかる中傷的ビラの作成に関与した篠原は、その起案者とともに、その責任を分担しなければならない。

(ニ) 篠原は、原告中村が昭和二五年五月頃労働課雇傭掛に復帰してから、就業時間中しばしば同人のもとで談合していた(なお、アカハタの配付の点も認められるが、右配付の時期、態様が証拠上明かでなく、また、就業時間中の入党勧誘については、これを認めるに足る証拠がないから、これらの点は、本件認定から除外する)。当審における原告篠原本人の供述中右認定に反する部分は、前掲各証拠と対比して信用できないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

(3) 以上をまとめて結論すると、篠原には、企業防衛上解雇されてもやむをえない企業阻害的行動があるものといわざるをえない。

19 西村忠

当審における原告西村本人の供述によれば、西村は、昭和一七年五月会社に入社し、造機工作部第一工作課工具工場に所属する工員であることが認められる。西村が就業時間中アカハタなどを配布した事実を認めるに足る証拠はなく、細胞会議に出席した点については、成立に争のない甲第五号証の三をもつてしても、確たる心証を惹起するに至らない。しかしながら、西村は、前記六、七、八に認定したところに照して明かなように、前記六、の12、13、15各事件、18事件中の午前中の集団交渉とその間における職場離脱、33事件にいづれも積極的に関与し、右各事件に関与した川造細胞員らと行動をともにして、職場の規律と秩序をみだし、企業の運営を著しく阻害したものである。

これらの集団的行動を通じてみるときは、西村は共産党員を支持する同調者であると認めることができるとともに、西村には、企業防衛上解雇されてもやむをえない企業阻害的行動があるものといわなければならない。

20 長谷川正道

当審における原告長谷川本人の供述によれば、長谷川は、昭和二一年五月会社に入社し、電機部無線課、次いで同部電装課に所属し、昭和二四年一二月頃造船工作部の運輸関係へ貸渡されたものである。

ところで、長谷川は、前記六、認定の10、15各事件の集団的行動に加わつていることは、すでに認定したところであるが、同人は右集団的行動に加わつていたというだけで、なんら積極的に画策した事跡も認められないし、参加した集会において発言した形跡もうかがわれない。15事件の綜合事務所内になだれこんだデモにあつても、長谷川は終始同事務所の外にいた。共産党員である室谷治が右15事件に積極的に関与しているとみられることは、すでに認定したところであるが、しかも室谷は本件整理の対象になつていないのであり、この点は、被告が本件弁論において強調しているところであるが(被告の主張五の(一)の2参照)、右室谷と比較して、長谷川の方が右15事件において一層無批判的に行動して企業阻害をなしたというような事情は何一つ存しないのである。さらにまた、右各集団的行動にあつては、これに参加しながら本件整理を受けていない多数の組合員が存在するのであるが、長谷川をそれら多数の組合員から特に識別して共産党員の同調者とみるべき根拠は、長谷川の行動自体からはなんらうかがわれないのである。したがつて、長谷川が右二つの集団的行動に加わつているといつても、その参加の態様からすれば、到底長谷川を共産党員の同調者とみることはできないというほかはない。

当審における証人中田俊一の証言、同証言により成立の認められる乙第四二号証の一(この書証の中で長谷川の項には公安条例反対デモ参加が加えられているが、右デモ参加が組合の指示にもとずくことについては、前記六の5事件参照)、成立に争のない乙第四二号証の二をはじめ、本件にあらわれた全資料をもつてしても、長谷川を同調者と認定するには足りないといわざるをえない。もつとも、成立に争のない甲第五号証の三には、長谷川につき、「党員と常に同一行動をとり、緊密な連絡を保持しつつ、職場大会等では強力に同じ発言をし、共産党より教育指導を受けている。アカハタ又はこれに類する共産党パンフレツトを職場で配つている」と記載されている。しかし、右書証は、本件整理発表直後会社側が被整理者を相手方とした立入禁止等の仮処分申請事件の疎明資料として提出されたものであることが、同書証ならびに成立に争のない甲第五号証の一に徴して明かであり、右甲第五号証の三には、冒頭において、右のごとき記載事項は「平素現場部長よりの報告及関係証人の証言により会社に於て認定したるもので、その一々につき立証し得る証人及資料を有するものである」として、当時の人事課長下堂園辰雄が認証しているものである。しかしながら、本件口頭弁論において多数の証人を詳細にわたつて調べたにかかわらず、右書証に記載されているような事実関係については、なんら立証されていないのであり、この点に前掲原告長谷川本人の供述ならびに当裁判所の前記認定事実を加えて彼此検討すれば、右書証の記載内容の真否について未だ確たる心証を喚起するに至らないのである。

これを要するに、長谷川を共産党員の同調者と認定することはできないとともに、長谷川の右各集団的行動に対する参加の態様は、未だ本件解雇に値いする程度の企業阻害的行動とみることはできないといわなければならない。

ところで、本件整理の準拠法規範に関する上記認定のいずれの見解をとる場合においても、その整理基準の適用のうえからは、共産党員又はその同調者であつても、従業員が企業防衛上解雇に値いする程度の企業阻害的行動をなし、または企業阻害に対する明白にして差迫つた危険性を有する言動をするのでなければ、整理基準に該当しないのである。すなわち、これを同調者に関していえば、集団的行動に対する参加の態様如何によつてそれだけでは解雇に値いしない企業阻害的行動に多数の組合員が参加している場合において、共産党員の同調者と認定されるか否かによつて、整理されるか否かが決定されてはならないのである。しかるに、長谷川に対する本件解雇にあつては、多数の組合員が同一の集団的行動に参加しておりながら、長谷川が同調者と判定されたことによつて、同人が整理の対象になつていることが、叙上の認定に徴して明かである。しかも、同調者という判定の基盤には、共産主義ないし共産党員を支持するという政治的信条に対する思想的契機が介在する。したがつて、長谷川に対する本件解雇においては、使用者が同調者でないのに同調者と誤認して解雇の措置をとつたものであるから、同じ行動に参加した他の多くの組合員の非同調者との関係において、完全に政治的信条による差別的取扱いをしたことに帰着する。かかる政治的信条による差別的解雇は、憲法第一四条、労働基準法第三条の禁止するところであり(この点に関し、被告は、憲法第一四条は、直接労使間を規律するものではないと主張するけれども、憲法第一四条にいう信条には政治的信条もふくまれるところ、かかる政治的信条の自由は、民主主義的国家の基本理念を成すものとして特に尊重されなければならないから、政治的信条の自由を保障した憲法第一四条は直接労使間の関係にも適用されるものというべきである。これに反する被告の右見解は当裁判所の左袒しえないところである)、したがつて、かかる差別的解雇は、右各法条に違反するとともに、民主主義的憲法下における公序良俗に違反するものとして、無効といわなければならない。

かような次第で、長谷川に対する本件解雇の意思表示は、結局、同調者でない者を同調者と誤認して政治的信条による差別的解雇をなしたものであるから、民法第九〇条の公序良俗に違反するものとして無効といわなければならない。したがつて、かかる解雇の意思表示と相当因果関係に立つて詰腹を切らされた長谷川の本件合意退職も亦、公序良俗に違反するものとして、その他の点について判断するまでもなく、無効といわなければならない。

21 上山喬一

上山が昭和二三年二月会社に入社し、電機部工作課所属の工員であることは、当審における原告上山本人の供述に照して明かである。

ところで、上山は前記六認定の15、24各事件に加わつてはいるが、右15事件についていえば、各職場の組合員のいわば総蹶起的な職場大会のあと、先頭集団にいたとはいうものの、同事件を積極的に画策した川造細胞員の煽動と後方の組合員大衆の圧力によつて綜合事務所内の所長室前に至つたものであり、綜合事務所前で坐りこんでいたときも、所長室前に坐りこんでいたときにも、上山がいかなる発言をして積極的に行動したかは、証拠上明かではない。前記原告長谷川に関して触れた共産党員の室谷治との比較において、上山の方がより一層積極的、行動的であつたと認定すべき資料は何もないのである。また24事件についていえば、電機部所属のほとんど全組合員約千二、三百名の参加した同部の職場大会に参加していたものである。もつとも、同大会で吊し上げられた矢野電機部長が右大会の席から退出する際、同部長の後方から吐いた言葉は上司に対する礼を失し、決して穏当とはいえないが、川造細胞員の煽動によつて昂奮状態にまきこまれていたその場の群集心理状態を想到すると、上山の言葉は非礼にわたるとはいえ、その言動自体から直ちに解雇に値いするものとはいえない。のみならず、上山が右職場大会においていかなる発言をしたか、また矢野電機部長に対して川造細胞員が主導してなした吊し上げの際に、上山がなんらかの発言をしたのか、それとも多数の組合員とともにその場に居合わせただけであるのかについては、証拠上明かでない。上山は、原告田中、水口、元原告奥田昭六、平田平ら川造細胞員のごとく、矢野電機部長を職場大会の席へ呼び出しに行つたものではない。また、上山は、右大会のあと定時前一斉総退場するについても、組合の小川副執行委員長の「責任をもつ」との言明を信頼して退場しているのである。さらに、上山の集団的行動参加は、右二回とも極めて多数の組合員の参加している事件であつて、したがつて、右二つの事件には、本件整理を受けていない極めて多数の組合員が存在するのである。電機部内では、前記六に認定したとおり、昭和二四年越年資金要求の前頃から川造細胞員の主導した不法な集団的行動がしばしば繰返えされていたにもかかわらず、上山は前記二つの事件にしか加わつていない。そして、上山は、当審において、「共産党員とは全く関係がない」といい切つている。これらの諸点からすれば、上山が日頃共産党員と行動をともにしていたと認定することは困難である。

もつとも、前掲甲第五号証の三には、上山につき、「全船大会(近畿地区大会)に出席した時、常に宮崎伍郎〈共〉と共に密接に連絡行動し、全労連、大金属脱退か否かの問題で〈共〉派と他の者と明かに二つに分れたとき、〈共〉派として活発に活動した。党員グループ会議(細胞会議)に屡々出席しており、会合のために作業時間中職場を離脱している等」と記載されている。しかしながら、右書証の記載内容については、前記原告長谷川に関して説示したと同様の理由により、未だ確たる心証を喚起するに至らない。のみならず、前掲甲第一三号証(四九頁、五〇頁)によれば、右甲第五号証の三にいう全船大会は、昭和二五年三月二三日から六日間にわたつて大阪の桜宮公会堂で開催された全造船の大会を指すものと思われるが、同大会においては、全造船が当時加盟していた全労連(全国労働組合連絡協議会の略称)および大金属(全金属労組)を脱退するかどうかの組織方針に関する提案をめぐつて、左派系と右派系の各代議員の間に激論が展開され、結局、全労連脱退は否決、大金属脱退は可決と決まつたことが認められる。上山が右全造船大会に代議員として川造分会より出席したものかどうか、川造分会が右大会にそなえて統一的意思決定を打ち出していたのかどうか、証拠上明かでないし、仮りに上山が代議員として出席して、全労連・大金属を脱退するという執行部案に反対の一票を投じたとしても、そのことから直ちに、上山が会社内における共産党員の企業阻害的行動に日頃から同調していたと推論することは許されない。前掲乙第四二号証の一、二、当審証人中田俊一の証言をもつてしても、上山の職場離脱又は「サボ」についての確たる心証を惹起するに至らないのである。

以上の説示に徴すると、上山を共産党員の同調者と認定することはできないとともに、上山の右各集団的行動に対する参加の態様は、未だ本件解雇に値いする程の企業阻害的行動とみることはできないといわなければならない。

したがつて、前記原告長谷川について述べたと同じ理由にもとずき、上山に対する本件解雇の意思表示は、同調者でない者を同調者と誤認して政治的信条による差別的解雇の措置であるから、憲法第一四条、労働基準法第三条に違反するとともに民法第九〇条の公序良俗に違反するものとして、無効といわなければならない。したがつて、かかる解雇の意思表示との相当因果関係において詰腹を切らされた上山の本件合意退職も亦、公序良俗に反するものとして無効といわなければならない。

22 村上寿一

(1) 村上が川造細胞員として登録せられた共産党員であることは、前掲乙第三四号証の一に照して明かである。

(2) 成立に争のない甲第一三号証、乙第八七号証の一と当審における原告村上本人の供述を綜合すれば、「村上は、昭和四年四月会社に入社し、艦船工場電機部電装課所属の工員であつたが、昭和二〇年一二月一日工員より成る前記川崎造船労働組合の結成と同時に書記長に選ばれ、同二一年四月一日書記長に再選せられ、同年六月一日組合長、昭和二二年三月二五日工員と職員を統一した組合の初代支部長、同二三年二月一一日同支部長を歴任し、同年八月二日頃以降昭和二五年六月職場に復帰するまで引き続き全造船近畿協議会の会長に就任して、いずれも組合業務に専従し、その間昭和二二年には兵庫県の地方労働委員に任命せられたこともあり、昭和二三年一二月二四日頃には「共産党への入党を語る、労働組合の政治的前進のために」と題する入党勧告書(乙第八七号証の一)を作成し、自己が日本共産党へ入党するに至つた心境を披瀝するとともに、全造船の大衆に入党勧告を訴えたことが認められる。

しかし、右入党勧告書は、村上が当時における労働問題について政治的関連を考慮することなくしてはもはや解決を期しえないとの心境を吐露することを骨子とするものであつて、右文書自体何等明白にして差迫つた危険性を有するものではなく、政治的信条の表現の自由として許容しうる限界を超えるものではない。

また、村上が右入党勧告書に入党申込書を添えて被告会社の各職場に出入りし、就業時間中入党勧誘を行つたり、壁新聞等を会社構内に無断掲示するなどして、党活動を推進したとの被告の主張を認めるに足る証拠はないし、村上が職場に復帰した昭和二五年六月頃以降において、就業時間中職場を離れて他の従業員に入党勧誘を行つたという被告の主張についても、これを認める何等の証拠もない。

(3) 以上をまとめて結論すると、村上については、川造細胞員という以外に解雇に値いする何等の企業阻害的行動も存しないし、企業阻害に対する明白にして差迫つた危険性のある言動も見当らないのである。したがつて、村上に対する本件解雇の意思表示は、客観的にみて、政治的信条による差別扱いとして憲法第一四条、労働基準法第三条に違反するとともに、民法第九〇条の公序良俗にも違反する無効のものといわなければならない。

そうすると、かかる無効の解雇の意思表示と相当因果関係に立つて詰腹を切らされてなした村上の本件合意退職も亦、所詮公序良俗違反により無効といわなければならない。(なお、憲法第一四条違反の点については、長谷川正道に関して言及した部分をここに引用する。)

一〇、原告橋本、中村、谷口、仲田、田中、遠藤、尾崎、赤田、角谷、矢田、守谷、久保、水口、石田、神岡、露本、篠原、西村の関係

原告は、右原告らに対する本件解雇は、赤田および西村をのぞくその他の原告については、同人らが共産党員であることを理由に、赤田および西村については、同人らが共産党員の同調者であるということだけを理由にしてなされたものであるから、憲法第一四条、労働基準法第三条に違反して無効であると主張するけれども、前記四から九までに認定してきた事実関係ならびに法律関係に当審における証人坂口干雄、中江範親、下堂園辰雄、中田俊一の各証言、被告会社代表者手塚敏雄本人の供述ならびに前記乙第一、二号証、第四二号証の一、二を綜合すれば、被告は右原告らが共産党員又はその同調者という理由で解雇したものではなく、共産党員又はその同調者である右原告らがそれぞれ前記六から九までに認定したごとき、企業阻害的行動をなし、または企業阻害に対する明白にして差迫つた危険性を有することを理由として本件解雇の意思表示をなしたものであることが認められるから、原告の右主張は、右原告らに関する限り、この点においてすでに理由がない。

一一、原告橋本、中村、谷口、仲田、田中、遠藤、尾崎、赤田の関係

原告は、被告の整理基準は就業規則にもとづかず、かつ就業規則の基準に達しないものであつて、結局本件解雇は就業規則に準拠しないから、無効であると主張するけれども、前記九の(一)に説示したとおり、被告の設定した整理基準中企業阻害に対する潜在的ないし間接的危険性をとり上げる部分には問題がないわけではないが、右原告らに関しては、いずれも就業規則第七七条第一項二号によつて企業防衛上解雇に値いする企業阻害的行動または企業阻害に対する明白にして差迫つた危険性が存することは、前記九の(二)において各人別に認定したところであるから、原告の右主張は、右原告らに関する限り理由がない。

一二、前記一〇記載の原告の関係

原告は本件解雇は、原告らが正当な組合活動を活発に推進したことを理由としてなされたものであるから、不当労働行為として無効であると主張するけれども、被告の解雇理由としてあげる事実中、前記六に認定した右原告らの各関与にかかる集団的行動が正当な労働組合活動とはいえないことは、前記八に認定したとおりである。また、前記九で各原告別に認定した前記六認定以外の各事実が正当な組合活動といえないことも、前記六、八、九に説示したところに照して明かであるから、被告がこれらの行動又は言動を理由としてなした本件解雇は不当労働行為を構成しないといわなければならない。原告の右主張はすでにこの点において理由がない。

一三、右一一記載の原告の関係

原告は、本件解雇理由は、懲戒解雇に値いする事由であり、したがつて労使より成る懲罰委員会に諮るべきであり、仮りにかかる委員会がなかつたとしても、労使協議の上で懲戒に付すべきことが社会上要請されるにかかわらず、かかる懲戒手続をふまなかつた本件解雇は就業規則に違反して無効であると主張する。

右原告らに関して、本件認定にかかる解雇事由が懲戒に値いするものであるとしても、原告主張のごとき、労使によつて構成される懲罰委員会の存在を認める証拠はなく、又かかる懲罰委員会が存在しない場合でも、組合と協議することが社会上要請されるとの原告の主張については、これを認むべき法的根拠は存しない。のみならず、本件就業規則(乙第八号証の一、二)を精査すれば、会社の就業規則は、懲戒解雇事由の存する場合は必ず懲戒解雇にしなければならないものとして、固定的に定められたものではなく、たとえ、懲戒解雇事由の存する場合においても、懲戒権を発動するか否かは、使用者側の裁量に任せられ、したがつて、従業員の利益のため予告期間をおいて普通解雇をもつてのぞみ得るものであると解されるとともに、前記就業規則第七七条二号の「やむを得ない業務上の都合による場合」の中には、単に会社側だけの経営上の必要にもとづく解雇ばかりでなく、従業員側の帰責事由を理由の一つとして会社の労務管理上の必要からなされる解雇をもふくむものと解するのが相当である。したがつて、いずれの点からしても、原告の右主張は理由がない。

一四、右一三記載の原告の関係

原告は、本件解雇は一〇五名にのぼる大量解雇であるから、信義則上、組合と協議すべきであるにかかわらず、かかる協議を経由しないでなされた本件解雇は、解雇権の乱用として、無効であると主張するけれども、大量解雇なるがゆえに組合と協議すべきであるとの法的根拠は存しないばかりでなく、事後とはいえ、又抽象的説明に終わつたとはいえ、会社は組合に対して本件整理のやむなきに至つた理由を説明し、組合においても、同調者でないと思われる者の再調査を要望する点をのぞいて本件整理を承認していることは、すでに述べたとおりであるから、本件解雇を解雇権の乱用というのは、当らない。

一五、原告村上に関する被告主張の定年制の抗弁について

被告会社の就業規則に満五五才の定年制の存すること、原告村上がすでに満五五才を超えていることは、当事者間に争なく、成立に争のない乙第八号証の一ないし三と当審における証人永安伸三の証言によると、被告会社の現行就業規則上、従業員は六月末日までに満五五才の定年に達したときは六月末日をもつて、一二月末日までに右定年に達したときは一二月末日をもつて、退職するものとし(第七八条)、定年退職に該当するときは、従業員はその資格を失う(第八〇条)ことが定められていて、会社は右就業規則どおり実施していることが認められる。

原告は、この点につき、被告会社の従業員は定年に達することによつて自動的に退職せしめられるものではなく、定年退職についても当該従業員本人の承諾を要するものであり、又従業員は定年に達した後も継続雇傭される社内慣行があると主張するけれども、これらの主張を認めるに足る証拠はない。前掲証人永安伸三の証言によれば、定年に達した従業員は、一旦退社して本雇傭としての従業員の地位を失い、じご嘱託として採用されることもあるが、それは後任補充を得るまで等の特別の事情の存する場合に限られていることが認められる。したがつて、被告会社にあつては、満五五才の定年に達した従業員は、その定年到来の日時の区別に従い、就業規則所定の前記各期日に自動的に当然退職せしめられ、本雇傭としての従業員たる地位を失うに至るものといわなければならない。

ところで、成立に争のない乙第一〇九号証の一によれば、原告村上が明治三七年一月一〇日生れであることが認められるから、原告村上は昭和三四年一月一〇日の到来とともに満五五才の定年に達し、前記就業規則上、同年六月三〇日限りで自動的に当然退職して被告会社との雇傭関係が終了し、従業員たる地位を失うに至つたものといわなければならない。

原告代理人は、本訴により、従業員としての地位確認のほか、なお原告村上の賃金債権その他の権利、利益を確保せんとするものであるから、本訴を維持する利益があると主張するけれども、原告村上の賃金債権をはじめ、従業員たる地位にともなつて発生していたその他の個々の具体的な権利ないし利益は、本件確認の訴とは訴訟物を異にするばかりでなく、本訴によつて直接かつ当然にその確保を期し得るものではないから、原告代理人の右主張は理由がない。

一六、結論

以上逐一判断してきたところにもとづく当裁判所の結論は次のとおりである。すなわち、

1  原告市田に対する本件解雇は無効といわなければならないから、同原告の本訴請求を認容した原判決は、その結論において正当である。

2  原告遠藤、尾崎、橋本、赤田に対する本件解雇は有効といわなければならないから、これら原告の本訴請求は棄却されるべきものであり、これを認容した原判決は不当として取消をまぬがれない。

3  原告長谷川、上山と被告会社間の合意退職は無効であるから、同原告らの本訴請求を認容した原判決は、その結論において正当である。

4  原告村上と被告会社間の合意退職は無効ではあるが、同原告は上叙のごとく、昭和三四年六月三〇日限りで定年退職し会社の従業員たる地位を失つているから、同原告の本訴請求は結局棄却するほかないのであり、したがつて、その請求を認容した原判決は取消をまぬがれない。

5  原告角谷、矢田、守谷、久保、水口、石田、神岡、露本、篠原、西村については、本件解雇の意思表示を無効とすべき公序良俗違反が認められない以上、同原告らの合意退職はいずれも有効であり、したがつて、同原告らの本訴請求は失当として棄却されるべきであり、これを認容した原判決は不当として取消をまぬがれない。

6  原告中村、谷口、仲田、田中に対する本件解雇は有効といわなければならないから、同原告らの本訴請求を棄却した原判決は、その結論において正当である。

以上の次第で、被告の控訴にかかる昭和三一年(ネ)第四七三号事件について、原判決を変更して主文第一項のとおりとし、原告中村、谷口、仲田、田中の控訴にかかる昭和三一年(ネ)第四七四号事件については、同原告らの控訴を棄却し、訴訟費用については、右昭和三一年(ネ)第四七三号事件の関係で、原告市田、長谷川、上山、村上と被告との間に生じた部分は、一、二審を通じ、被告の負担とし、その他の原告と被告との間に生じた部分は、一、二審を通じ、同原告らの負担とし、右昭和三一年(ネ)第四七四号事件の関係で生じた本件控訴費用は、原告中村、谷口、仲田、田中の各負担とする。よつて、民事訴訟法第三八六条、第三八四条、第九六条、第九二条、第九三条第一項本文、第九〇条、第八九条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 沢栄三 木下忠良 斎藤平伍)

(別紙(一)) 「辞職願提出ならびに予告手当、退職金および餞別金受領の年月日」

氏名

被告の主張

原告の主張

摘要

提出年月日

受領年月日

提出年月日

受領年月日

角谷一雄

昭和二五、一〇、二三

同上

不詳

不詳

篠原正一

昭和二五、一〇、二五

同上ないしその数日後

矢田正男

〃一〇、二三

守谷米松

西村忠

〃一〇、二〇

〃一〇、二一

久保春雄

〃一〇、二三

〃一〇、二〇

以後

水口保

〃一〇、二三

長谷川正道

上山喬一

村上寿一

仮処分申請後

神岡三男

不詳

不詳

露本忠一

〃一〇、一七

昭和二五、一〇、二〇

昭和二五、一〇、二〇

同上ないしその数日後

(別紙(二))

「原告の組合歴」

遠藤忠剛

昭和二一年一月川造職員組合組織準備委員、同組合結成とともに文化部長、その後一時書記長、全造船結成準備委員、その綱領起草委員、数回常任委員。

尾崎辰之助

職員組合の第二、第三期組合長。

角谷一雄

青年部長、宣伝部員、委員、闘争委員を歴任、整理当時委員。

篠原正一

昭和二四年(ただし、仮処分判決では昭和二二年)四月執行委員、文化、宣伝部員として専従、同年一〇月改選後、整理に至るまで、組合書記として書記局で組合事務に専従。

矢田正男

組合結成直後より委員、執行委員を歴任、昭和二四年から同二五年にかけての越年資金、賃上げ闘争当時常任執行委員、後職場議長を重任、整理当時委員、工場委員会議長。

守谷米松

昭和二五年の賃上げ闘争中辞任した職場委員の後任。

西村忠

委員を歴任、整理当時委員、工場委員会議長。

久保春雄

組合結成直後より委員、執行委員を歴任、常任執行委員三回、昭和二四年から同二五年にかけての越年闘争、賃上げ闘争当時常任執行委員、整理当時委員、工場委員会議長。

水口保

昭和二二年青年部幹事、昭和二三年幹事長、同年組合書記局員、評議員数回、整理当時委員。

長谷川正道

なし。

上山喬一

整理当時青年部常任幹事、同厚生係長。

村上寿一

昭和二〇年組合結成とともに書記長、以来昭和二五年六月まで組合長、支部長を歴任、兵庫県地方労働委員会労働委員。

石田好春

委員選出数回、整理当時委員。

神岡三男

執行委員、造機部議長、工場委員会議長を歴任、整理当時委員、工場委員会議長。

露本忠一

委員、電機部委員会副議長、整理当時委員。

橋本広彦

昭和二一年一月職員組合結成、常任書記、同年六月全関西造船労働組合協議会結成、常任委員、同年九月全日本造船労働組合結成、中央常任委員、調査部長、昭和二二年七月同中央執行委員、争議対策部長、昭和二三年五月同中央執行委員、組織部長、昭和二五年四月右組合役員を解かれ復職。

市田謙一

昭和二三年執行委員。

赤田義久

不詳

中村隆三

昭和二四年三月より同年八月まで組合執行委員、文化部長、同二四年八月より同二五年七月まで組合執行委員、書記長。

谷口清治

入社以来工場委員を重任、整理当時委員。

仲田俊明

青年部幹事、同組織係長、第一本山寮々友会副会長を歴任、整理当時職場委員。

田中利治

委員、青年部副部長、整理当時委員、工場委員会議長。

(別紙(三))「事件ないし事項別整理基準該当事実」

一、不法集団事件について(1から34まで)

1 電機部不法デモ事件

被告の主張

昭和二一年六月電機部長小倉淑成の退任にともない、一部電機部従業員の間に若干の動揺があつたが、その際、原告遠藤、元原告の矢野笹雄等の急進分子は、この機会を利用して反幹部闘争を画策実行し、従業員に対して執拗な煽動を行つた。すなわち、同年七月中旬、原告遠藤等は電機部従業員に働きかけ、就業時間中にもかかわらず、同部工員の大半約五〇〇人をして職場を放棄せしめ、みずからも先頭に立ち、「小倉民主オヤヂを助け、手塚タヌキを追い出せ人民政府を樹立せよ」等の不穏なプラカードを押し立て、午前一〇時半頃より約一時間にわたつて不法デモを強行した。デモ隊は太鼓、鐘を乱打しながら、ポンス工場、保安課事務所を経て、綜合事務所内に侵入し、約三〇分にわたつて騒ぎたて、その間執務中の購買課、労務課、庶務課員の事務を完全に中絶せしめ、さらに二階所長室の器物まで損壊する等の暴行に出た。これらの行動は、労働組合とは全く無関係に、もつぱら原告遠藤、前記矢野等の共産党員等により計画され、かつ指導されたものである。

原告の主張に対し、矢野正己工作課長が小倉電機部長の退任反対運動の闘争委員長になつたこと、同課長がこの闘争のあと電機部長に就任したことは、認めるが、同課長が部長に就任したのは、電機部の先任課長でもあり、かたがた部外者の部長就任を電機部の従業員が欲しない点があるのを汲んで行われた人事異動の結果であつて、この事実から直ちに右闘争中に行われた不法デモや原告遠藤の行為を会社がすべて正当なものとみたり、宥怒したものではない。前記矢野笹雄は、昭和一五年七月八日に入社し、その中間において応召したものであり、入社後一カ月の新人というのは、当らない。

本件関係者の主なものは、原告遠藤および前記矢野笹雄。

原告の主張

有能で信望のあつた小倉電機部長は、電機部で組合ができたため、その責を問われて突如退任せしめられたが、その理由のない退任強要には、電機部の労働者ばかりでなく、全職員も反対して立つたものである。この闘争は、当時の矢野工作課長が闘争委員長となつて主導し、役、職員や役付工員が中心となつていたものである。被告のいう矢野笹雄は、当時入社一箇月早々の新まいで、この闘争を主導したものではない。

2 電機部長吊し上げ事件

被告の主張

昭和二二年一二月電機部第一、第二工作課の統合にともない、組の統合、編成替を行うこととなり、矢野電機部長は同月初旬電機部の掛長、掛員、組長等、約四〇名を旧電機部第五工場に集め、組の統合編成替に関する計画、具体的な実施方法等についての説明会を開催し、打ち合せを行つたが、その際、原告田中、元原告石川利次等電機部所属細胞員等は、就業時間中にもかかわらず、一部不平分子を糾合して右説明会に侵入し、説明中の同部長を取り囲み、午後一時頃より同四時頃に至る約三時間にわたつて野次雑言をあびせかけ、吊し上げを行い、遂に会議の続行を不能ならしめた。その後においても、右の者等は、機会あるごとに妨害策動を行い、これがため、編成替は遅延のやむなきに至り、作業の進行は著しく阻害せられた。

本件関係者は、原告の田中、石田、水口のほか、元原告の石川利次、奥田昭六、吉田登、矢野笹雄、窪園賢一。

原告の主張

右事件については、原告等は全く記憶がない。なお、当時、田中、石田、水口、石川、奥田、吉田等はまだ共産党員ではなかつた。

3 扶桑鋼管(現住友金属)摘発隊被検挙者釈放要求デモ事件

被告の主張

昭和二二年一二月二七日青年共産同盟の闘争方針に従い、被告会社内一部青共員は、外部青共員とともに、摘発行動隊を組織し、隠退蔵物資を摘発すると称し、尼崎市の扶桑鋼管製造所に大挙して不法侵入し、同工場スクラップ置場に坐り込みを行い、元原告の上野山光三、日名克己、川崎豊の三名は、これに参加して外部青共員とともに検束留置されたのであつたが、右摘発事件に関して起訴せられた者の公判当日、(黙秘権行使により姓名不詳のため、俗に番号裁判と呼ばれた)、原告水口、角谷等青共員は、たまたま水口が日本青年会議の設立準備委員であつたのを利用し、その結成大会と称して、約五〇名の労組青年部員を煽動し、これを誘導して就業時間中職場放棄せしめ、神戸市生田区善福寺に集合、外部青共員とともに、神戸地方裁判所に対し、赤旗を押し立て、革命歌を高唱して、釈放デモを行わしめた。

原告の主張に対し、右デモ当日の会合が兵庫県民主青年婦人協議会の結成大会であつたとしても、その協議会の性格は、もつぱら共産党系の青年婦人を中心にした組織である。共産党勢力がその内部に確立するまでに至つていなかつた川崎労組がかかる組織に正式に加盟していたとは、当時の情勢下においては信じ難いところであるから、川崎労組青年部が同協議会に正式に参加したとの点を否認する。したがつて従業員の参加について組合の指示があつたわけではないし、原告等も川崎労組青年部幹事として参加したものではない。

本件関係者は、原告の水口、角谷。

原告の主張

当時、電力事情の悪化のため、工場は週二回のいわゆる電休日が行われていた。そこで、各民主団体の催しで電力事情を知るため、尼崎第二発電所の見学が行われたが、その際、扶桑鋼管に石炭の隠退蔵物資があることを知り、この退蔵されている石炭を発電所にまわしてもらい電力事情の緩和をはかることが、話題になり、扶桑鋼管に赴くことになつたのである。元原告の上野山、日名、川崎は、当時新在家にある川崎電機工場に働いていたが、休暇届を出して見学に参加したのであり、検束されたが直ちに釈放され、起訴されていない。

さらに、当時、職場青年を中心とする兵庫県民主青年婦人協議会が組織されつつあつて、川崎労組青年部は、その結成準備委員を出すことになつていて、準備会には常に機関から出席していた。その結成大会はモダン寺(善福寺のこと)で行われ、川造青年部からは約二〇名が選ばれて出席した。いずれも労働組合から各職場の掛長に通じ、外出許可をえて、正規に出席、参加したものである。右大会終了後、当時進行中であつた扶桑鋼管摘発事件の公判の被告人激励と裁判官への陳情について発言があり、一部の人々が参加した。なお、原告角谷は設立準備委員ではない。

4 石原選挙長吊し上げ事件

被告の主張

昭和二三年八月川崎健康保険組合議員の選挙に際して、これに立候補した元原告川崎和靖の選挙ポスターに共産党名の記載があつたので、会社の人事部長で右選挙の選挙長であつた石原健造は、右ポスターの記載が当時の駐在米軍代表ハンダートマークの指示に反することを理由として、その抹消方を連絡したところ、川造細胞の指導的地位にあつた原告遠藤および尾崎の両名は、その頃就業時間中にもかかわらず、無断で所長室や部長室に侵入し、石原選挙長に対し、「憲法違反だ。言論の自由弾圧だ。極東委員会の問題にするぞ。」などと、数回にわたり、脅迫的言辞を弄して同選挙長を難詰し、吊し上げを行つた。

本件関係者は原告の遠藤と尾崎。

5 公安条例反対デモ事件

被告の主張

(1) 公安条例反対暴力デモ事件

昭和二四年五月一九日神戸市会において公安条例が上程審議せられた際、共産党を中心として反対デモが行われたが、元原告の宮崎伍郎は、会社従業員三七名をしてこれに参加せしめ、さらに同日午後〇時五〇分頃デモ隊よりの応援要請に対し、原告久保をはじめ電機部造機部の細胞員は、一部従業員をともない、就業時間中にもかかわらず、会社の承認を得ることなく、集団的に職場を離脱し、右デモに参加した。本件デモ参加は、組合の指令に基くものではなく、原告石田、久保、田中、矢田、元原告宮崎等の細胞員が中心となつて、共産党の方針に従つて、職場の従業員に働きかけ、職場離脱を起こさしめたものである。

原告の主張に対し、川造労組が原告主張の共闘会議に参加していたかどうかは兎に角として、組合が前記デモに組合員を参加せしめる指令を出したことはない。元原告宮崎伍郎は、執行委員長大宮宗三郎の指示に従つて各職場委員に動員を要請したと供述しているが、当時の執行委員長は、大宮ではなく、古田槌生であつたから、大宮の指示があつたとしても、それは組合の正式機関の指示ではない。

本件参加者は、原告の久保、石田、田中、矢田、長谷川、上山のほか、元原告の宮崎伍郎、浅田義美、上野山光三、平田平、長谷川義雄、大西恵、日名克己、村上文男、庭田一雄、須藤実。

(2) 公安条例反対被検挙者釈放要求デモ事件

右五月一九日にデモ隊が警官隊と衝突し、共産党員の原告矢田、元原告の須藤実が公務執行妨害罪で検挙されたが、同年五月二一日、右被検挙者等の釈放を要求するため、原告尾崎をはじめ細胞員が中心となり、会社従業員を煽動し、同日午後一時頃就業時間中にもかかわらず、ほしいままに集団的に職場離脱を行わしめ、神戸市役所、警察署、拘置所に対しデモを敢行した。

原告の主張に対し、原告尾崎が当時組合員でなかつたことは認める。右釈放要求デモが組合の行動であつたことを否認する。組合員でない尾崎が右デモに参加しているところに、かえつて本件デモが組合運動として行われたものではなく、一部共産党系分子の指導によつて発生したものであるという性格が露呈されている。仮りに、右釈放に関し、組合も協力的であつたとしても、就業時間中多数の従業員をして無断で職場を離脱せしめた行為を正当な組合活動となし得ないのであつて、右職場離脱に指導的役割を果した原告等の行為は生産阻害行為に該当する。

本件参加者は、原告の尾崎、角谷、石田、仲田のほか、元原告の小林時則、松尾正男、青野日出男、平田平、高橋敏雄、川崎豊、村上文男、日名克己。

原告の主張

右(1)の事件について

この公安条例は、資本攻勢をはねかえそうとする労働階級の勢力を分散させ、労働者の権利であるデモ等の自由を奪わんとする弾圧悪法であるとして、県下の産別、総同盟、中立の各労組は、兵庫県公安条例反対共闘協議会を結成した。川崎労組ももとより参加した。反対デモにはこれら各労組から動員された五〇〇余名の者が参加したが、川崎労組からの参加者は、いずれも組合、会社の許可を得て公然と参加している。元原告の宮崎伍郎は、当時組合の組織部長であつて、組合の機関として、組合員の参加を指示したものである。

原告の久保、長谷川のほか、元原告の宮崎伍郎、長谷川義雄、浅田義美は参加していない。原告上山も就職時間中は本件反対闘争に参加していない。

右(2)事件について

原告矢田は、右デモに関し、公務執行妨害罪で起訴されたが(須藤は起訴されなかつた)、組合は矢田の給与を保障し、また組合の救済規程により救援資金を支給した。共闘協議会は被検挙者の釈放要求運動を起こし、川崎労組も職場で救援カンパを起こすとともに、街頭における署名運動、警察への抗議を行つた。抗議等のため社外へ出るに際しては、職場の掛長の許可を得たことはもとよりである。要するに、公安条例反対闘争は組合の決定であり、細胞員がこそこそ策動する理由のないものである。

なお、原告尾崎は当時組合員ではなく、右事件と関係はなかつた。

6 泉州工場暴行事件

被告の主張

会社は昭和二四年四月、終戦時なお未完成であつた大阪府泉南郡多奈川町所在の泉州工場を閉鎖することとし、同工場従業員約二、三〇〇名中約一、二〇〇名を神戸の本社工場へ転勤、約一、一〇〇名を解雇することとなつた。その際、同工場従業員は、最初は閉鎖やむなしと認めていたのに、全造船本部の役員であつた原告橋本は、地方共産党員および同工場の他の党員等と密接な連絡の下に従業員を煽動し、問題の紛争化に努め、その指導により、遂に同年四月より同年六月末に至るまで工場閉鎖反対の争議を敢行せしめたが、右争議に当つて、就業時間中のデモや窓ガラス、ドア等を破壊するなどの暴力行為が行われた。

原告の主張に対し、原告橋本が暴力行為に出た以上、仮りに同原告の行動が全造船の指示によるものであつたとしても、同原告の右行為は正当化されるものではない。

本件関係者は原告橋本のほか、元原告の国本利男、本清甚助。

原告の主張

泉州工場閉鎖については、泉州工場分会は最後のぎりぎりまで反対し、従業員の主婦まで立ち上つた。この工場閉鎖問題については、神戸、岡田浦の各分会も参加、反対し、五月三〇日には川崎労組として非常宣言を発している。また、全造船本部も重視し、泉州対策委員会を設け、六月初旬原告橋本は、右委員会の決定により現地に赴いたものであり、約一週間で大宮委員長と交替して東京に帰つたものである。右の次第で、原告橋本の行動は組合活動である。なお、暴行があつたとしても、同原告の全然関与しないところである。

7 青年部白旗事件

被告の主張

昭和二四年六月末、組合青年部が白地に青模様の部旗を作成したことに関連し、党市委員会よりの指令に基き、原告の田中、西岡、元原告の須藤実等青年共産同盟員は、これを赤一色にすることを要求し、元原告宮崎伍郎等一部細胞員ともども青年層に働きかけ、同月末から翌年にかけて、或は無断で就業時間中に職場を離脱して会合し、或は休憩時間を超えても会合を解散せしめず、各所において職場の規律をみだし、著しく作業に支障を与えた。右に関し、現場各所属長はしばしば注意警告を与えたが、何等改められるところがなかつた。

原告の主張に対し、原告水口は二一才、同上山は二〇才、元原告石川は二四才で、いずれも青年部員であつた。

本件関係者は、原告の田中、仲田、水口、長谷川、上山、西村、角谷のほか、元原告の西岡良太郎、須藤実、笠原禎吉、平松一生、上野山光三、日名克己、庭田一雄、川崎豊、石川利次、奥田昭六、窪園賢一、平田平、岡山昭、松本昇、藤瀬勇、高橋敏雄、小林時則、大西恵、浅田義美、宮崎伍郎。

原告の主張

青年部に白の部旗が作られたことは認める。この白旗は、一部の幹部の間で制定されたので、職場の青年達が非常識だと不平をいつていたことも事実である。しかし、特に反対運動はなかつた。ただ一回、工具工場で昼の休憩時間に青年部幹部(原告等ではなく、当時青年部は菊旗同志会の人達が幹部の多数を占めていた)一名が出席し、懇談会がもたれ、説明があつたのみである。

なお、原告の水口、上山のほか、元原告の平松、石川、岡山、松本、藤瀬、小林、大西、宮崎は青年部員ではなく、何等関与していない。

8 電機部における配置転換、組編成替妨害策動事件

被告の主張

会社は、昭和二四年三月以来電機部門の工事量が逐次減少するに至つたので、経営上の不況を打開するべく、剰員の配置転換について組合と協議を重ね、同年九月二七日勤続三年未満の者約一七〇名を造船、造機両部門に配置転換することに協定が成立した。会社は当初から剰員の配置転換を行うだけで、整理はしない方針を明言していた。しかるに、原告の田中等電機部所属細胞員等は、配置転換は首切りに通ずる道であるなどと、言葉巧みにデマ宣伝を行い、配転予定者に対し、その心理的動揺を醸成するとともに、配置転換を集団的に拒否するよう煽動して、配置転換の円滑な遂行を妨げ、そのため同年九月中に完了の予定であつた右配置転換は著しく遅延し、同年一二月中旬漸く完了するに至つた。原告等の右行為は極めて悪質な業務阻害行為である。

原告の主張に対し、右配置転換の時期が昭和二五年四月下旬の春季賃上闘争中に発生したという事件発生時期に関する原告の主張は、全く誤りであり、したがつて、右闘争中であることを前提とする原告の主張も誤つている。

本件関係者の主な者は、原告の田中、水口、石田、谷口のほか、元原告の平田平、中村義八郎、吉田登、石川利次、松本昇、窪園賢一、奥田昭六、長谷川義雄。

原告のこの点に対する主張は、次の9事件で一括して記載する。

9 電機部掛員吊し上げ事件

被告の主張

会社は、電機部門における前記配置転換にともない、昭和二四年末頃電機部工作課機械掛の組編成替を行うこととなり、組合の承認を得たことは勿論、その対象となつていた浜吉組、高見組所属のほとんどすべての従業員も組編成替について了承していたにかかわらず、この措置をもつて、「労働強化をはかるものであり、これに応ずることは資本家の搾取の餌食になるものである」等、殊更会社の方針に反し或は歪曲して組の編成替に反対するよう呼びかけたアジビラが、電機工場にある会社掲示板に無断掲示された。そこで、電機部工作課機械掛員橘年一が上司の河辺光明工作課長の命により右掲示を撤去したところ、原告水口を先頭に電機部所属細胞員の原告田中等六、七名は、就業時間中にもかかわらず、作業を放棄して事務所に押しかけ、橘掛員を取り巻き、同人を威圧し、「何故取りはずしたか、謝罪文を書け」などと約三〇分にわたり吊し上げを行つた。

右吊し上げを行つた者がすべて川造細胞員であること、右関係者のすべてが編成替の対象となつていなかつたこと、および本件組編成替に対する組合の態度等に照し、本件が原告等細胞員によつて殊更職制に難癖をつけ、職場の混乱を惹起する意図をもつて画策実行されたものであることが、明かである。

本件関係者は、原告の水口、田中ほか、元原告の小黒栄一、窪園賢一、吉田登、藤瀬勇。

原告の8および9両事件に対する主張

被告のいう組の編成替は、一四組と五一組との合併に関するものと思われるが、それは昭和二四年末頃ではなく、昭和二五年四月下旬に起つたものである。当時の春季賃上闘争中に突然一方的に右編成替が押しつけられたので、五一組の組合員が憤慨し、掛長や課長に説明を要求した。配置転換については、組合は本人の意思によらない犠牲者は出さない方針の下に会社と種々交渉し、組編成替についても、課長、掛長と組当事者との間で、時間外に懇談会をもち、十分話し合つた。

被告のいう掲示ビラは、五一組の署名で作成されたもので、これは従来から電機部の組合役員が使用していた掲示板に貼られたものであつた。右ビラが剥がされたことを知つた組合員は憤激し、掛員に説明を求めたところ、掛員は、今後は無断で剥がさない旨答えた。

昭和二四年越年資金要求に際しての不法諸事件

「昭和二四年一一月、組合は会社に対し、越年資金要求を提出したが、右要求に関して、川造細胞員による不法デモ、吊し上げ等が連日のごとくひん発し、そのため作業工程の攪乱は勿論、器物損壊等の暴力行為の発生をみるに至つた」と、被告は主張し、左記の10から15までの事件を挙げる。

10 電機部工作課長吊し上げ事件

被告の主張

昭和二四年一二月一日、原告田中、元原告石川利次等電機部所属細胞員等は、午後〇時三〇分頃より電機部工員約五〇〇名を同部工場の横にある材木置場に参集せしめ、巧妙に煽動して同会合へ電機部長の出席を求めることを申し合わしめた。そこで、右田中、石川をはじめ、原告水口、元原告の奥田昭六、岡山昭等は、そのため電機部事務所に行つたが、部長不在のため、電機部工作課長河辺光明に対し、強圧的態度で右会合への出席を強要し、むりやりに同課長を前記材木置場に連行し、右田中、石川、元原告の吉田登等が中心となつて、同課長を取り囲み、「越年資金回答を六日にすることを確答せよ」などと、該事項につき何等の権限を有しない同課長を約一時間にわたつて吊し上げた。このため、同日午後の始業は約一時間遅延した。これは組合の指令に基くものではなく、一部細胞員によつて、ただ職制の吊し上げのみを目的として行われたものである。

本件関係者は、原告の田中、水口、露本、長谷川のほか、元原告の石川、平田平、松本昇、吉田登、奥田昭六、長谷川義雄、高橋敏雄。

原告の主張

右事実については、記憶がない。

11 電機部および造機工作部不法デモ事件

被告の主張

昭和二四年一二月二日正午すぎ頃、原告田中等を中心とする電機部ならびに造機工作部所属細胞員は同部従業員約七〇〇名を煽動してデモ行進を開始せしめ、プラカードを先頭に数職場を行進し、午後〇時四〇分頃綜合事務所前に到着、約三〇分にわたり喚声あげてデモを行い、午後の始業開始時刻に至つても解散せず、約三〇分にわたり、無断で職場を放棄せしめた。

原告の主張に対し、本件デモは組合の指令によらないものであり、さらに就業時間にくいこむことまでが組合の指示又は方針であつたものでもない。

本件の主導者は、原告田中のほか、元原告の窪園賢一、吉田登、庭田一雄、日名克己、上野山光三。

原告の主張

電機部から綜合事務所前に至る間のデモを行つたが、各職場の闘争委員会が闘争の指導を行つたもので、これは組合の方針とする職場闘争であり、委員長は二木氏であつた。

12 造機工作部不法デモ事件

被告の主張

昭和二四年一二月三日、造機工作部工具工場においては、原告仲田、元原告浅田義美等を中心とする同職場細胞員の画策により、午後の始業報と同時に約一〇〇名の従業員が集まつて会合がもたれたが、原告等は、同日行われた造船工作部従業員の不法デモの場合と同様、同会合においてデモ行進を行うことを申し合わせしめ、まず、第一、第二、第三組立工場に向いデモ行進を行つた。第一組立工場においては、元原告の日名克己、松尾正男等同職場所属細胞員が、第二第三組立工場(内火工場)においては、元原告の庭田一雄、梅野浩司等同職場所属細胞員が中心となつて、これに呼応し、一部従業員を煽動してこれに合流せしめた。さらに機械工場の職場細胞員をもふくめ、ポンス工場を経て綜合事務所前に至るまでデモを行つた後、組合事務所前に至つて気勢をあげた。そのとき、組合事務所にいた元原告の矢野笹雄はそのデモに呼応し、「皆様の団結にこたえるよう越年資金闘争を闘い抜く」旨挨拶を行い、気勢をそえたが、原告等はその後再びデモを行いつつ、工具工場前に至り解散した。このため、同職場においては、午後の作業開始に三〇分以上遅延した。右デモならびに職場放棄は組合の指示に基かず、原告等過激分子の指導によるものである。

本件関係者は原告の仲田、西村、久保、矢田、守谷、中村のほか、元原告の浅田義美、小林時則、船橋政雄、日名克己、松尾正男、庭田一雄、川崎豊、梅野浩司、三種松一、元矢清作、矢野笹雄、宮崎伍郎。

原告の主張

当日の造機工作部のデモは、工具工場の単独デモで、組立工場には関係がなかつた。なお、当時浅田義美は工具工場出身の執行委員であつたが、中江労務課長と交渉し、時間延長分の賃金差引をしないことの諒解を得た。被告の指摘する本件関係者中、仲田、西村、浅田、小林、船橋をのぞくその他の者は、工具工場の者ではなく、したがつて、右デモには関与していない。

13 造機工作部不法デモ事件

被告の主張

造機工作部においては、同年一二月六日、原告仲田、前記浅田等同部所属細胞員が中心となり、就業時間中にもかかわらず、同日午前一〇時一五分頃より工具工場従業員を煽動してデモ行進を起こさしめ、作業中の機械、第一組立、製罐、銅工の各工場を通り、従業員の参加を勧誘、煽動した。そのとき、機械工場においては、原告神岡、元原告の大西恵等同職場所属細胞員の煽動により就業時間中開催された無断職場会合の終了直後であつたが、そのままデモに合流し、第一組立工場に押しかけた。第一組立工場においては、前記上野山、日名等同職場所属細胞員の煽動により一部従業員の参加をみ、その他製罐、銅工工場等の従業員をも糾合し、各大挙して綜合事務所前に至り、デモを行い、午前一一時すぎ頃漸く解散した。

右職場離脱、職場会合、デモ行進は、組合の正式機関の決定によるものではなく、越年資金要求に対し当日午前中に行われる予定であつた会社回答がやむを得ない事情で午後に延ばされたことに関連して、各職場における共産党系従業員がこれを不当に歪めて、従業員を煽動し、闘争を激化させようと意図したものであつて、著しく職場の秩序をみだすものである。

本件関係者は、原告の仲田、西村、神岡、角谷、守谷、久保のほか、元原告の前記浅田、船橋、大西、小林、平松、上野山、日名、松尾、庭田、川崎、梅野、元矢、池崎種松、塚本武夫。

原告の主張

記憶に残らないが、当時は各職場において大会が連日のごとくもたれ、又各職場においてデモを行つた。これらは、組合の指示と職場闘争等委員会の決定によるものである。

14 造機工作部職場会合引延ばし事件

被告の主張

同年一二月一四日、造機工作部においては、昼休み時、約三〇〇名の従業員が集まり、職場の会合がもたれたが、同会合には執行部グループ所属細胞員の原告の矢田、久保、元原告の宮崎伍郎、村上文男の四名が出席して煽動的演説を行い、これに対し、同工作部所属細胞員の原告谷口が職場の代表と称してこれを鞭撻する演説を行い、そのため同工場の午後の始業は、三〇分以上遅延せしめられた。

原告の主張に対し、越年資金の金額については、一二月六日の会社の回答通り妥結し、一二月一五日には金額の一部を支給するに至つたほどであるから、右事件発生当時には越年闘争の主たる問題は、すでに片づいていたのである。したがつて、この段階において会社が回答を延期したり、誠意ある回答をしないなどという原告の主張は、何等根拠のないものである。また、造機工作部の従業員は約一、五〇〇名であつたから、本件の会合は、正式の造機工作部の大会でなかつたのであり、仮りに形式上、右職場会合が一応職場の従業員の意思によつたものだとしても、それは、組合の指令によるものではなく、しかもその会合をして就業時間にくいこませる結果を招来するに至つた原動力が原告等にある以上、その行為は会社の業務阻害行為に該当するといわなければならない。

本件関係者は、原告の矢田、久保、谷口のほか、前記宮崎、村上。

原告の主張

はつきり記憶に残らないが、会社は回答を延期したり、誠意ある回答をしないため、各職場は職場大会を開き、執行部により経過説明をきいたり、執行部を激励していたものである。

15 所長室前座り込み、暴行、集団職場離脱事件

被告の主張

同年一二月一六日、当日予定されていた越年資金に関する会社回答に対し、あらかじめ会社に威圧を加え、殊更従業員の闘争意欲を煽り、闘争の激化紛糾を目的として、各職場細胞員を中心とする急進分子によつて、各種のデモが企画された。すなわち、同日正午頃造機工作部においては、原告神岡、元原告の小林時則等の煽動により同職場所属細胞員が中心となつて、さらに造船、電機、修繕その他の職場においても、それぞれの職場所属細胞員の指導によつて、約一、〇〇〇名近くの従業員を綜合事務所前に集合せしめ、気勢をあげしめた。

しかるところ、午後の始業報によりデモ参加者が解散せんとするのをみるや、原告等は、躍起となつてこれらを呼びとめ、残つた四、五百名の従業員に対し、元原告の青野日出男、庁泰助、村上文男等細胞員はこもごも立つて会社の態度を不誠意なりとして誣い、誹謗し、或は「会社の説明している数字はデツチアゲだ。われわれは会社にだまされてはならない。会社のいうことを信用していては、われわれは自滅のほかはない」とか、或は「越年資金闘争の敗北は、われわれ労働者にとつて死を意味する。われわれは会社の経理状況、会社の将来を考える必要はない。労働者の勝利があるのみだ……」などと会社を誹謗して大衆の気勢を煽り、遂には、たまたま同所に進行してきた占領軍のジープの前に坐り込んで、これを阻止するなどの挙に出でしめた。

さらに、一部の原告等は、デモ隊を誘導し、喚声をあげて綜合事務所内に乱入し、保安課員や組合執行委員等の極力制止するのを排して、階上になだれこみ、所長室前の通路一面に坐りこみ、所長に対して集団交渉を執拗に強要して午後三時すぎに及び、その間、会社はしばしば同所を退去して直ちに就業するよう命令し、組合の仙波執行委員長も解散するよう説得したが、原告等はこれに応ぜず、遂に占領軍代表部のランドベツクの解散命令が出るに至つて、漸く解散退去した。しかも、退去に際しては、同事務所玄関の名札掛、タイムレコーダー、玄関および洗面所附近の窓ガラスを破壊するなどの暴力行為まで恣にした。

この事件により、被告の業務は著しく阻害され、じごの作業に重大な支障を与えた。

原告の主張に対し、本件は、組合の指令によるものでないことは勿論、偶発的なものでもなく、共産党系分子の企画と煽動によるものである。本件の発生理由として原告があげる点についていえば、越年資金については、上叙のとおり、一二月六日会社の回答通り妥結しており、前日の一二月一五日には、その一部の支給すら行われているのであり、したがつて一六日における組合との交渉は、細部についての事務的な若干の問題を残したにすぎなかつたのであるから、かかる細部的事項に関し、従業員大衆が自発的に大挙して右のごとき行動を起こすなどいうことは、到底考えられないところであり、さらに、会社が同日午前一〇時の回答を延ばした事実はなく、当日の団交は、当初からの約束に基き、午後から開くことに決められていたものである。

本件関係者は、原告の矢田、久保、仲田、谷口、角谷、篠原、神岡、西村、守谷、石田、上山、水口、露本、長谷川、田中のほか、元原告の前記青野、須藤、庭田、村上、松尾、上野山、日名、庁、小林、平松、矢野、川崎、塚本、船橋、池崎、元矢、岡山、奥田、窪園、石川、平田、長谷川、松本、宮崎、石野市太郎、沖合善一、笠原禎吉、岡本利男、河上清春、佐藤満、北川実、中西多喜夫、本清甚助。

原告の主張

越年資金の要求に対し、会社は再三再四回答を延期し、又は回答は要求に程遠いものであり、その誠意を疑う全組合員は、すでに、一二月も半ばを過ぎた一六日の回答に大きな期待をかけていた。しかも、約束された午前一〇時の回答も正午に延ばされたことを知つた。正午を期して一齊に開かれた各職場の大会では、組合幹部にのみ任せず、組合員全員で回答をきこうと大会を打ち切り、全員が綜合事務所前に集まつた。その数約四、〇〇〇名。しかるに、会社は定刻の回答時間にも組合執行部との面会を拒み、回答を与ようとしないので、組合員は組合幹部を叱責し、会社の不誠意に激怒し、あとからあとからと押し寄せる組合員のため、前部にいた組合員は押し出され、階上に難を避けたのであるが、その際、狭隘な所にあつたタイムレコーダーや窓ガラスが若干破損した。(この破損に対しては、後に組合は会社に謝罪の意を表し、解決した。)組合執行部は、激怒し難詰する組合を極力慰撫し、事故の拡大を防止した。原告等のうち、交渉委員であつた者以外の大部分は、階上に上らなかつた。

これを要するに、本件は、会社が約束の一〇時に回答を与ていたならば、起こらなかつたであろうし、又執行部の制止の努力がなかつたならば、事故はずつと拡大していたであろう。いずれにしても、原告等に責任はない。

昭和二五年春季五割賃上要求ならびにこれに対する闘争戦術転換に際しての不法諸事件

「昭和二五年三月から同年五月にかけて、組合は会社に対し、当時の八、〇〇〇円ベースの五割賃上闘争を展開したが、原告等川造細胞は闘争の長期化ならびに会社幹部と従業員間の離間をねらつて、不法な職場闘争戦術を積極的に採用して職場の攪乱を図り、さらに、従業員間に執行部に対する批判的空気が醸成して平和交渉方式へ戦術転換がなされるに際して、不法な諸事件を起こした」として、被告は16から34までの事件を挙げる。

16 造船工作部集団職場放棄総退社事件

被告の主張

組合は昭和二五年四月二五日、「午後六時以降の残業は放棄する」旨の指令を発していたが、同日午後、元原告の宮崎伍郎、青野日出男、須藤実、石野市太郎等細胞員は、造船工作部仕上施盤職場における職場会合に当り、右組合指令に反し、大衆を煽動して午後四時一齊退社の提案を行い、参加者をしてこれを申し合せしめた。よつて、現場掛長は、直ちに、午後六時までは作業するよう業務命令を発し、その旨工場内二カ所に掲示する一方、組合に対しても善処方を連絡したところ、組合からは小川副委員長が来て、職場従業員に対し「組合の統制に従つてもらいたい」旨要請した。しかるに、前記の者等はこれを無視し、さらに従業員を煽動して遂に一齊総退社を実施せしめるに至つた。

翌朝、担当掛員は職場全員に前記不法集団職場放棄につき、厳重訓戒を行つたところ、前記の者等は、「お前も組合員ではないか。組合員なら大目にみたらどうだ。会社の手先になつていると、為にならぬぞ」等、脅迫的言辞を吐いて反撥した。

本件関係者は、前記宮崎、青野、須藤、石野。

原告の主張

青野、須藤、石野等は、撓鉄工場の職場闘争委員で仕上旋盤職場とは職場が違い、本件に関与せず、又知らない。訓戒されたこともない。

17 ファンマノー号作業員不法集団職場放棄ならびに外業長吊し上げ事件

被告の主張

昭和二五年五月、被告会社の新造輸出船ファンマノー号は大阪の日立造船築港工場に入渠して艤装中であつたが、右工事に当つては、日立造船からの要望もあつて、同工事に従事する作業員には、被告会社の労働課において特に通門証を発行し、又組合関係者その他の者が同船に赴く場合には、その都度労働課に申請し、会社より通門証を交付することになつていて、組合もこれを熟知していた。しかるに、川造細胞員の原告矢田、久保の両名は、同年五月一〇日午後一時頃、通門証なきため、同工場守衛より入門を拒否せられたにかかわらず、「前日負傷した組合員の負傷状況を調査するため、同工場労組事務所へ行く必要がある」と守衛をいつわつて入門し、警備中の保安課員が阻止するのを排してファンマノー号に不法侵入し、折から午後の作業に従事しようとしていた従業員に対し職場集会を呼びかけ、これを強行した。

右職場会合において、右両名は、「会社は労働強化によつて皆を搾取しようとしている」とか、「会社やその代弁者はわれわれを人間扱いしていない」などと発言して、従業員の不平不満の醸成に努めるとともに、その場の野次的発言を直ちに現場作業員の要求としてとり上げ、これを決議と称し、「決議に対する外業長の回答を皆で聞こう」と従業員を煽動して作業に就かしめず、かえつて、みずから三、四十名の作業員の先頭に立ち、赤旗を押し立てて前部船橋に設けられた外業事務所に赴き、折柄作業打ち合わせ中の外業長吉田俊夫に対し、「要求があるからデッキに出てくれ」と強要し、原告矢田は、他の数名とともに、同外業長を実力をもつて同事務所前タラップより中央部甲板上に拉し来り、さらに多数で包囲のうえ、二時間余にわたつて同外業長を吊し上げた。その間、前記原告両名は、巧みに従業員を煽動しその圧力を利用して、外業長に対し「通勤往復の時間を労働時間として四時間分の割増賃金を支給せよ。工事出張日当(五〇円)を倍額増額せよ。飯を山盛にせよ」等の要求を出し、外業長が「右事項はいずれも自己の権限外であるから、組合を通じて会社と交渉してもらいたい」と答えるや、原告矢田は、「外業長は誠意がない。ごまかそうとしている。外業長はわれわれの敵だ」などと難詰して従業員大衆をアジり、これに呼応して従業員中からも「ごまかすな」「やつてしまえ」「叩きのばせ」などという過激な発言も出て、さらに同日の賃金の補償を求める等、暴力的交渉に終始した。同外業長は、右のごとき状況下において約二時間の長きにわたつて吊し上げを受け、身の危険すらも感ずるに至つたので、やむをえず、その場において、これらの要求を容認して事態の一応の収拾をはからざるをえない状態に陥つたほどである。

翌五月一一日午前八時一〇分頃、原告矢田は、再び前記日立築港工場に赴き、入場中の従業員に対し、自分が入場を拒否せられたら、作業を放棄して正門前に集合するよう、メガホンをもつて呼びかけ、その結果、約四〇名の従業員が職場を放棄して下船せんとするに至つた。よつて、吉田外業長は、保安課員をして右従業員に対し、厳重に就業を命じ、下船を中止せしむべく、極力努めたが、原告矢田は再度、同工場内に侵入し、メガホンをもつて、即時職場集会の開催を煽動した。同外業長は「昨日の要求については、すでに掲示してあるとおり、全部会社の諒解を得た。もう問題はない筈だから、速かに作業に就くよう」に命じたが、矢田は「あれで解決したと思つているのか、手当の支給日は何日か確約せよ」などと執拗に迫り、押問答の末、漸く解散した。

フアンマノー号は、わが国における戦後はじめての大型輸出船として、再建途上にある被告会社にとつては勿論、わが国造船界の声価と国際的信用をかけた重要工事であつたのであるが、前記原告等は、その重要性を熟知しておりながら、あえて恣に同船に侵入するなどして、就業時間中従業員を煽動して職場を混乱せしめ、会社の緊急作業を著しく阻害したものである。

原告の主張に対し、当時会社と組合との間に争議状態が発生していたことは事実であるが、組合はフアンマノー号の作業に従事していた機装掛の従業員に対して、五月九、一〇日の両日の定時退社を指令したことはなく、原告等の行為は組合の指令に基いたものではない。原告等が右行為をもつて組合活動の証左とするところの甲第一一号証の一、二の組合情報部速報は、組合執行部全体に諮つたものではなく、細胞員である原告久保が組合の情報宣伝部長の地位を利用して流した独自の見解にすぎないから、右書証は原告等の組合活動を証する資料となしえない。仮りに、原告等が組合の指令伝達のため同船に派遣されたものであるとしても、就業時間中恣に職場の要求を職制に提出し、長時間にわたつて職制を吊し上げ、要求の即時承認を迫るがごとき行為を煽動することは、正当な組合活動とはいえない。会社が本件の要求をのまざるをえなかつた理由は、フアンマノー号の作業を短期に仕上げなければならない事情におかれていたこと、ならびに日立造船より同構内においてこのような紛争を起こさないでもらいたい旨の強い要請があつたことなどから、やむをえず認めたものであつて、要求自体の合理性を容認したものではない。

本件関係者は、原告の矢田、久保。

原告の主張

フアンマノー号の作業に従事している組合員に組合の指令伝達のため、五月九日、青年部長の訴外水島務が赴いたが、入門を拒否され、空しく帰えつてきた。そこで組合執行部は、再度、渉外部長の原告矢田および情報宣伝部長の原告久保の両名を派遣したのである。右両名も亦入門を拒否されたので、全造船に加盟する築港労組に電話連絡し、組合活動を阻止する経営者や保安掛の不当を訴え、同労組の協力を得て、保安掛の承認の下に入門し、昼休みの休憩時間に同労組幹事の案内でフアンマノー号に赴いた。当時、会社は島川第二工作課長および煎本掛長の二人が全組合員を集合させて徹夜作業を強制中であつたが、全組合員は原告両名を拍子して迎え、右両名が組合の指令を伝達するや、組合員はフアンマノー号作業の強行による不平不満を叫び、一、特別日当一〇〇円をよこせ、一、飯を山盛りにせよ等の要求を全員一致で決議し、外業長に要求することになつた。外業長もこれらの要求のもつともであることを認め、会社の担当幹事に伝えるべく、原告両名とともに神戸へ帰えつたのである。翌五月一一日、原告矢田は回答に立会うべく、組合の命で再び同工場に赴いた。しかるに、再び入門を拒否されたが、折柄入門中の組合員は、おれ達が皆で迎えに来るといつて、入門したが、やがて連絡があつたので、保安掛が原告矢田の入門を許した。

要するに、原告等の行動は組合の命による行動であり、入門も保安掛の承認の下に公然と行つたものである。被告の行為こそ、組合活動を不法に侵害するものである。

18 造機工作部工務課長面会強要ならびに集団総退社事件

被告の主張

(イ) 昭和二五年五月一二日午前九時頃、元原告松尾正男をはじめ造機部所属細胞員等約五〇名は、職場従業員の先頭に立ち、就業時間中にもかかわらず、職場を離脱し、造機工作部長室に行き、同部長に面会を求めた。部長不在のため、工務課長古河幸雄が代つて面会したところ、主として前記細胞員が前日の職場会合の申し合わせに基いて、執拗にホッピング作業に対する夜勤手当支給を要求した。同課長は「かような問題は労働課の所管だから、回答できない。ただし上司には伝えておく」旨回答したが、右の者等は諒解せず、約一時間の押問答の末、午前一〇時になつて漸く解散した。

(ロ) 右解散後も同人等は依然職場に復帰せず、そのまま全員組合事務所に赴いたが、正午前再び古河工務課長に面会を要求し、「夜勤手当に加えてさらに残業手当および徹夜手当を支給せよ」との新たな要求を提出し、午後二時までにその回答をなすべき旨を求めた。

(ハ) 同日午後二時二〇分頃、同人等は三たび古河工務課長に面会し、前記の回答を求めたが、同課長より「本件は自分の権限外の事でもあるし、又部長も不在であるから、回答できない。かかる要求は担当の労働課に申し出られたい」旨回答したところ、同人等は、一齊に課長に誠意がないと難詰し、直ちに機械、第一組立工場および第二、第三組立工場(内火工場)に赴き、これら工場工員全員に対し、即時総退社するよう煽動し、その結果、同工場従業員は午後二時半頃一斉に退社するに至つた。

これら集団交渉ならびに総退社は、組合指令に基くものではなく、右は全く川造細胞等が殊更組合活動に擬装した恣意的行動である。元来夜勤手当等の増額要求については、組合の諸機関に諮つたうえ、組合執行部より会社に対して組合の要求として提出せらるべきものであつて、各職場が恣意的にそれぞれの決議を行い、何等の権限を有しない現場の部課長に要求するがごときことは、許されないところである。したがつて、仮りに、本件が組合活動として行われたものであつたとしても、正当の範囲を著しく逸脱した違法なものである。

本件関係者は、原告の谷口、神岡、角谷、仲田、守谷、西村のほか、元原告の前記松尾、小林、池崎、村上、大西、上野山、川崎(豊)、庭田、梅野、元矢、平松、塚本、浅田。

原告の主張

(イ)(ロ)について、

造機部闘争委員会は、所属長に対し、組合要求の速かな解決を促進すべく会社幹部に助言してもらうことを決議し、造機部長に面会を求めたが、不在のため、古河工務課長が代つて話をきくとのことであつたので、闘争委員会は賃上要求の正当性ならびに職場における組合員の不満解消につき速かなる解決を会社幹部担当者ならびに所長に要請してもらいたい旨を告げたのである。

(ハ)について

職場闘争委員会は造機部の幹部の誠意なき態度を組合員に報告し、職場大会がこれに対し総退社を決議したものである。なお機械工場では退社は行われなかつた。

19 造機工作部機械工場一斎総退社事件

被告の主張

昭和二五年五月一三日、造機工作部機械工場においては、午後四時の定時退社、残業拒否の組合指令を受けたところ、原告神岡、前記小林時則等同職場細胞員は、職場委員の地位を利用し、就業時間中無断で職場委員会を開催し、午後の作業を全面的に放棄する旨の決定を行い、さらに同日午後職場の従業員を集め、「会社は職制を通じて圧迫を加えてきているが、これに対し、組合執行部は甚だ弱腰で、まかしておれない。今日の午後四時退社の組合指令のごとき生ぬるい態度では到底闘つてゆけない。今から直ちに全員総退社を行つて会社の圧迫を粉砕しよう」などと、こもごも従業員を煽動し、遂に午後一時半頃組合指令すら無視して、他工場にデモ行進を行いつつ、一斉総退社を行わしめた。

本件関係者は、原告の神岡、角谷のほか、前記小林、池崎、大西、平松。

原告の主張

組合の闘争方針により職場闘争が盛り上げられ、退社も行われたのであり、これらの退社は、組合も認め、会社も賃金を差引き、何等警告も懲戒も行わずに済んでいたものである。なお、当日は電機部においても闘争委員会の決定で退社が行われたが、これは組合の方針の統一していた証左である。

20 造機工作部製罐工場一斉総退社事件

被告の主張

右同日、造機工作部の製罐工場においては、二時間以上の残業放棄の組合指令が出されていたにかかわらず、就業時間中無断で職場会合を開催し、右組合指令を無視して午後四時退社を決議し、その後前記機械工場の一斉総退社をみるや、原告谷口、前記宮崎伍郎等細胞は、直ちに製罐工場従業員を煽動し、前記機械工場従業員に合流して同日午後一時半頃総退社を行わしめた。

本件関係者は、原告の谷口、守谷のほか、元原告の前記宮崎、元矢、三種松一。

原告の主張

これに対する答弁は、前記19の場合と同様である。

21 造機工作部機装および内火工場一斉総退社事件

被告の主張

右同日、造機工作部の機装および内火工場においては、原告久保、矢田、前記庭田一雄等細胞員が出席し、昼休時以降就業時間に至るも職場を放棄せしめて職場会合を行つていたが、前記機械、製罐工場の総退社に呼応して、従業員を煽動し、右会合を終了するとともに、午後一時半頃一斉総退社を行つた。

原告の主張に対し、仮りに本件の総退社が職場集会の決議でなされたような形が外観上とられたとしても、組合の指令によらず、職場が単独で恣意的に総退社を行うようなことは、組合活動として正当なものと評価しえない。

本件関係者は、原告久保、矢田のほか、前記庭田。

(以上19ないし21の事件により造機工作部においては、五月一三日の作業は完全に中絶のやむなきに至り、作業の遂行に著しい支障を生じた)

原告の主張

これに対する答弁は、前記19の場合と同様である。

22 電機部貸渡し拒否煽動事件

被告の主張

昭和二五年五月、電機部より造機工作部製罐工場へ緊急工事応援のための貸渡しにつき、同月一一日工員二一名が準備中、原告田中、前記石川利次等、電機部所属細胞員数名は、これらの者を運輸職場控室に連行し、同人等に対し、「仕事がなくなつたからとか、忙しいからとかいつて、まるで犬の仔のように扱われて黙つているのか」などと、約半時間にわたつて、極力集団拒否するよう強要し、ために同人等の工事応援のためにする貸渡しを著しく遅延せしめた。

原告の主張に対し、本件配転(貸渡し)に当つて、会社は極めて慎重な態度をもつてのぞみ、特に人選については、転換者の技能その他の点を考慮して勤続三年未満の従業員に一応これを限定する方針を立て、しかも右基準該当者中個々につき、本人の意向をただし、希望者のみをこれに充当することとした。したがつて、転換を命ぜられた従業員達は、当時仕事量が少く縮少の過程にあつた電機部より受注量の多い造機工作部の製罐部門へ移ることを、従業員としての将来の安定性ならびに当面の残業増加による収入増などを期待してよろこんでいたのが、実情であつた。本来部内の貸渡しについては、作業の繁閑に応じ、しばしば行われているところであり、その場合一々組合と協議するという方法はとつていなかつたのであるが、本件については、他部門への貸渡しである関係もあつて、事前に労働課を通じて組合に通知し、組合もこれを了解していたものである。したがつて、本件原告等の行動は組合としての行動ではない。

本件関係者は、原告田中、水口のほか、前記石川、吉田、松本。

原告の主張

本件配転については、組合に話し合いもなく、しかも闘争中に突然一方的に行われたので、当事者達が反対したり、組合としてこれをとり上げることは、当然である。配転につき、組合は、本人の意思を尊重すること、組合と協議することを申し出ていたのである。

23 電機部長ならびに工作課長吊し上げ事件

被告の主張

昭和二五年五月一二日午後三時三〇分頃、電機部長室において、矢野部長と河辺工作課長が要談中、原告水口、田中、前記石川等電機部所属細胞員は、原告谷口、角谷、前記宮崎、松尾等造機部所属細胞員等とともに、就業時間中にもかかわらず、職場を放棄して突如部長室に乱入し、同部長および課長を包囲し、電機部より造機部への配置転換問題(前記22参照)について難詰し、中でも原告谷口は石油罐を叩きながら部長の背後を走りまわつて威圧を加え、発言の余裕さえ与えず、約一時間にわたつて吊し上げを行つた。

原告の主張に対し、本件の行動は、原告等細胞の職場びん乱的行動であつて、組合の方針に基いた活動ではない。この点は前記22参照。

本件関係者は原告水口、田中、谷口、角谷のほか、前記矢野笹雄、石川、宮崎、松尾。

原告の主張

右に対する答弁は、前記22事件と同様である。なお、部長室は狭いので、石油罐を叩きまわることはできない。

24 電機部長吊し上げならびに集団総退社事件

被告の主張

翌五月一三日正午過ぎより開催した電機部従業員の職場会合において、原告水口、田中、前記石川等、電機部所属細胞員等は、参集した同部従業員約一、二〇〇名に対し、賃上闘争および前記電機部従業員の貸渡し問題に関連して、「会社のいうがままになつて、いま外堀を埋めると、次には内堀を埋めねばならなくなる。次には首を切られるぞ」「貸渡しに反対しないと首切りが来る」「ここで闘わぬと首切りだ」などと煽動的な発言を行い、始業時刻に至るも解散せしめず、さらに「われわれが貸渡しに反対しているのに、部長はやろうとしている。部長を呼んでその理由を聞こうではないか」と発言し、右会合に矢野部長の出席答弁を強要した。同部長は、これを拒否し、速かに解散就業するよう命じたが、原告等は肯んぜず、原告田中、水口等が同部長を集会の席上へ連行した。同部長は右貸渡しのやむをえない理由を述べてその協力を要請したところ、原告等はこれに罵詈雑言を浴びせ、口々に貸渡しの撤回と拒否を叫び、数十分にわたつて同部長を吊し上げた。

かくて、同部長が説明を終わり退席しようとしたところ、前記田中、水口、石川等は、「おい、こら!」「矢野の馬鹿野郎!逃げるな!」などと罵言を浴びせ、原告田中は電機部事務所に通ずる階段のところまで部長を追いかけ、同部長の上着の裾を掴んで引き戻そうとした。同部長がこれを振り切つて退出するや、原告田中、水口等は、「あの通り会社は誠意がない。会社に思い知らせるため、本日は全員総退社だ」と巧みに煽動し、遂に午後二時四〇分頃全員デモ行進を行いつつ、不法にも総退社を行つた。

本件退社は、職場会合の明確な決議もなく、勿論組合の指令に基くものでもないのであつて、原告等細胞員およびその支持者が中心となつて画策実行した違法な職場闘争の一齣である。

本件関係者は、原告田中、水口、石田、露本、上山のほか、元原告の前記石川、岡山、奥田、高橋、松本、平田、小黒栄一、河上清春、中村義八郎。

原告の主張

職場大会で矢野電機部長に出席してもらつて話そうとの提案があり、部長も応諾して出席した。しかし、部長は一言で引き揚げようとしたので、会場から口々に声が上つた。原告田中、水口の発言は作り話である。

25 造船工作部次長ならびに工務課長吊し上げ事件

被告の主張

同年五月一二日、昼休時より元原告須藤実等、造船部所属細胞およびその同調者が中心となり、第三現図工場において職場集会を開催したが、右集会において、細胞員等は巧みに従業員を煽動或は誘導して無許可のまま午後二時頃まで集会をつづけた後、さらに「われわれの声を聞いてもらうため」と称し、造船工作部長の出席を求める旨の提案を行い、元原告の西岡良太郎、青野日出男等約一〇名は部長の出席を求めるため同部長室に押しかけたが、部長不在のため、代つて長谷川鍵二次長の出席を強要した。

同次長は「就業時間中であるから、直ちに解散して就業するよう」命じたが、同人等は「出席してもらわぬことには大衆が納得しない」といつて、約一時間余にわたり、出席を強要してやまず、押問答の末、同次長はやむなく島本工務課長をともない、右職場集会に赴いたところ、右元原告等急進分子は「あれは泉州工場にいた島本だ、やつつけろ」などと、その場にいた約七〇〇名の従業員を煽動、両名を壇上に上げ、罵詈雑言を浴びせるとともに、何等春季闘争とは関係のない熔接工の配置転換問題をとらえて、約半時間にわたり両名を監視し、吊し上げた。右両名は午後四時頃になつて漸く脱出することを得たが、このため、当日午後は完全に作業不能のまま終わつた。

本件関係者は、元原告西岡のほか、前記須藤、青野、庁、笠原、石野、沖合。

原告の主張

記憶がない。

26 ホッピングおよびプラノミラ機械作業妨害事件

被告の主張

ホッピング機械作業というのは、ホッピングマシンにより舶用タービンの減速歯車の歯切りを行う作業であるが、減速歯車には非常に高い精度が要求されるため、ホッピングマシンは定温の室内に設置し、作業関係者以外の立入は厳禁していた。特に仕上げ加工中は、機械の性質上、製品が完成するまで運転を中止することができないので、昼夜連続に運転する等、特別の措置がとられていた。造機工作部機械工場の生命ともいうべき、ホッピングおよびプラノミラの機械作業は、その機械の性質上、このように運転を中止することができないため、スト中と雖も、これを除外することの労使間の慣行が確立していた。しかるに、原告神岡、角谷等細胞員は、昭和二五年三月以降たえずその作業を妨害し、作業の継続に重大な支障を与えた。ことに、五月一三日における造機工作部機械工場の一斉総退社(前記19事件)に際しては、原告等の煽動、妨害により、ホッピング機械の作業員も作業を放棄するのやむなきに至り、遂にその作業を中止するに至らしめた。

本件関係者は、原告神岡、角谷のほか、前記村上(文男)、小林、大西。

原告の主張

ホッピングは電機工場にあり、プラノミラは機械工場にある。ホッピングは切削作業中は運転中止をすることができない。五月一三日の半日ストの際も、作業従事者は運転したまま、安全装置を施して退場し、組合員である佐川掛長は残つて機械の監視に当つており、作業は停止されなかつた。プラノミラは、平常時でも、食事中は運転を停止することになつていた。したがつて、この両機械について、作業を妨害したり、重大な支障を与えたことはない。また、被告のいうような労使間の慣行があつたわけではない。

27 職員代表吊し上げ事件

被告の主張

昭和二五年五月、前記春季賃上げ闘争が交渉も行われないまま、いたずらに長期化、激化したため、心ある組合員の中には、団体交渉再開による平和交渉を切望する者が少なくなかつたが、当時の労組の赤色執行部は依然その方針を改めるところがなかつた。そこで、組合員である各部所属の職員は、同年五月一三日昼休時、紛争の早期平和的解決を労組執行部に要求することを決議し、造船、造機両部の職員代表山本登、三木秀太郎等九名が組合事務所に赴き、仙波執行委員長に決議文を朗読して手交したところへ、突如、原告谷口、矢田、角谷、元原告の宮崎伍郎、小林時則、青野日出男、村上文男等細胞員を先頭に約二〇名が組合事務所に乱入し、仙波執行委員長、小川副委員長の制止を排し、前記職員代表に対し、「分裂主義者(裏切り者)をぶち殺せ」「決議文を撤回しろ」などと怒号し、職員代表を三階の組合事務所の窓際に押しつけるなどの暴行を働いた。

たまたま同時刻頃、造機、電機両工場において原告等細胞員の画策煽動による不法総退社(前記19、20、21、24の各事件参照)実施中のデモ隊が組合事務所前に至り、気勢を挙げつつあつたが、前記原告等は、右職員代表の決議文提出を知つて「さらし首にしろ」などと怒号するデモ隊と相呼応して、職員代表を階下に引きずり下ろし、玄関横に整列させ、組合員大衆の面前で、散々侮辱を加えたうえ、大衆の圧力を利用して、職員代表に対し、謝罪を強要し、遂に決議文を燃却するの余儀なきに至らしめた。

前記原告等はさらに造機部職員代表六名を再び組合事務所へ拉し、前記村上、青野等は「お前達がおれ達の職場離脱を報告するのだろう」「二度とこんな真似をすると、お前らばかりでなく、女房子供の命もないぞ」などと、口々に脅迫し、午後四時頃に至るまで吊し上げを行つた。

原告の主張に対し、いかなる事情があるにせよ、暴力によつて自己の主張を貫徹することは、法上絶対に許されない。又職員代表の行動は何等組合民主主義に反するものではない。組合員はいついかなる場合においても、自己の意思を執行部に表明する権利を有するものであつて、それが争議中であることの故のみをもつて奪われるということはない。もとより、かかる場合において、組合の指令や決定を無視してこれに反する行動をとることは、許されないが、組合の方針に関し適切を欠くと判断した組合員がその意思を組合に表明してその方針を変える手続を求めることは、組合員として当然の行為であつて、これをとらえて組合民主主義の原則を裏切るというがごときは、不当な言いがかりに過ぎない。本件の職員代表の行為は、組合員である職員の総意により行われたものであり、会社の利益に連なる反組合的行為というのは不当である。

本件関係者は、原告谷口、矢田、角谷のほか、前記西岡、青野、村上、宮崎、松尾、小林。

原告の主張

春季賃上げ闘争が長期化し、組合は戦術転換を行つたけれども、長期化の原因は、会社の不誠意にある。組合事務所に来た職員代表と称する人達は、職制に連なる人々であり、組合の組織上の手続(職場大会や職場闘争委員会)を経ないものであつた。組合は組織上の決定が変更されるまでは、その決定に従つて行動すべきであり、ことに闘争中はこの原則を守るのが、組合民主主義の原則である。右職員代表の言動は、この原則を裏切るもので、批判されなければならない。デモ中の組合員が怒るのも当然である。なお、村上、宮崎は組合の常任執行委員で、専門部長として組合事務所に常駐するものであり、又青野は委員で闘争中であるから、これらの者が組合事務所に出入するのは、当然である。

28 証拠写真破棄強要事件

被告の主張

右同日、造機工作部および電機部の各従業員は、それに関係した原告等細胞員の煽動により一斉総退社し(前記19、20、21、24各事件参照)、デモ行進を行いつつ、正門にさしかかつた。その際、一保安課員が会社事務所二階よりデモ隊の実況を撮影したところ、原告谷口等はこれをとがめ、一同の先頭に立ち、多数をもつて保安課長に面会を強要し、保安課入口で気勢をあげた。原告矢田、谷口等細胞員は、自らデモ隊の代表と称して同課長に対し、該保安課員を大衆の前に出し、謝罪せしめるよう強要したが、同課長がこれを拒否したので、さらに大衆の面前でフイルムを焼却することを要求した。同課長は、右原告等の煽動により周囲の情勢が険悪化したので、やむなく大衆の面前に出て焼却したところ、デモ隊は午後四時頃漸く解散した。

右は、原告等が自己の不法行為の証拠を残すことをおそれ、保安課員の正当な職務行為としての証拠取材活動を実力をもつて抑圧したものである。

原告の主張に対し、不法なデモないし退社が行われている以上、右に関する状況を撮影し、人事管理上必要な証拠を保存することは、保安課員の正当な職務執行であり、これをとらえて不純な意図をもつものとなすことはできない。本件の抗議は組合としての抗議ではないし、その正当性を認めることはできない。

本件関係者は、原告矢田、谷口。

原告の主張

「証拠写真」と被告自らがいうように、かかる写真をとることは、異例であり、不純な意図をもつものとして、組合は抗議することとなつたのであるが、保安課長もこれを認めて焼却したのである。面会強要も強制もない。

29 造機工作部長室座り込み面会強要事件

被告の主張

同年五月一五日午前九時頃、原告久保および前記村上文男は、組合執行委員たる地位を利用して造機工作部機装工場に赴き、就業時間中にもかかわらず、久保司会の下に職場集会を開催した。席上、久保は自ら提案して、「汚い所で仕事をさせられて作業服も汚れるのに、洗濯する金もない。汚れ作業手当と危険作業手当の即時増額を要求しよう」などと巧みに従業員に呼びかけて煽動し、同部機装課第一機装掛長辻井誉をその席上に連行して執拗に右各手当の増額を要求し、同掛長の回答を要求した。

次いで、同人等は、右要求に関し、従業員に対して、部長の回答を求めようと提案して煽動し、同工場工員全員とさらに途中より職場を無断離脱して右職場会合に参加した機械、第一組立工場および第二、第三組立工場(内火工場)の職場細胞員たる原告神岡、前記池崎種松等を中心とする機械、右各組立工場工員若干名を加え、総勢約一五〇名で、いやがる辻井掛長を擁しつつ、ワツシヨイワツシヨイの喚声をあげ、造機工作部長室までデモ行進を行つた。

かくて、久保は、機装工場工員の先頭に立ち、部長室に侵入し、面会を強要、「代表を出せ」と主張する古河工務課長の要求を拒否して午前一〇時すぎまで約一時間にわたつて全員を同室床上に座り込ませた。その後においても、久保、村上ほか五名は申入をつづけていたが、本件職場会合および面会強要によつて、造機工作部の作業は、ほとんど半日中絶せしめられるに至つた。

原告の主張に対し、本件職場大会は組合の指示に基くものではない。又当時、組合が闘争方針として、それぞれの職場が組合の指令によらずに独自に就業時間中職場放棄や集会を行うことを許容していた事実はない。本件手当の要求は、職場の組合員の自発的要求ではなく、原告久保等の煽動によつて提起されたものである。しかも、その要求にかかる手当等は、全社的な労慟条件に関するものであり、執行部が団交において解決すべきものであつて、これを職場苦情と同一視することはできない。辻井掛長は、本件要求の妥当性を認めたことはない。同掛長は、右要求に対し、就業時間中であるから解散するよう、再三説得し、又手当等の増額要求については、自分の権限外であるとして、これを拒否したのである。このような本来執行部を通じて会社と交渉すべき事項の要求の実現を、職場単独の意思をもつて、就業時間中に、しかも何等の権限を有しない現場の部課長に対し、多衆をもつて交渉するがごとき行為は、仮りに組合活動であつたとしても、著しく正当性を欠くものといわなければならない。

本件関係者は、原告久保、神岡、角谷、仲田、谷口、守谷のほか、前記村上(文男)、池崎、大西、小林、平松、上野山、松尾、庭田、梅野、川崎、日名、三種。

原告の主張

右機装工場の職場大会は組合の闘争方針に基いて開かれたもので、原告久保および前記村上文男は、組合専従の執行委員として、職場の要求により、これに参加したのである。右大会は、労働基準法に定める汚れ作業手当および危険作業手当等の増額、改善の要求を組合員の動議により決議した。その際、組合員は、これらの要求につき、職場掛長の意見を求めた。掛長も組合員であり、大会に参加していた。辻井掛長は、これらの要求の妥当であることを認めながらも、積極的に部長に面会し進言することをしぶつたので、組合員は全員参加して直接部長に面会することに決したのであつた。

部長室では、古河課長が応接に当つたが、威圧的態度で「代表を出せ」といつたので、全組合員は憤慨し、全員が代表だと反対し、遂に同課長もこれを認めざるをえなかつたのである。

原告久保等についていえば、組合専従執行委員が闘争中職場大会に参加し、報告や説明をし、組合員の行動の先頭に立つことは、当然のことである。

30 修繕部長吊し上げ事件

被告の主張

被告会社は、修繕船雪川丸工事遅延のため、船主より同船の引渡を要請され、工事途中において引渡のやむなきに至つた。この工事遅延は、従業員の残業拒否等によつて招来されたものであるにかかわらず、元原告の佐藤満、本清甚助、小山竹二等修繕部所属細胞員を中心とする一部急進分子は、右引渡後に修繕部の従業員間に執行部の闘争方針に対して批判的空気が強くなつているのをそらすため、同年五月一六日午後、就業時間中にもかかわらず、修繕部長室に押しかけ、「雪川丸を引渡したのは会社の責任だ、幹部が無能だからだ」「雪川丸が出て残業できなくなつたから、減収分を補償せよ」などと、約半時間にわたつて、修繕部長を難詰し、吊し上げた。

本件関係者は、前記佐藤、本清、小山。

原告の主帳

雪川丸の工事遅延の責任は会社にある。

31 大金属オルグ侵入事件

被告の主張

前記27の職員代表吊し上げ事件以降、一般組合員の執行部に対する批判がさらに高まるにともない、これに対抗せんとする原告等川造細胞の紛争長期化策動は、益々露骨となるとともに、日共系外部団体の応援も亦一段と激化した。同年五月一六日正午頃原告矢田および前記村上文男の両名が大金属兵庫支部オルグ(日共党員)の工場内侵入を誘導しようとするのを、警備中の保安課員が発見し、これを拒否したところ、前記両名は右オルグ三名に不法にも被告会社の従業員バツジを着用せしめ、別路より工場内に入場させ、保安課員の制止にもかかわらず、工場内でアジ演説をさせた。(当時、会社は賠償工場に指定され、かつ占領軍の管理工場となつていたため、会社構内には特に封鎖線が設けられ、特別に許可した者のほか、外来者の工場内立入は厳禁し、組合関係の外来者を特に立ち入らせる必要があるときは、組合より労働課に申請し、その許可を受け、その都度外来者用のバツジを着用せしめることにしていたものである。)

本件関係者は、原告矢田のほか、前記村上文男。

原告の主張

争議中に他の労組員が激励や応援に来ることは、ありふれたことであり、珍らしいことではない。又組合がこれを歓迎することも当然である。他組合が激励に来たとき、これを拒否することは、ありえないことである。

32 電気部職場会合引き延ばし、作業放棄事件

被告の主張

同年五月一六日、全職員職場大会において、闘争続行可否に関する全職員無記名投票が行われ、一、一七〇票対一八七票の圧倒的多数をもつて、平和交渉移行が可決せられ、翌一七日開催予定の組合委員会に動議として提出されることになつた。かかる情勢に当面し、原告田中、前記石川利次等電機部所属細胞員等は、同年五月一七日昼休時に電機工場東入口職札場附近に電機部の従業員を集合せしめ、「和平は首切りに通ずる」などと、真相を極端に歪曲して闘争継続を煽動したのみでなく、「これ以上の長期闘争は無理である。戦術転換をすべきである」などと発言する一般組合員に対しては、「裏切り者」「会社の犬」などと罵倒してその発言を妨害し、原告等において、「賃上げ闘争は賃上げだけが目的でなく、米英の植民地化反対闘争につながるのだ、吉田反動政府に対する闘いだ、戦術転換などもつてのほかだ」などと、こもごも発言して、午後の始業時刻に至つても就業せしめず、午後の作業を約一時間以上にわたつて放棄せしめた。この作業放棄は、主として原告等が春季賃上げ闘争を政治闘争に直結しようとする党の方針に従つて大衆を煽動した結果にほかならない。

本件関係者は、原告田中、水口、石田、上山のほか、前記石川、奥田、松本、平田、長谷川(義雄)。

原告の主張

組合の決定を変更するについては、多くの意見と論議がなされるのが当然であり、ことに組合員にとつて切実で妥当と考える賃上げの要求であり、しかも長期にわたつて苦闘した方針を変更しようとするのであるから、論議が紛糾するのも当然である。被告のいうように、原告等の独断で勝手にするものなら、長期の闘争にも堪えないし、又変更の決定も簡単になされたであろう。会社の思うようにならないすべてを、少数の原告等の責任にするのは、民主的な組合を侮蔑するものである。

33 外部団体歓迎集団職場離脱事件

被告の主張

前記平和交渉移行方針は同年五月一七日の組合委員総会において可決せられるに至り、さらに同月二〇日全員投票によつてその可否を決することとなつた。かねて、極左的闘争方針を支持していた日共は、この情勢に焦慮し、県委員会はじめ共産党系労組たる尼崎自由労組、大谷重工、電産兵庫支部、和光純薬兵庫県支部等を動員し、当日の全員投票を多数の圧力をもつてけん制するべく、同日朝、約一〇〇名にのぼる人員を会社正門道路上に集結せしめ、数十本の赤旗をかかげ、出動する被告会社従業員に対し、或いはメガホンを通じ、或いはビラを配付して、「本日の全員投票においては、分裂主義者の策動に乗ぜられず、資本家に一大鉄槌を加えよ」との趣旨の呼びかけをなし、紛争の長期化を煽動激励するところがあつた。

同日午前八時始業サイレンの吹鳴後、これら外部団体中約五〇名は、組合に面会の要ありと称して、守衛の阻止を実力で排除しつつ、正門内に侵入して来たが、原告等川造細胞員はこれと呼応し、外部団体の歓迎と称して、現場従業員を煽動し、会社の制止を排して就業時間中にもかかわらず、多数の従業員をして職場離脱を行わしめた。

すなわち、造機工作部においては、原告矢田、前記村上文男等細胞員の先導により、作業中の従業員百数十名は、職場を放棄してデモ行進をはじめ、作業中の各工場をデモしつつ、正門に至つた。さらに、造船工作部においては、前記須藤実等細胞員が先頭に立ち、従業員を煽動し、約一〇〇名が職場を放棄してデモに参加した。右のほか、他の職場においても、原告等の煽動が行われ、職場を放棄した従業員の数は合計約三〇〇名にのぼつたが、これらは、いずれも原告等の指揮の下に歓迎デモと称し、正門に至るまでデモ行進を行つた。

かくして、正門前においては、全金属労組代表、電産兵庫支部代表と原告矢田との間に挨拶の交換が行われ、気勢をあげたが、その間被告会社の労組の仙波委員長および藤本執行委員は、数度にわたり原告等を制し、デモ参加者の職場復帰を勧告したが、原告等はこれをきかず、かえつて、原告中村に至つては、「おれが責任をもつから、大いにやれ」などと、逆に大衆を煽動し、午前九時頃に至るまでデモを継続した。このため、同日の作業計画は変更を余儀なくせられ、じごの作業に著しい支障を生じた。

本件は、組合の指令下に行われたものではなく、原告等細胞員の過激分子が春季賃上げ闘争の長期化、政治闘争化を企図して従業員を煽動し、党関係の分子が内外相呼応して惹起したものである。

本件関係者は、原告中村、矢田、西村、守谷、仲田のほか、元原告の前記村上(文男)、西岡、船橋、三種、元矢、池崎、日名、須藤、青野、石野、北川実。

原告の主張

前記31事件における答弁と同様である。

34 造機工作部職場会合引延ばし事件

被告の主張

昭和二五年七月二九日昼休時に、造機工作部機械工場において職場会合が開催せられたが、その際、原告谷口、神岡、守谷、前記松尾、宮崎等細胞員は、賃上問題について組合のとつている平和交渉方式を論難攻撃し、速かに実力闘争に移行すべきである等の発言を行つて、大衆を煽動し、就業時刻にくいこんでもやめようとしなかつた。この就業時間中の職場会合につき、かねがね不満批判をもつていた組合員より、就業時間中の職場会合をやめるよう、緊急動議が提出されたところ、前記谷口、松尾等は、これに対し、「職場の会合は労働者の権利であるから、就業時間と否とを考える必要はない、そのような考えは、すでに資本家の謀略に乗ぜられているものである」などと、職場会合の続行を煽動、遂に約四〇〇名の従業員を約一時間にわたつて職場放棄せしめた。

本件関係者は、原告谷口、神岡、守谷のほか、前期松尾、宮崎。

原告の主張

本件に対する答弁は、前記32事件と同様である。

二、不法、不当な日常活動(35から40まで)

35 就業時間中の入党勧誘

被告の主張

原告等は、以上1ないし34の各種事件の機会を利用して党員の獲得に努めたばかりでなく、平素においても、就業時間中無断で職場を離れ、或いは従業員に入党申込書を配付し、或いは作業員に手当り次第に話しかけて長時間にわたり話し込み、執拗に入党を勧誘した。入党勧誘を行つた者は、党員である原告の全員であるが、就中特に積極的であつた原告は、左のとおりである。

原告遠藤、谷口、仲田、角谷、神岡、石田、水口、村上、橋本。

原告の主張

就業時間中に作業している者に対して入党勧誘した事実を否認する。

36 就業時間中における党機関紙の配布等

被告の主張

終戦後より昭和二三年末頃までは、党機関紙「赤旗」の配布は、もつぱら原告遠藤を中心として原告角谷、元原告の平田平などが担当し、就業時中たると否とを問わず全工場に配布していた。昭和二四年頃よりは、右の平田が代つて担当者となり、一括受領し、組合書記であつた原告篠原が組合事務所において各職場に分類のうえ、それぞれの職場の原告等細胞員により全工場に配布せられた。その配布は、購読料や党費の徴収とともに、就業時間中公然と作業を放棄して行われ、職場の秩序は完全に無視された。

これらの配布ならびに徴収に関与した者は、原告のほとんど全員であるが、特に積極的にこれを行つた原告は、左のとおりである。

原告遠藤、尾崎、橋本、角谷、中村、谷口、仲田、田中、矢田、久保、上山、村上、露本、市田、赤田。

原告の主張

党機関紙「赤旗」の配布は行つたが、就業時間中作業を放棄して行つたことはない。

37 不穏なアジビラ等の無断配布、掲示

被告の主張

原告等は、常に不穏不当の記事を掲げた壁新聞や激越なアジビラ等を多数作成して、就業時間中無断でこれを配布し、又は許可なく会社構内の諸施設にところ構わず、これを掲示又は貼附し、職場規律を全く無視した。

特に、昭和二四年の越年資金闘争および昭和二五年の春季賃上げ闘争の際に撒布されたビラ類はおびただしいものがあり、その内容は「革命か餓死か、人民政府か破滅か……会社首脳部は労働者には強いが吉田売国政府には鼠の様に弱い、会社幹部とその手先は日本を破滅に導くものである」「日本民族の滅亡か復興か、戦争か平和か」「之が労働者をだまし、之が労働者を暴力団と同様と見、之が労働者を馬鹿扱いにし、心の中で労働者を犬猫の様に思つている彼等の正体だ」「職場を豚箱にするな、シヨンベン位させろ」「職場の監獄化反対」「電機部長の野郎大きなツラして現場をホツツキ、カントクしやがる」「平和的交渉をとなえているものは会社の手先」「川崎の従業員は八、〇〇〇円ベースの低賃金の為、飢餓におちいつてバタバタ斃れてゆく」等々、過激不穏な字句をつらねて、職制を誹謗し、同僚をそしり、事実を捏造流布して従業員を故意に不安におちいらしめるものが多かつた。

これらのアジビラ等の作成配布に関与した主たる原告は、左のとおりである。

原告谷口、水口、遠藤、篠原、神岡、石田、上山、角谷、久保、露本、西村、守谷、村上、長谷川。

原告の主張

壁新聞を会社構内で掲示したことはない(ただし二回だけ例外がある。これは、そうすることの特別の意義と必要のあつた場合であつた)。細胞は構外に壁新聞板をもつていた。又アジビラを就業時間中に配布したことはない。

38 細胞機関紙等による煽動

被告の主張

原告等は、川造細胞機関紙「ガントリークレーン」(責任者原告遠藤、元原告小林時則)、青年共産同盟機関紙「スクラム」(責任者原告田中)を発行し、「分裂主義者を追い出せ」とか「吉田売弁反動政権はボー大予算の破たんを労働者の低賃金とクビキリ、弾圧で喰い止めようとしている」等の記事論説を毎号掲載し、又原告矢野、前記石川利次、庁泰助等を同人とする文化サークル発行の「海燕」、原告遠藤の著述になる「イソツプ物語」等の刊行物を発行配布し、前記アジビラ等と相まつて、従業員の革命意識の昂揚を図るとともに、一般従業員を欺瞞煽動し、会社と従業員間又は非党員たる組合指導者と一般組合員とを離間せしめ、経営秩序や労使関係の攪乱につとめた。

原告の主張

「ガントリークレーン」「スクラム」を発刊したことはある。しかし、これらの発刊が何故に非難に値いするか、労働者の人権を無視する暴論である。ことに、「分裂主義者を追い出せ」とか「吉田売弁反動政権云々」が会社の秩序をどう乱すのか。市販の雑誌類にもこれらの文句を見出すことは、困難ではない。なお、「海燕」は細胞に関係なく、文学愛好者の同人雑誌であつたが、第四号からは組合の文芸雑誌としてとり上げられ、組合は二万円の補助金を支給した。石川等が関係したのは、それからである。

39 その他の歪曲宣伝

被告の主張

以上のほか、原告等は、日常の言動においても常に会社内外の凡百の事象をとらえて事実を歪曲誇張し、党ならびに細胞の方針を反覆宣伝し、従業員の不平不満を醸成し、革命意識の教育強化をはかつた。これは、原告の全員にあてはまる。

原告の主張

被告の主張するところが、よく判らない。労働者が資本主義に反対し、社会主義的な考え方をもつのはけしからん、という趣旨であろうか。

40 勤務上の非協力性

被告の主張

原告等全員は、就業時間中しばしば職場を離脱して時間を空費し、又職場にあるときも勤務態度は不真面で、上長の再三の注意警告に対しても、これをききいれないばかりか、かえつて反抗的態度に出ることが多かつた。又技能劣悪であるにもかかわらず、向上の熱意がさらになく、出欠は常ならず、又他の従業員と協調的でないため、業務に支障を与えた事例も多く、企業組織の一員としても、その資格を欠くところが少なくなかつた。その他就業時間中上長に面会を強要し、同僚を殴打し、寮規則に違反する等、従業員としての適格を欠く点も少なくなかつた。

原告の主張

原告等は故なく職場を離脱したことはない。勤務態度は真面目で、上長の注意を受けたことはない。技能はむしろすぐれているものが少なくない。例えば、原告神岡は一〇年足らずで工士補になつたが、これは一〇〇人中の数人の一人である。原告上山は、国鉄L4ターボ発電機のスリープ加工では、常に一位の作業成績であつた。その他、被告の主張をすべて否認する。

(別紙(四))

「個人別整理基準該当事実」

一、辞職願を提出しなかつた原告

(1) 遠藤忠剛

(単に原告と略称する。他の原告についても同様)

被告の主張

一、原告は、昭和一八年九月五日入社以来本件整理に至るまでの間、同一九年四月一日総務部庶務課文書掛主任、同二〇年三月一日勤労部給与課統計掛主任、同二〇年一〇月一六日電機部事務掛長(掛長というのは、職制の名称変更により、従来の主任を掛長と呼びかえたものにすぎない)、同二一年一一月一日総務部付、同二二年八月二五日艦船工場付、同二五年八月七日総務部付と、その部署を転々としたが、本件整理実施当時、川造細胞員として登録された共産党員であり、しかも昭和二一年川造細胞の結成当初から終始その指導的地位にあつた積極的な活動分子であつた。

二、原告は、入社当初よりその勤務態度に誠実を欠き、特に昭和二一年以降川造細胞の指導的分子として、党活動に専念し、ほとんど職務をかえりみず、かつ会社に対して非協力的態度に終始し、常に他の従業員に悪影響を与えた。すなわち、

(イ) 前記統計掛主任当時、原告は、就業時間中ロシヤ語による芸術論等の書物を読みふけり、職務に甚だ不熱心であり、かつ長期にわたる無断欠勤をした。

(ロ) 電機部事務掛長当時は、ほとんど日常の職務を放てきし、就業時間中、終始席を離れ、アカハタや党関係のパンフレットなどを持つて工場内を歩きまわり、その配付に当つたり、入党の勧誘を行い、又席にいるときも、職務に関係のない読書をしたり、原告尾崎、元原告の石川利次等党関係の者と職務外の談合を行うなど、勤務時間の大部分を党活動に費す実情にあつた。原告を総務部付としたのも、同人の勤務態度が一貫して不良かつ怠慢であつたからにほかならず、原告のいうがごとく、同人が職員組合の結成に関係したことを会社が嫌悪したからでもなく、又小倉電機部長の後任となつた矢野正己が原告を煙たくて追い出したわけでもない。

(ハ) 総務部付となつてからも、原告の態度にはいささかの反省の色もなく、むしろ、ますます無責任かつ放恣となり、遅刻が多かつたばかりでなく、ほとんど前記のような党の宣伝活動に従事するとともに、掛長待遇として正門を自由に通過できる通門証を与えられていたのを奇貨として、随時単独で又は原告尾崎等と共産党神戸市委員会へ出入し、党活動を行つていた。その間、短期間ではあつたが、石原総務部長より、原告に反省を求めるため、特別の仕事を与えず、職務に関連する読書等をなすべき旨を命じたが、原告は右指示を逸脱し、むしろ、仕事を与えられていないのを奇貨として、気まま、かつ奔放に党活動を行つた。

(ニ) 艦船工場付当時の勤務態度も同様で、その間被告会社の工場史の編さん準備を命ぜられたが、その仕事は、主として、先に作られた川崎造船四〇年史以降の記録を整理し、社報、所報等を基にして目録を作成することにあつたにかかわらず、三年後の昭和二五年頃まで記録の整理、目録の作成はもとより、一片の中間報告すら行わなかつた。又昭和二四年はじめ頃会社の製品カタログの作成を、三、四カ月の予定で命じられながら、無為に日を重ねて完成するに至らず、同年一一月の山中重役の渡欧に間に合わなかつた。かくして、その勤務態度は依然として劣悪であり、ほとんど成果らしい成果をあげるに至らなかつた。

(ホ) 原告は、東大法学部卒という学歴を有し、年令能力においても、近き将来中竪幹部職員として誠実に会社の職務に精励しなければならない地位にありながら、右のごとく、その関心はもつぱら党活動のみに向けられ、したがつて、その行動も常に党活動を第一義とし、会社の職員としての立場は第二義的ないし附随的なものとしか考えなかつた。その間会社は再三再四、原告に対し、注意を与え、又反省のため特別の機会を与えたにかかわらず、原告の非協力的態度は何等変るところがなかつた。かくして、原告は、再建途上の被告会社に対して非協力的態度に終始し、与えられた職務を忠実に遂行しないのみか、機会あるごとに、党的立場に立つて、会社の措置、運営を非難し、常に従業員一般にその趣旨の宣伝、煽動を行つた。かかる原告の言動は、同人の地位、経歴に照し、他の従業員に著しい悪影響を与えたのである。

三、原告は、別紙(三)記載の不法集団事件(ただし28をのぞく)中、

1 電機部不法デモ事件

4 石原選挙長吊し上げ事件

に直接参加したほか、その他の諸事件につき、川造細胞の指導的地位にある者として、その背後にあつて直接間接にその画策指導に当つた。

四、以上により、原告は、本件整理基準にいう「会社の再建に対し直接間接に会社の運営に支障を与える者」であり、又「他より指示を受けて煽動的言動をなし、他の従業員に悪影響を与え又はそのおそれのある者」であつて、さらには「事業の経営に協力しない者等会社の再建のため支障となる従業員」に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者に該当することが、明かである。

原告遠藤の答弁

一、原告の学歴および入社後の部署の変遷は認める。

二、電機部事務掛長当時、小倉電機部長の退任反対、復帰闘争(別紙(三)の1事件参照)が行われたが、当時の闘争委員長であつた矢野工作課長より原告に「会社は自分を電機部長にすると交渉してきたが、どうしよう」と相談を持ちかけたので、原告はかような裏切りを人間的に拒否した。原告が電機部事務掛長から総務部付にまわされたのは、組合役員の改選に当つて、原告が組合役員になれないようにするためであつた。

総務部付の当時は、原告には机も椅子もなかつた。

被告より工場史の編さんを命じられたことは、認めるが、しかし、資料が焼失していたので、原告は工場内を徘徊し、多年勤続の従業員や物知りから資料を集めるのほかなかつた。この努力と行動を、職制は党活動というのである。

三、アカハタの頒布の事実は認めるが、しかし、この頒布は職制の長の要求によるものも少なくなかつた。

四、原告に対する会社側の評価には、原告が進駐軍工事労務者用パンの現場労務者への不渡事件、労務者用ソーメンの横流し事件等、会社内の多くの不正を摘発し粛正を志したことが問題とされている。会社側は「原告に再三職場を転換して能力を発揮させようと配慮したが、いずれの職場においても上長の命に従わず、その職務を果さなかつた」というけれども、会社側の本当の配慮は、原告に自発的に退職せよということであつたと思う。

五、その他の答弁については、判決事実欄参照。

(2) 尾崎辰之助

被告の主張

一、原告は東大出身、昭和二二年三月造船設計課長より調査室次長を経て、技術研究室次長を命ぜられ、本件整理に至るまでその職にあつたのであるが、この間、自己の職責よりも党活動を第一義に考え、勤務時間の内外を問わず終始党活動に専念していたもので、本件整理実施当時川造細胞員として登録された共産党員であり、原告遠藤とともに川造細胞の指導的地位にあつたものである。すなわち、

(イ) 原告の勤務する技術研究室は、他の建物と隔離して設けられてあつたが、原告は、右研究室を就業時間中にわたつて恣に、或は川造細胞の集会に使用し、或は原告遠藤、市田、神岡、元原告の小林等と職務に関係のない話合の場に利用して、他の研究室勤務者の勤務を阻害した。

(ロ) 同研究室は原告によつてアカハタのセンターとして利用され、毎朝相当部数のアカハタが同研究室に持ち込まれ、これを数人の党員が持ち帰つて、工場内各所に配布されていた。

(ハ) 原告は勤務間時の大部分を、党員との連絡、打合せ、ならびに民科、神戸ニユース、アジビラその他党関係の原稿の作成に費したほか、その職務に関係のない政治、経済、哲学、論理等の読書に費し、又は時間中職務に関係なく、しばしば外出し、その職務を怠るとともに、研究室の同僚に対し、勤務時間中或は入党を勧誘し、或はアカハタの購読勧誘、配布をした。

(ニ) 原告は、しばしば「米軍の仕事をすることは、米国の帝国主義侵略戦争に協力するものであるから仕事をするな」とか「世界機構の根本的変革を予見出来ず、したがつてそれに対して何等手も打てないのは、会社の幹部が無能であるからだ」などと、公然と反占領軍的言辞や会社幹部を中傷誹謗する等の言動を行つた。当時被告会社は米軍の管理工場であつた関係からいつても、幹部職員たる原告がこのような言動をすることは、会社運営の根幹にふれる問題であつて、極めて重大な非協力的言動といわなければならない。

二、原告は別紙(三)記載の不法集団事件(ただし28をのぞく)中

4 石原選挙長吊し上げ事件

5 公安条例反対被検挙者釈放要求デモ事件

に直接参加したほか、その他の諸事件につき、川造細胞の指導的分子として、蔭においてこれを画策指導した。

三、以上により、原告は、原告遠藤と同様に本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者に該当することが、明かである。

原告尾崎の答弁

一、原告は、昭和三年三月東大工学部船舶工学科を卒業した造船技術者で、同四年二月、当時の川崎造船所に入社以来、常に同僚に先んじて主任、掛長、課長に任命昇進した。被告会社は元来海軍の庇護の下に発展した会社であつたが、敗戦で海軍が解体するや、当時造船設計課長であつた原告は、逸早く当時唯一の造船であつた漁船の受注に着目し、率先船主、官庁等と折衝して会社再建の方途に力をつくしたのであつて、会社従業員としては、模範的な資質をもつていたのである。

二、しかるに、昭和二一年四月、原告は職員組合の組合長に選ばれ、労働協約締結のため努力し、さらに組合長に再選され、昭和二二年二月兵庫県県会議員選挙に共産党支持の下に立候補した関係もあつてか、会社は同年四月の人事異動で、原告が適任であることを万人が認めているにかかわらず、同人と同期の工作課長を造船部長とし、原告を工場付として列外に投げ出し、それから一カ月程経て調査室次長に任命し、昭和二三年秋技術研究室次長に任命した。

三、原告は、焼失してしまつた参考書の購入と外国文献の輸入に努力した。この間手塚社長から「日本を中心とする将来の海運とこれに適合する船型、機関」の研究を命ぜられたことがあるが、この研究には政治、経済、商業、交通、工業、技術等多数の専門家の協力を要するものである。原告は一応「諸論」として問題の所在の報告した。又、技術研究室次長在任中、泉州工場建造の貨物船の速力が予定より少ないので、その原因調査を命ぜられたことがある。これは、造船、造機の設計および現場で解決すべき問題であるが、それらの責任者にはその原因が判らなかつたのである。原告は調査し、これを解決した。

(3) 市田謙一

(市田以下の原告については、被告の主張だけを記載し、これに対する原告の答弁は他の個所にゆずる。)

一、原告は昭和一四年京大出身、本件整理実施当時、資材部購買課燃料木材掛長の職にあつたが、当時川造細胞員として登録された共産党員であり、細胞職員班の財政担当者として重要な地位を占め、特に職員細胞のキヤツプの原告遠藤とは常に密接な連絡を保つて行動を共にし、日常積極的に党活動に従事し、担当業務を放てきすることが少なくなかつた。すなわち、

(イ) 原告は就業時間中、或いは自席において、或は恣に他の職場に赴いて、職務に従事しないことが多く、その執務は極めて誠実を欠くものであつた。しかも、これらの時間は、もつぱら党関係の活動に充当せられ、就業時間中或いはアカハタを自ら配布し又はその職務上の地位を利用して部下の女子職員にアカハタを配布させ、或いは党関係者と長時間にわたつて談合するなどのことが極めて頻繁であつた。

(ロ) 昭和二四年越年闘争の際、日は不詳であるが、従業員約三〇〇名が綜合事務所前でデモを行い、長時間にわたつて気勢をあげたとき、原告が就業時間中であるにもかかわらず、資材部事務所から上半身を乗り出して「がんばれ、がんばれ」と大声で右デモを煽動した。原告が右デモに激励を与えたこと自体、必ずしも不当違法だとはいえないが、当時スト権は確立されず、しかも組合の指令もなかつたのであるから、原告がかかる山猫的デモに対して激励を与える言動は、原告の会社に対する非協力的態度の一面を露呈しているものである。

(ハ) 昭和二五年春の賃上げ闘争中、原告の所属する資材部において開催された職場集会において、外部の業者達が来社しこれを傍聴しているにもかかわらず、「賃上貫徹のためには、会社なんてどうでもいい、潰れてもかまわん」「会社が潰れて国家が管理した方がいいんだ」等、極めて煽動的かつ過激な発言を行つた。

(ニ) 原告は、共産主義者としての思想上の立場から会社の業務には全く熱意を示さず、掛長としての職務を怠つた。元来原告の担当していた燃料木材掛長の仕事は、多数の業者との折衝を必要とするものであり、業者の来訪した場合は、即時に自身又は部下をしてこれに応接し、可及的迅速かつ円満に事務を処理することが要請されている職務である。しかるに、原告は、右のごとく党活動等のために在席せず、仕事を放棄している時間が多く、又時と処とを選ばずして非協力的かつ過激な言動があつたので、一面部下従業員の信頼を失う結果になるとともに、業者との関係においても円滑を欠くに至り、勢い、原告の在職中は掛長としての事務が停滞する傾向が少なくなかつた。上司の武内信雄より再三注意を与えたにもかかわらず、原告は自らの立場を固執し、何等改善するところがなかつた。

二、原告は別紙(三)記載の不法集団事件(ただし28をのぞく)に直接参加していないけれども、川造細胞員として、背後にあつてその画策に関与している。

三、以上により、原告は、本件整理基準にいう「会社の正常な運営を阻害し、又は阻害する危険性がある者」に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者に該当することが、明かである。

(4) 橋本広彦

一、原告は本件整理実施当時、被告会社の東京支店総務部庶務課株式掛に所属していた職員であり、当時全造船書記局細胞員として登録された共産党員で積極的な活動分子であつた。すなわち、

(イ) 原告は、昭和二二年から同二五年四月まで全造船本部役員として、東京に常駐していたが、その間特に昭和二四、五年当時は毎月一回位来神し、就業時間中組合事務所に細胞員等を招集したり、或いは作業場に赴いて長時間にわたり、入党勧誘、アカハタの配布、その他細胞員との談合等を行い、会社の業務を阻害した。

(ロ) 別紙(三)記載の不法集団事件(ただし、4と28をのぞく)中

6 泉州工場暴行事件

に直接関与したほか、その他の諸事件につき、書記局細胞員として背後にあつてその画策に参画した。

(ハ) 原告は昭和二五年四月全造船本部より会社に復帰し、東京支店庶務課株式掛となつたが、当時会社は企業再建整備法に基く新会社発足の時期に当つていたため株式取扱事務は極めて繁忙であり、課員は連日残業する状態であつたにかかわらず、原告は無届欠勤、無断私用外出ならびに早退が極めて多く、かつ業務の必要上残業を命じてもこれに従わなかつた。これは社外における党活動のためと推認されるが、そのため株式課の業務は渋滞し、株式課を訪れる株主に迷惑をかけたことは、一再にとどまらなかつた。特に名義書換期限の定められている事務を期間中に処理しなかつたため、株主等に迷惑を与え、会社の信用を失墜したこともあつた。さらに、原告は社内においても就業時間中職務を放てきして、特に若い職員に対し、党関係の雑誌や機関紙等を配布し或は党の宣伝のため話し込むなど、勤務態度は極めて悪く、誠実を欠いていた。

二、以上により、原告は本件整理基準にいう「直接間接に会社運営に支障を与え又は与えようとする危険性のある者」「他より指示を受けて煽動的言動をなし他の従業員に悪影響を与え又はそのおそれのある者」に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者に該当することが、明かである。

(5) 赤田義久

一、原告は昭和二四年東大卒と同時に入社、見習社員として人事部労働課調査掛に勤務し、その後同課教育掛に転じたが、昭和二四年の末頃職場委員に選出される前後頃から川造細胞活動に同調的な傾向がみえ、本件整理実施当時川造細胞員として登録されていなかつたが、右細胞の積極的な支持者として行動していたもので、共産党の同調者であつた。

二、原告は職務の遂行に当り上司の指示に従わず、その執務態度に誠実を欠くものが少なくなかつた。すなわち、

(イ) 昭和二四年五月から七月にわたつて行われた泉州工場閉鎖業務に関して、同僚の労働課員が不眠不休をもつて対処しているにかかわらず、原告は「閉鎖に反対である」と公言し、塚本掛長より命ぜられた解雇に関連する事務に全く従事しなかつた。その際原告に対し、塚本掛長、今井掛員等より注意を与えたが、原告は業務に従事しようとせず、そのため他の労働課員に与える影響も少なくなかつたので、やむをえず、原告を解雇事務からはずし、他の業務につかせた。

(ロ) 昭和二五年五月賃上げ闘争に際し、上司より調査掛員として現場の調査を命ぜられたのに対し、その指示に従わず、又いやいやながら指示に服した場合でも、その調査は極めて杜撰であり、その報告も通り一辺で、業務に対する不誠実のほどがうかがわれた。

(ハ) 日常の勤務振りも極めて誠実を欠き、就業時間中職場を離脱することが多く、又在席している場合でも、或はエスペラントの本を読んだり、原告中村等細胞員と話し合う等の行為が少なくなかつた。

三、原告は共産主義思想の持主であつたが、会社の業務に対しても、その立場から極度の偏見を持ち、日常反会社的、非協力的言動が少なくなかつた。

(イ) 昭和二四年の越年闘争ならびに昭和二五年の賃上げ闘争の際発生した不法デモ、吊し上げ等の諸事件に関連し、「デモをやるのは労働者として当然だ」、「うちの細胞はなかなかよくやつている」などの言動を公然と行い、職場秩序びん乱の行為を労働課員としての職責を忘れて礼賛する発言をした。

(ロ) さらに、昭和二五年六月、労働課内の職場集会において、「賃上げ闘争は平和と独立のための闘争だ、単なる賃上げだけに終つてはならない」とか、「侵略者米軍の仕事をするな」などのアジ演説を行い、これを注意した中江労働課長、塚本掛長の忠言に対しても何等反省するところがなかつた。かかる言動は、当時米軍の管理工場としてその業務を行つていた被告会社においては、単なる政治的意図の表明にすぎないと解すべきではない。

四、以上により、原告は、本件整理基準にいう「会社の再建に対し公然であると潜在的であるとを問わず、直接間接に会社の運営に支障を与え、

事業の経営に協力しない者、会社の再建のため支障となるような一部従業員」に該当し、かつマ書簡にいう共産主義の支持者であることが、明かである。

(6) 中村隆三

一、原告は、昭和一九年名古屋高商卒、本件整理実施当時、人事部人事課雇傭掛に所属していた職員であるが、当時川造細胞員として登録された共産党員であり、特に昭和二四、五年当時は労組役員として執行部内に組合グループなる党組織を結成して党活動を積極的に展開した最も有力な活動分子の一人である。すなわち、

(イ) 原告が組合書記長当時、労組書記局を党の集会の場所に使い、或いは就業時間の内外を問わず、しばしば細胞員を書記局に集め、長時間にわたつて談合していた。

(ロ) 原告は、昭和二四年労働課雇傭掛に勤務していた当時、原告遠藤が同人の席に持参したアカハタの束を、就業時間中配布していたし、又入党勧誘もしていた。

二 (イ) 原告は、昭和二二年一月から同二四年六月に至る間の労働課調査掛勤務当時、労働協約、就業規則等に関する職務を担当していたが、入党後は、職務に対する意欲を全く欠き、会社の方針に従わず、上司の命令に反する言動が多かつた。例えば、原告は労働協約案の起草を命ぜられ、その起草に当つての会社の方針を労働課長より示されたにもかかわらず、原告はその指示に反して、人事は労使の共同管理にすべきであるとか、会社内の政治活動は認めなければならない、という趣旨の原告独自の意見に基く草案を作成し、上司よりその非や行過ぎを指摘されるや、露骨に反対の態度を表わし、じごその仕事を放てきして顧みなかつた。また、昭和二四年春泉州工場閉鎖問題に関連して労働課全員が右業務に当つていた際にも、原告は、右業務を担当する調査掛の一員でありながら、「おれは閉鎖や首切りは嫌だ。工場閉鎖は資本主義の矛盾の現われだ」「労働者は会社がつぶれてもかまわんから徹底的に反対すべきだ」などと公言し、上司より作業を行うことを命ぜられたにもかかわらず、これに従わなかつた。

(ロ) 原告は、昭和二五年六月組合書記長を辞して旧職場に復帰した後も、態度を改めず、「資本主義をつぶし共産主義社会にしなければならない」などといつて、同僚に入党を勧誘したり、或いは同人の席に就業時間中原告篠原等を集めて他の職員の面前で公然職務外の談合をした。また、全造船機関紙に「人民の血で肥つた川崎資本の実態」と題する記事を投稿し、事実を歪曲して会社を誹謗中傷した。

三、原告は別紙(三)記載の不法集団事件(ただし4と28をのぞく)中、

12 造機工作部不法デモ事件

33 外部団体歓迎集団職場離脱事件

に直接参加したほか、その他の諸事件につき、労組書記長の他位を利用して組合グループの中心人物として陰に陽にその指導に当つた。

四、以上により、原告は、本件整理基準にいう「直接間接に会社運営に支障を与え、又は与えようとする危険性のある者、他よりの指示を受けて煽動的言動をなし、他の従業員に悪影響を与え又はそのおそれのある者、又は事業に協力しない者」に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者に該当することが、明かである。

(7) 谷口清治

一、原告は、本件整理実施当時、造機工作部製罐課に所属していた工員で、川造細胞員として登録された共産党員であり、積極的な活動分子であつた。

二 (イ) 原告は就業時間中、始終職場を離れ、アカハタ、アジビラ等を配布し、党員間の連絡を行うなど、党活動に専念し、作業を放てきした。

(ロ) 原告は別紙(三)記載の不法集団事件(ただし4をのぞく)中

8 電機部における配置転換組編成替妨害策動事件

14 造機工作部職場会合引延ばし事件

18 所長室前坐り込み、暴行、集団職場離脱事件

18 造機工作部工務課長面会強要ならびに集団総退社事件

20 造機工作部製罐工場一齊総退社事件

23 電機部長ならびに工場課長吊し上げ事件

27 職員代表吊し上げ事件

28 証拠写真破棄強要事件

29 造機工作部長室座り込み面会強要事件

34 造機工作部職場会合引延ばし事件

に関与して常に指導的な役割を果たし、職場の秩序を著しく乱し、会社の業務を阻害したほか、その他の諸事件についても、川造細胞員としてその画策に参画したものである。

三、以上により、原告は、本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者であることは、明かである。

(8) 仲田俊明

一、原告は、本件整理実施当時、造機工作部機械課工具掛に所属していた工員で、川造細胞員として登録された共産党員であり、積極的な活動分子であつた。

二 (イ) 原告は就業時間中に作業を放棄してアカハタ、アジビラの購読、配布等を行い、又しばしば元原告の原光雄の席に赴き、原告遠藤、尾崎、久保、元原告小林時則等と長時間にわたつて談合するなど、勤務態度は極めて不良であつた。(元原告原光雄は、当時細胞の理論的指導者の一人であり、同人の職場は工具工場の入口に隣接していた。)

(ロ) さらに、原告は、工具工場の黒板に、毎日のように「植民地化反対」とか「会社は我々を奴隷のようにしている」というような、会社を誹謗する趣旨をふくむ壁新聞を掲示したほか、職場においても些細な問題をとらえて当時の上司たる本谷機械課長、佐伯掛員を多衆の先頭に立つて吊し上げるなど、職場の秩序をみだす行為が多かつた。

(ハ) 原告は、別紙(三)記載の不法集団事件(ただし4と28をのぞく)中

5 公安条例反対被検挙者釈放要求デモ事件

7 青年部白旗事件

12 造機工作部不法デモ事件

13 造機工作部不法デモ事件

15 所長室前座り込み、暴行、集団職場離脱事件

18 造機工作部工務課長面会強要ならびに集団退社事件

29 造機工作部長室座り込み面会強要事件

33 外部団体歓迎集団職場離脱事件

に関与して積極的に活動したほか、その他の諸事件についても、川造細胞員として、その画策に参画した。

三、以上により、原告は、本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者であることが明かである。

(9) 田中利治

一、原告は、本件整理実施当時、電機部工作課機械掛に所属する工員で、川造細胞員として登録された共産党員であり、積極的な活動分子であつた。

二 (イ) 原告は、就業時間中、アカハタ、スクラム等、党関係機関紙等を配布或は購読するなど、始終作業を放棄し、又電機部電池場、道具庫等において電機部所属細胞員の原告水口、石田等と長時間にわたつて談合し、作業に従事しなかつた。

(ロ) 原告は、別紙(三)記載の不法集団事件(ただし4と28をのぞく)中

2 電機部長吊し上げ事件

5の(1) 公安条例反対暴力デモ事件

7 青年部白旗事件

8 電機部における配置転換、組編成替妨害策動事件

9 電機部掛員吊し上げ事件

10 電機部工作課長吊し上げ事件

11 電機部および造機部不法デモ事件

15 所長室前座り込み、暴行、集団職場離脱事件

22 電機部貸渡し拒否煽動事件

23 電機部長ならび工作課長吊し上げ事件

24 電機部長吊し上げ、ならびに集団総退社事件

32 電機部職場会合引延ばし作業放棄事件

において、常にその先頭に立つて指導的役割を果したほか、その他の諸事件についても、川造細胞員として、その画策に参与した。

三、以上により、原告は、本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者であることが、明かである。

二、辞職願を提出した原告

(10) 角谷一雄

一、原告は、本件整理実施当時、造機工作部機械課機械掛に所属する工員であつたが、当時川造細胞員として登録された共産党員であり、機械細胞の有力メンバーとして、就業時間中にアカハタ等の配布、入党勧誘、細胞会議を行うほか、職制に反抗し、会社を誹謗する言動が多かつた。

二、原告は、別紙(三)記載の不法集団事件(ただし4と28をのぞく)中

3 扶桑鋼管摘発隊被検挙者釈放要求デモ事件

5の(2) 公安条例反対被検挙者釈放要求デモ事件

7 青年部白旗事件

13 造機工作部不法デモ事件

15 所長室前座り込み、暴行、集団職場離脱事件

18 造機工作部工務課長面会強要ならびに集団総退社事件

19 造機工作部機械工場一齊総退社事件

23 電機部長ならびに工務課長吊し上げ事件

26 ホツピングおよびプラノミラ機械作業妨害事件

27 職員代表吊し上げ事件

29 造機工作部長室座り込み面会強要事件

に積極的に参加したほか、その他の諸事件についても、川造細胞員として、その画策に関与したものである。

三、以上により、原告は本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者であることが、明かである。

(11) 篠原正一

一、原告は、本件整理実施当時、組合専従書記(出身は造機工作部機械課工員)であつたが、当時川造細胞員として登記された共産党員であり、組合専従書記の地位を利用して極めて積極的に党活動を行つていたものであるが、特に昭和二四年頃よりアカハタ配布の責任者となり、組合書記局を中心に職場の細胞員と連絡をとり、アカハタ等の配布に当るとともに、組合事務所においても、日常細胞機関紙、アジビラの作成に従事する一方、組合書記局を党の会合場所として利用させるなど、その行動は極めて活発であつた。

二 (イ) 原告は、就業時間中恣に職場に出向いて、アカハタその他党関係の機関紙、ビラ等の配付に従事し、他の従業員の就業を妨げた。

(ロ) 原告は、常時、会社を誹謗する不当な内容の細胞名義のアジビラ等の作成に従事していた。

(ハ) 原告は、別紙(三)記載の不法集団事件(ただし4と28をのぞく)中

15 所長室前座り込み、暴行、集団職場離脱事件

に参加したほか、その他の諸事件につき、他の細胞員とともに、その画策に関与した。

三、以上により、原告は、本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者であることが、明かである。

(12) 矢田正男

一、原告は、本件整理実施当時、造機工作部仕上組立課に所属する工員であつたが、当時川造細胞員として登録された共産党員であり、積極的な活動分子であつた。ことに、昭和二五年春の春季賃上げ闘争時においては、組合執行委員たる立場を利用し、同じく執行委員であつた原告久保、中村、元原告の宮崎伍郎、村上文男、本清甚助等とともに、川造細胞組合グループを組織し、労働組合を党の指向する方向に導かんとして指導的立場に立つて活動していた。

二 (イ) 原告は、職場においては、就業時間中、始終職場を離れ、入党勧誘、アカハタ等党関係機関紙の配布を行うなど、作業を放てきすることが多く、その勤務態度は極めて不誠実であつた。さらに、組合役員当時においても、その地位を利用して、就業時間中職場を徘徊し、作業中の従業員に対し、党の宣伝を行い、不平不満の助長を煽動し、入党を勧誘するなど、他の従業員の作業を阻害することも少なくなかつた。

(ロ) 原告は、別紙(三)記載の不法集団事件(ただし4をのぞく)中

5の(1) 公安条例反対暴力デモ事件

12 造機工作部不法デモ事件

14 造機工作部職場会合引延ばし事件

15 所長室前座り込み、暴行、集団職場離脱事件

17 フアンマノー号作業員不法集団職場放棄ならびに外業長吊し上げ事件

21 造機工作部内火機装工場一齊総退社事件

27 職員代表吊し上げ事件

28 証拠写真破棄強要事件

31 大金属オルグ侵入事件

38 外部団体歓迎集団職場離脱事件

に参加し、常にその先頭に立つて指導的役割を果したほか、その他の諸事件についても、川造細胞員として、その画策に関与した。

三、以上により、原告は、本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者であることが、明かである。

(13) 守谷米松

一、原告は、本件整理実施当時、造機工作部製罐課に所属する工員であつて、当時川造細胞員として正式に登録はされていなかつたけれども、共産党員として川造細胞に所属し、その活動は積極的であつた。

二 (イ) 原告は就業時間中、アカハタ、ビラ等を配布し、又職場を離脱して細胞会議等に出席していた。

(ロ) 原告は、別紙(三)記載の不法集団事件(ただし4と28をのぞく)中

12 造機工作部不法デモ事件

13 造機工作部不法デモ事件

15 所長室前座り込み、暴行、集団職場離脱事件

18 造機工作部工務課長面会強要ならびに集団総退社事件

20 造機工作部製缶工場一斉総退社事件

29 造機工作部長室座り込み面会強要事件

33 外部団体歓迎集団職場離脱事件

34 造機工作部職場会合引延ばし事件

に参加して積極的に活動したほか、その他の諸事件についても、細胞所属員として、その画策に関与した。

三、以上により、原告は、本件整理基準に該当し、マ書簡にいう共産主義者であることが、明かである。

(14) 西村忠

一、原告は、本件整理実施当時、造機工作部機械課工具工場に所属する工員であつて、川造細胞の積極的な支持者であつた。特に昭和二四年頃より細胞活動に積極的な協力の態動を示し、就業時間中にアカハタその他の細胞機関紙、アジビラ等を配布するなどして、職場離脱が多く、勤務態度は極めて不良であり、原告仲田とともに工具工場の所属掛長を吊し上げる等、職場の秩序をみだす行為があつた。

二、原告は、別紙(三)記載の不法集団事件中

7 青年部白旗事件

12 造機工作部不法デモ事件

18 造機工作部不法デモ事件

15 所長室前座り込み、暴行、集団職場離脱事件

18 造機工作部工務課長面会強要ならびに集団総退社事件

33 外部団体歓迎集団職場離脱事件

に細胞員とともに参加した。

三、以上により、原告は、本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者の支持者であることが、明かである。

(15) 久保春雄

一、原告は、本件整理実施当時、造機工作部機装課に所属する工員であつて、当時川造細胞員として登録された共産党員であり、前記13矢田正雄と同様、積極的に党活動に従事した。

二 (イ) 原告は、昭和二三年八月に組合専従役員となり、同二五年六月職場に復帰したが、その間一貫して党の宣伝活動につとめ、作業時間中工場内を徘徊して作業中の従業員に対し、入党を勧誘し、或はアカハタ、細胞のアジビラ、壁新聞を社内で配布、掲示するなど、作業を放棄し、或は他の従業員の作業を妨害する行為が多かつた。

(ロ) 原告は、別紙(三)記載の不法集団事件(ただし4と28をのぞく)中

5の(1) 公安条例反対暴力デモ事件

12 造機工作部不法デモ事件

13 造機工作部不法デモ事件

14 造機工作部職場会合引延ばし事件

15 所長室前座り込み、暴行、集団職場離脱事件

17 フアンマノー号作業員不法集団職場放棄ならびに外業長吊し上げ事件

21 造機工作部内火機装工場一斉総退社事件

29 造機工作部長室座り込み面会強要事件

に参加して指導的な役割を果したほか、その他の諸事件についても、川造細胞員として、その画策に関与した。

三、以上により、原告は、本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者であることが明かである。

(16) 水口保

一、原告は、本件整理実施当時、電機部工作課に所属していた工員であるが、川造細胞員として登録された共産党員であり、積極的な活動分子であつた。

二 (イ) 原告は、就業時間中、アカハタ等党関係機関紙、アジビラ、壁新聞を配布或は掲示して、反会社的煽動を行い、党の宣伝或は入党勧誘を行うとともに、電池場、道具庫等において電機部所属細胞員としばしば連絡、会合を行うなど、長時間にわたつて職場を離脱し、作業を放てきすることが多かつた。

(ロ) 原告は、別紙(三)記載の不法集団事件(ただし4と28をのぞく)中

2 扶桑鋼管摘発隊被検挙者釈放要求デモ事件

3 電機部における配置転換組編成替妨害策動事件

7 青年部白旗事件

8 電機部長吊し上げ事件

9 電機部掛員吊し上げ事件

10 電機部工作課長吊し上げ事件

15 所長室前座り込み、暴行、集団職場離脱事件

22 電機部貸渡し拒否煽動事件

23 電機部長ならびに工作課長吊し上げ事件

24 電機部長吊し上げ、ならびに集団総退社事件

32 電機部職場会合引延ばし作業放棄事件

に参加し、特に右の電機部内の事件に関しては、原告田中とともに常に指導的役割を果したほか、右記載以外のその他の諸事件については、川造細胞員としてその画策に関与した。

三、以上により、原告は、本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者であることが、明かである。

(17) 長谷川正道

一、原告は、本件整理実施当時、電機部工作課に所属する工員であるが、川造細胞員の積極的支持者であつた。

二 (イ) 原告は、就業時間中しばしば職場を離脱して、原告水口、元原告石川等と談合し、或は党関係の機関紙、ビラ等を配布して作業に従事しなかつた。

(ロ) 原告は、別紙(三)記載の不法集団事件中

5の(1) 公安条例反対暴力デモ事件

7 青年部白旗事件

10 電機部工作課長吊し上げ事件

15 所長室前座り込み、暴行、集団職場離脱事件

に参加した。

三、以上により、原告は、本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義の支持者であることが、明かである。

(18) 上山喬一

一、原告は、本件整理実施当時、電機部工作課に所属する工員であるが、川造細胞の有力な支持者であつた。

二 (イ) 原告は、就業時間中しばしば職場を離脱し、原告田中、水口等とともに細胞会議に出席し、職務につかなかつた。

(ロ) 原告は、別紙(三)記載の不法集団事件中

5の(1) 公安条例反対暴力デモ事件

7 青年部白旗事件

15 所長室前座り込み、暴行、集団職場離脱事件

24 電機部長吊し上げ、ならびに集団総退社事件

32 電機部職場会合引延ばし作業放棄事件

に参加した。

三、以上により、原告は、本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義の支持者であることが、明かである。

(19) 村上寿一

一、原告は、本件整理実施当時、電機部電装課に所属する工員であるが、川造細胞員として登記された共産党員であり、細胞内における積極的な活動分子であつた。

二 (イ) 原告は、昭和二一年より昭和二五年六月まで組合専従役員に就任し、相当期間にわたつて全造船近畿協議会長の地位にあつて、組合員に対し相当大きい影響力を有するものであつたが、その間、しばしば会社工場内に出入し、入党勧誘のビラを配布したり、壁新聞を無断で掲示したり、或は職場に赴いて就業時間中党の宣伝、入党勧誘などを行つて職場秩序をみだした。

(ロ) 原告は昭和二五年六月組合役員の地位を退き、電装仕上職場に復帰したが、その後就業時間中職場を離れて専従当時と同様、他の従業員に対し入党を勧誘する等の行為が絶えなかつた。

(ハ) 原告は、別紙(三)記載の不法集団事件(ただし4と28をのぞく)に直接参加はしていないけれども、川造細胞員として、その画策に関与した。

三、以上により、原告は、本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者である。

(20) 石田好春

一、原告は、本件整理実施当時、電機部工作課に所属していた工員であるが、川造細胞員として登録された共産党員であり、昭和二四年当時は同細胞の書籍担当者として党員を教育指導する立場にあり、かつ電機部細胞の財政担当者であつて、細胞の指導的人物として積極的活動を行つていたものである。

二 (イ) 原告は、その職務に甚だ不熱心で、就業時間中しばしば職場を離脱し、入党勧誘、アカハタ、アジビラ等の配布、細胞の連絡会合等を行つた。

(ロ) 原告は、別紙(三)記載の不法集団事件(ただし4と28をのぞく)中

2 電機部長吊し上げ事件

5の(1) 公安条例反対暴力デモ事件

5の(2) 公安条例反対被検挙者釈放要求デモ事件

8 電機部における配置転換組編成替妨害策動事件

15 所長室前座り込み、暴行、集団職場離脱事件

24 電機部長吊し上げ、ならびに集団総退社事件

32 電機部職場会合引延ばし作業放棄事件

に直接参加したほか、その他の諸事件についても、川造細胞員としてその画策に関与した。

三、以上により、原告は、本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者であることが、明かである。

(21) 神岡三男

一、原告は、本件整理実施当時、造機工作部機械課に所属する工員であるが、川造細胞員として登録された共産党員であつて、細胞の指導的立場に立つて積極的に党活動に従事していたものである。

二 (イ) 原告は、就業時間中に職場を離脱して、アカハタ、アジビラ等の配布、入党勧誘、細胞会議への参加等、党活動に従事し、作業を放てきした。

(ロ) 原告は、別紙(三)記載の不法集団事件(ただし4と28をのぞく)中

13 造機工作部不法デモ事件

15 所長室前座り込み、暴行、集団職場離脱事件

18 造機工作部工務課長面会強要ならびに集団総退社事件

19 造機工作部機械工場一斉総退社事件

26 ホツピングおよびプラノミラ機械作業妨害事件

29 造機工作部長室座り込み面会強要事件

34 造機工作部職場会合引延ばし事件

に積極的に参加したほか、その他の諸事件についても、川造細胞員として、その画策に関与した。

三、以上により、原告は、本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者であることが、明かである。

(22) 露本忠一

一、原告は、本件整理実施当時、電機部工作課に所属する工員であるが、川造細胞員として登録された共産党員で、積極的な活動分子であつた。

二 (イ) 原告は、就業時間中しばしば職場を離脱して電機部電池場、道具庫等において原告田中、水口等電機部所属の細胞員等と連絡会合し、或いは職場内においてアカハタ、アジビラ等党関係の文書を配布した。

(ロ) 原告は、別紙(三)記載の不法集団事件(ただし4と28をのぞく)中

10 電機部工作課長吊し上げ事件

15 所長室前座り込み、暴行、集団職場離脱事件

24 電機部長吊し上げ、ならびに集団総退社事件

に参加して積極的に活動したほか、その他の諸事件についても、川造細胞員として、その画策に関与した。

三、以上により、原告は、本件整理基準に該当し、かつマ書簡にいう共産主義者であることが、明かである。

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